まえの続きですけど、科学研究で動物実験が行われる際、人間の立場からみると、その動物は何かのデータを出すための道具という扱いになります。データを抽出すれば、その元になった個体は存在を失います。つまり、人間からすると、実験動物は、呼吸をし、餌を食べて、動き回る存在ではなく、ある種の遺伝子型や何らかの研究の分類上必要な属性によって、分類される記号的存在であって、同じ属性を持つものは相互置換が可能な替えのきく抽象物となります。
生き物から物体、そして記号へと変化する間に、動物もわれわれ人間も生命という不思議を与えられた存在から単なる概念上の存在になっていきます。それぞれ個性をもって呼吸をし生活を営む実験動物ではありますが、記号に変換することで「生命」は抜き取られ、動物を研究道具に使う人は、命を奪うという生々しさを感じずにすむのです。同様に、食用にされる動物も、殺され、皮を剥がれ、血を抜かれ、肉を削がれて、四角く切られて綺麗に包装されていれば、それは「食べ物」という物体であって、誰かによって殺され、「生命」を奪われた牛とは無関係になってしまいます。
キューブラーロスの子供のころのエピソードで、ペットのように思っていた兎が、両親によって殺され料理され晩御飯のおかずになって出てきたことに強くショックを受けたという有名な話がありますが、それはペットという愛情を注ぐべき生き物が、同様に愛情によって結びついた両親の手によって、突然「兎肉」という記号つきの肉料理という物体に目の前で変換されてしまったからでしょう。
またよくある話ですけど、寿司に舌鼓を打っていた外国人が、魚の頭が盛りつけてある魚の活け作りが出てきた途端に強烈な拒否反応を示すことがあります。これも、寿司や刺身という食べ物は、すでに記号化された物体であって、少し前まで生きていた生き物の体の一部であるという認識が希薄になっているからだと思います。日本人でも、活け作りはOKでも白魚の踊り食いはダメという人は多いでしょうから、どこまでが生き物でどこまでが食べ物かという線引きは多分に恣意的なものだと思います。
生きている肉体は、生命という不思議なものが血肉からなる物質に宿ってできており、精神とかスピリットとか、目には見えないけれども確かに存在するものが付随しています。それを物体だけにする、あるいは記号にするというプロセスによって、生命や精神や個性を取り除き、第三者が扱える対象とする、そうして科学実験は行われ、食物は作られます。その際に取り除かれた「生命」はどこへ行くのでしょう?
昔の知り合いから聞いた話を思い出しました。ある研究者が恐山の霊能者に、目が赤い小動物がたくさん肩のあたりにいるのが見える、と言われたのだそうです。