百醜千拙草

何とかやっています

型どおり

2020-01-03 | Weblog
明けましておめでとうございます。
無事に新年を迎えられて(めでたいと言うほどではないですけど)良かったと思います。

挨拶の文句は心がこもっていなくても、型どおりにしておくものですね。なんとなく型どおりの挨拶だけなのもつまらぬので、一言、「1年後も、こうしてご挨拶できることを祈っております」と付け加えたら、何か具合でも悪いのかと変な心配をかけてしまいました。

型どおりといえば、昔の大学病院の教授回診を思い出します。この権威主義的なセレモニーは、今から思うと、研修医以外のほとんどの関係者はバカバカしいと思っていただろうな、と想像するわけですが、イワシの頭も信心から、多少のプラシーボ効果も確かにありました。

当時の教授は、患者さんの病気が何であれ、聴診器を前後に4箇所ずつ当て、お腹をなぜて、背中をぽんぽんした後、なぜか最後に「よろしく、どうぞー」と言うのでした。最初は、それを聞くたび、一体何が「よろしく」で、何を「どうぞー」しているのか、と不審に思ったものでした。また、この言葉は患者さんに向けて発せられているように見えるのに、どうも患者さんとは微妙に視線があっていませんでした。

この「よろしく、どうぞー」を最初に聞いた時は、そのまま何のフォローもなく、次の患者さんに移ったので、きっと、全部言うのも時間がかかるから、あとは担当医に聞いて下さいね、ウインク、ウインク、てな感じで、長いコメントを省略したものだ、と解釈していたのですが、これが毎週、繰り返されるうちに、この言葉には、全く何の意味もないのだ、ということがわかりました。つまり、こんにちは、こんばんは、お大事に、なんかと同じような調子で、この東京出身の教授は「よろしく、どうぞー」と言っていたのです。これは関東ではよく使われる挨拶なのでしょうか?

聴診器を当ててお腹をなぜて背中をぽんぽんして「よろしく、どうぞー」というのは、問題に際して、アベが「私の責任において真摯に対処する」と言うのと同じで、その行為や言葉が本来、意味しているものは、すでに失われており、行為や発言そのものが目的と化しています。

患者さんも、「よろしく、どうぞー」に意味がないことは2巡目ぐらいでほぼ理解していただろうと想像します。しかし、教授回診で教授が発する言葉だから、それをありがたく押し頂いて頭を下げるものだと、型どおりに反応していたのでしょう。きっと「ハッパフミフミ」とか「ヘイヘイホー」と言われても、黙って頭を下げたことだろうと思います。

そう思うと、世の中の「型どおり」の物事がバカらしくなってきます。若い頃は、一旦、バカらしいと思うと、もうダメでした。通夜に言って「この度はご愁傷様です」というのが言えなくなったこともあります。遺族の人の悲しみを考えると、型通りの挨拶をするのが悪いような気がしたのです。その時は、正直に「何と言ってよいか、、、」と言葉をつまらせたら、察してもらえました。

しかし、年をとってきてから、許容性が増えたのか、邪魔くさくなったのか、型どおりのものに、いちいち反感を覚えることも減り、平和になりました。型どおりはラクです。頭を使う必要もなく、機械的にやれば良い。それで、世の中はそれなりに回っています。(それでも、許せないのは政府の答弁ですが。型通りのふざけた答弁がウソまみれですからね。)

それはともかく、型から外れるのはエネルギーがいりますし、出る釘は打たれる社会ですから、最近は、「よろしく、どうぞー」と言い続けた教授の気持ちが多少はわかるようになってきました。きっと、周りの人間同様、本人もバカらしいなあ、と思っていたことでしょう。ひょっとしたら、「お大事に」という型どおりの挨拶をするのがイヤでちょっとひねって、「よろしく、どうぞー」だったのかもしれません。何れにしてもバカらしいことに違いはないです。けれども、誰も、教授回診が型はずれであることを望まない以上、型通りにやるのが世の中をスムーズに回すにはベストだ、という極めて日本的思考がこのセレモニーを成り立たせていたのでしょう。

それでは、みなさま、今年も、よろしく、どうぞー。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする