tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

天誅組とは by 北谷美和子さん(五條市観光ボランティアガイドの会)

2012年06月05日 | 奈良にこだわる
6/2(土)、64名の参加者を得て、第10回古社寺を歩こう会「五條市で天誅組の史跡を訪ねる」を開催した。解散時には夕立に見舞われたものの、朝からは爽やかなお天気に恵まれた。参加者は2グルーブ(赤組と青組)に分かれ、普段はめったに訪ねる機会のない天誅組ゆかりの地や五條新町の町並みを歩いた。これはまさに、驚きと感動の連続であった。

圧巻は朝一番、長屋門資料館でお聞きした講話「天誅組とは」であった。お話しいただいたのは、五條市観光ボランティアガイドの会の北谷美和子(きたたに・みわこ)さんである。同会ガイドの岡本光司さん(ウチのOBで当日は赤組を引率)が、「五條に来たら、ぜひ北谷さんの話を聞いて帰ってほしい」と熱心に薦められたのでお願いしたのであるが、期待以上のお話だった。こんな感動的な話を独り占めするのはもったいないので、手元のメモをもとに、以下に再現して紹介する。
※トップ写真の講師が、北谷美和子さん


長屋門前で。青組のガイド役は舟久保藍さん(「維新の魁・天誅組」保存伝承・推進協議会 特別理事)

五條市は「明治維新発祥の地」といわれる。明治維新のわずか5年前、この地で本格的な武力による討幕運動が初めて起きたからである。起こしたのが天誅組である。総大将は中山忠光卿で、この人の姉が明治天皇の生母なので、明治天皇の叔父にあたる。当時19歳の血気盛んな青年貴族を総大将に、藤本鉄石(岡山県出身)、吉村寅太郎(虎太郎とも。高知県出身)、松本奎堂(愛知県出身)の3人を総裁に、地元・五條出身の乾十郎、井澤宜庵(ぎあん)、橋本若狭らを含め、全国各地から集まった倒幕・尊皇の願いをもった平均年齢25歳の志士たちが天誅組である。

今から149年前の1863年8月13日、孝明天皇の攘夷祈願のための大和行幸が朝議で決まったのを受け、翌14日、志士たちは京都の方広寺大仏前に集まり、船で大阪に向かう。武器弾薬、兵糧、軍資金を用立て、8月17日、河内長野の観心寺で後村上天皇の御陵と楠木正成の首塚に必勝祈願をしたあと、五條をめざして千早峠を越えた。



井澤宜庵宅跡

なぜ五條が旗揚げの地になったのか、その理由を5つ挙げる。
1.天皇の行幸予定地(奈良)に近かったこと。彼らの願いは天皇より先に大和に入って露払いをしたあと、親兵として戦うことにあった
2.五條は幕府の直轄地であり、代官所の警備も手薄であった。
3.五條は当時、紀州街道、西熊野街道、伊勢街道、国中道、堺道などの集まる交通の要衝だったこと。
4.古くから勤皇で知られた十津川郷の玄関口に位置したこと。いざという時はかくまってもらったり、援軍を頼める。
5.五條には優れた儒学者・森田節斎がいたこと。彼は明治維新の思想的指導者といわれる人物であり、吉田松陰も教えを受けに来て、しばらく滞在している。

五條に入った志士たちは岡八幡宮(五條市岡町八幡)で陣容を整えると、代官所をめざして丘を駆け下った。薄化粧をし、緋絨(ひおどし)の鎧(よろい)に鍬形(くわがた)を打った兜をつけ、馬に乗った忠光の姿を見た何も知らない地元民たちは、役者の顔見世かと思ったそうである。


井澤宜庵の墓

代官所で、鈴木源内(代官)に所領引き渡しを要求し、断られると代官ら5人を槍で突いて首をはねる。代官所に火を放つと太鼓を打ち鳴らし、勝ちどきをあげながら、本陣・桜井寺に引き上げる。この時焼かれた代官所は、今の五條市役所の地にあった。その翌年、建て直された代官所の長屋門を、今から9年前、天誅組義挙140年を記念して修復改修されたのが、この建物(長屋門資料館)である。

予定どおり8月17日に代官所を襲った志士たちは、翌18日には五條御政府を打ち立て、年貢を半減するなどを宣言するが、皮肉なことに同じ18日、京都で政変が起こり、長州藩(攘夷派)が京都を追われ、天皇の大和行幸は中止となった。その知らせが翌19日五條に届くと、志士たちは悔しさのあまり桜井寺本堂の柱を刀や槍で突いた。その傷跡のある柱や、代官たちの首を洗ったという手水鉢は、今も同寺に残されている。また当時の本堂建物が、箱根プリンスホテル付属のレストラン「京風湯豆腐 桜井茶屋」として営業中だという。



鈴木源内など、代官所メンバーの墓

一夜にして逆賊となってしまった志士たちは、今後どうするか協議するも、軍令書に「一心公平無私」とあるように、自分たちは私利私欲のために戦うのではない、天皇のためと戦うのだという高い誇りを持っていたから、徹底抗戦を決める。しかし多勢に無勢、本陣を天辻(五條市大塔町)に移し、そこを死守しようとする。

その途中立ち寄った賀名生(あのう。五條市西吉野町)の堀家で後醍醐天皇の遺品に涙し、そこが戦乱に巻き込まれないようにと、吉村寅太郎は「皇居」と書いた扁額を門に掲げた。今も掲げられている額は、実はレプリカで、本物はお隣の「賀名生の里歴史民俗資料館」に展示されている。そこには南朝や天誅組の遺品、当時使われた大砲の弾などのほか、後醍醐天皇から賜ったと伝わる日本最古とされる「日の丸」や、戦時中に受難の「青い目の人形」なども展示されている。これら展示品すべてを所有する堀家も国の重要文化財で、今も住んでおられるが、予約すれば室内も見せてもらえるので、ぜひ機会を見つけてご覧いただきたい。



乾十郎顕彰碑前で説明を受ける

吉村寅太郎は、乾十郎の案内で十津川郷に参戦を呼びかけに行く。その時応対した川津の庄屋、野崎主計(かずえ)は吉村寅太郎の人柄にすっかり魅せられ、即刻、郷をあげて参戦することを約束する。そして約束どおり1,000人あまりの十津川勢を率い、天辻本陣に馳せ参じる。それに意を強くして高取城攻めに出た。しかし十津川勢にしてみれば急な呼び出しであり、取るものも取りあえず不眠不休でやっと天辻本陣に着いたと思ったら、もう追討軍が御所市まで来ているという知らせを受け、休憩も取らず高取へ向かう。


乾十郎顕彰碑

しかし、何ら策があるわけではない。細い道を2列縦隊で進んで行くと、それを見下ろす位置にある鳥ヶ峰の陣地から大砲などを打ちかけられ、驚いて戦わずに逃げて帰る。二手に分かれて御所にいた吉村寅太郎は、それを知ると「初戦から何たること」と激高し、夜襲をかけようとするが、暗がりのなか味方の銃弾が下腹部に当り、戦わずに退散。吉村寅太郎はその傷をも厭わず激戦を指揮するが、傷が悪化して歩けなくなり、最後は一人薪小屋に潜んでいるところを密告され、討死する。

天誅組にとって、悪いことが続く。西吉野での激戦など最前線で戦ってきた水郡善之祐(にごり・ぜんのすけ。天誅組河内勢の首魁)が、本隊に対する不信感から河内勢をつれて離脱。続いて十津川勢も、京都からの勅旨により「このままでは朝敵になる」とやむなく離脱。その時、野崎主計(十津川村の庄屋)は「十津川郷士の天誅組荷担の全責任は、自分にある」として、「討つ人も討たるる人も心せよ 同じ御国の御民なりせば」「大君に仕えぞまつるその日より 我が身ありとは思わざりけり」という歌を残し、自宅裏山で割腹自決する。



五條市体育館で昼食後に開かれた特別講話「乾十郎の素顔」(舟久保藍さんによる)

十津川郷を出て行かねばならなくなった志士たちは、険しい峠越えで北山、川上を抜け、鷲家口(東吉野村)に入ったのが9月24日。追討軍が陣をしいて待ち構えているところへ入ってきたことになる(もう1日早ければ無事脱出できていたかも知れない)。伊吹周吉、平岡鳩平のように、生き延びて明治政府の高官になり男爵になった男もいるが、東吉野村で3総裁とも討死し、天誅組は壊滅。わずか39日間の攻防であった。

中山忠光の主従7人は長州に逃れるが、翌年11月5日、首を絞めて殺される。その時、宿屋の娘・登美さんのお腹に彼の子が宿っていた。仲子と名づけられたその子の孫にあたるのが、満州国最後の皇帝・愛新覚羅溥儀の弟・溥傑(ふけつ)と結婚した嵯峨浩(ひろ)であり、天城山でピストル心中したその子・愛新覚羅慧生(えいせい)は曾孫、忠光から見れば玄孫にあたる。忠光同様、波乱の人生であった。



乾十郎宅跡

坂本龍馬と同じ土佐出身の吉村寅太郎(龍馬の2年下)は土佐脱藩第1号、その後同じ経路をたどって龍馬も脱藩する。龍馬が寅太郎について姉に宛てた手紙に「先日大和の国で争いごとがあり、負けてしまったそうだ。もし自分が戦の仕方を教えておれば、こうはならなかったろう」と書いているという。

2人の人柄を象徴するこんなエピソードがある。ある時、柿を出された。龍馬は黙って手を伸ばしムシャムシャと2~3個食べた。寅太郎は「こんな美味しい柿は初めてだ」と言いつつ、1つだけ美味しそうに食べたとのこと。型にはまらない龍馬と、愛想がよく親しみやすい寅太郎の姿が浮かんでくる。

京都の霊山護国神社は龍馬と中岡慎太郎の墓で知られているが、その2人の墓の手前に寅太郎の墓がある。斜面を左上に上って行くと、一切の欲得を捨て、のちの世の捨て石となって散った志士たちも一塊になって十津川村民によって祀られている。龍馬の墓に行かれたら、志士たちの墓にも詣でてほしい。


五條市ボランティアガイドの会のご案内で、新町通と吉野川べりを歩く

最後に、天皇のために戦ったにもかかわらず、朝廷から反乱軍として追われて果てた志士たちの心情を2人の辞世の歌で偲んで、終わらせていただく。まずは水郡善之祐。天誅組離脱後、龍神で和歌山藩に自首し、のち京都に送られて処刑されたが、幽閉されていた倉庫の柱に血で書き残した。「皇国のためにぞ尽くす真心は 神や知るらん知る人ぞ知る」。この倉庫は「天誅倉」と呼ばれ、和歌山県指定文化財として公開されている。そこにはもう一首、敵方にあたる和歌山藩から手厚い看護やもてなしをうけ涙ながらに詠んだ歌、「鬼神も恐れざりしがまことある 人の情に袖ぬらしつつ」も掲示されている。

もう1人は3総裁の1人松本奎堂。18歳で槍の練習中、相手の槍先が左目を突き失明、その時「なんのこれぐらいのかすり傷」と言ったとか。その後の心労で右目も失い、供の者と2人、東吉野村伊豆尾笠松の山頂で討死する。「君がためみまかりにきと世の人に 語りつぎてよ峰の松風」。峰の松風よ、自分は天皇のために死んでいったのだと世の人に語り継いでおくれ、という内容であり、気の強い人らしい歌だと思う。山頂には慰霊碑と歌碑が建てられている…。


北谷さんのお話は、以上である。「これぞ語り部!」と言いたくなる素晴らしい内容であり、語り口であった。以前紹介した舟久保藍さん(「維新の魁・天誅組」保存伝承・推進協議会 特別理事)のお話「天誅組とは何か」とはまた違った切り口で、天誅組の悲話をしみじみと語っていただいた。「このお話を聞いただけでも、五條に来た甲斐があった」と思った参加者は多かったことだろう。ガイドの岡本さんは事前打ち合わせのときに「北谷さんの話を聞くときは、ハンカチを忘れずに」とおっしゃっていたが、お聞きしてその意味が分かった。

「奈良まほろばソムリエ友の会」では、7月から毎月1回・3回完結の「自主勉強会」として、舟久保藍さんによる伴林光平(ともばやし・みつひら)著『南山踏雲録』の講読会を開催する予定である。同書は天誅組に参加した側からの貴重な回想録である。勉強した内容は、随時、当ブログで公開させていただくので、ぜひお楽しみに。

北谷さん、素晴らしいお話を有難うございました!
※6/3付の奈良新聞でも紹介された。右端のガイド役が岡本光司さん

コメント (4)
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