科学雑誌のフロントページで、とあるステムセル研究者の訃報をみつけました。私の分野外の人ですが、7-8年前、知っている数人の人が共同研究したりポスドクをしたりしたりしていた関係で、名前は知っているという程度の人です。訃報欄で年齢が56歳というのを知りました。何となくもっと年上の人だろうと想像していたので、ちょっと驚きました。数年前の二、三の論文を思い出しました。あのころは、ああいったタイプの研究が流行していたのだなあ、きっとこの人もその頃は研究やキャリアや家庭のことで忙しい毎日を送っていたに違いない、きっと数年後に死ぬことになるとは思いもしなかっただろうなあ、などと考えていると、人は何のために生きるのか、という若い頃からの疑問に思いを馳せずにいられません。
アカデミアも含めて、競争が厳しくなる社会で、成功を求めて人は努力し、多くの時間や労力をその競争に打ち勝つことに費やした挙句に、成功した人もそうでない人も、みんな早かれ遅かれ死んでいき、あっという間に忘れ去れていきます。振り返れば人生の時間は本当に短いものだと思います。どうせ死ぬのになぜ人は生きるのか、という古い疑問に誰もが自分を納得させ得るような答えらしいものを見つけたいと望んでいると思います。
競争によってランクがつけられ、ランクの高いものからよりよい機会や報酬が得られるという現代の自由競争社会のシステムを、随分前から我々は、侵すべからず原則であるかのように、教えられて育ちました。もちろん、そんな原則など人工的なものにすぎず、人間は自由に生きることも選択できるわけですけど、社会の人との関わりの中で生きていれば、自由勝手に生きるのは、実は何かと不自由なものです。結局、みんなが共有する価値観に沿って、うまく立ち回る方が楽でもあるし、かしこいやり方だと多くの人は考えてそのように行動すると思います。しかし、世の中には標準化されたシステムの中で生きることが困難な人も多いです。私自身もどちらかと言うとそう言うタイプで、競争に打ち勝っていくことはおろか、社会の繋がりの中で居場所を見つけるということでさえ、ストレスに感じるほどです。
最近、「ダークホース」という本を知り、興味深く、読み始めました。非典型的な経路で成功を収めた人の共通点を調査したもので、価値観が「標準化」された現代社会に適応できなかった人々がどのような経路を辿って成功に至ったのかという考察がされています。
先のステムセル研究者のうように、アカデミアでの成功者というのは大抵の場合、典型的な経歴をもつ人が多いです。例えばアメリカなら、中流以上の教育熱心な白人家庭に生まれ、中学高校と学業にはげみ、優秀な成績を収めてアイビーリーグ大学を卒業した後、一流の大学院で学位をとり、一流の研究室で研鑽し、一流大学にポジションを得て、業績を積み重ね、業界と学会で名前を売り、地位と政治力を確立するというパターンです。これは現代の競争社会に沿った戦略で、ここに必要なのは、能力と運に加えて、子供時代から将来の学問的成功という目標に向けて、持続的な努力を注ぎ込む献身さです。ひたすら努力し、数々のプレッシャーと競争に打ち勝つ鋼の精神を持ち、競争に打ち勝つことを素直に喜べれば、正攻法で成功を収めることができそうです。一方で、こうした競争を勝ち抜くことで成功する以外の方法で成功を手に入れた人々、この本では「ダーク ホース」と呼ばれていますが、彼らには、そうしたあきらかな成功の法則や備わった性格的特性はないようです。しかし、著者らが解析したところ、彼らに共通しているのは、標準化された社会システムに馴染めず、結果、自らの充足感を第一に追求してきたということのようです。
思うに、この話は、自らの充足感を第一に考えて行動しつづければ成功するという非典型的な成功法則ではなく、自らの満足を追求する人々の一部が社会的成功を収めることもあるということだと思います。社会的成功、すなわち地位とか金とか名誉とか、は、他人の評価です。ダークホース的な人々が優先しているのは、自己充足感です。自己充足感と社会的成功は直接結びつかないし、むしろ相反するものかもしれません。逆にいえば、金も名誉も地位もなくとも、自己充足感に溢れた毎日があれば、それが彼らにとっての「成功」ということなのでしょう。
アカデミアや会社で競争を勝ち抜いて出世階段を上り詰めた人々でも、あまり幸せそうに見えない人がいるのは、他人の評価と自己充足感のバランスが悪いのかもしれません。