tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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飯豊天皇埴口丘陵と柿本神社(葛城市新庄)

2012年06月27日 | 記紀・万葉
6/18(月)、出張で新庄(葛城市)へ出かけた。近鉄新庄駅で降りると、駅前にこんな看板が立っていた。「飯豊(いいとよ)天皇埴口(はにくち)古墳 踏切西(銀行前)左折(徒歩12分)」「柿本神社 近鉄新庄駅すぐ西(徒歩2分)」とある。これはぜひ、帰りに立ち寄って見なければ…。




沿道には、こんなきれいな花が咲いていた



飯豊天皇は、正式の天皇ではない。だから宮内庁のサイトの「天皇一覧」(大正時代に歴代天皇として確定され、現在広く知られている歴代天皇の一覧)には載っていない。Wikipedia「天皇の一覧」には「一説に天皇とされる者の一覧」という欄に《飯豊青皇女(いいとよあおのひめみこ) 履中天皇の娘(異説あり)。22代清寧天皇の崩御後、23代顕宗天皇・24代仁賢天皇が皇位を譲り合っている間、天皇としての政務を行っていた。『扶桑略記』などに「飯豊天皇」とある》と出ている。


駅から徒歩7~8分で、御陵が見えてきた





ネットで百科(平凡社『世界大百科事典』)には「飯豊青皇女 5 世紀末の皇女。 飯豊女王,忍海部女王などともいう。 履中天皇の女で市辺押羽皇子の妹にあたり, 母は葦田宿衝 (損城襲津彦の子) の女黒媛とも, 市辺押羽皇子の女で,母は蟻臣 (葦田宿衝) の女藻(はえ) 媛とも伝える。 《日本書紀》の顕宗即位前紀によれば, 清寧天皇が没したあと皇位継承者が定まらず久しく空位が続くので, 飯豊青皇女が忍海角刺宮でみずから〈忍海飯豊青尊〉と称して〈臨時秉政 (みかどまつりごと) 〉したとあり, 一時天皇に準ずる地位にあった可能性を伝える」。



「《日本書紀》では皇女の兄弟にあたる億計 (おけ)・弘計 (おけ) の 2 王が皇位を譲り合ったためとし, 《古事記》の清寧段では,姨の皇女がその後に播磨に 2 王をさがさせたとし, 諸伝に混乱がみられる。 皇女を《日本書紀》では天皇としていないが, 《扶桑略記》では〈飯豊天皇〉とし, 中継ぎの女帝としての即位を認めている。 《日本書紀》では清寧 5 年 11 月に没し損城埴口陵に葬られたとされ, 《本朝皇胤紹運録》などでは 45 歳であったと伝える」。




「飯豊天皇埴口丘陵」の文字が見える

葛城市のHPには「飯豊天皇埴口丘陵(いいとよてんのうはにくちのおかのみささぎ)」の項目があって、《歴史の表舞台から立ち去った最初の女帝と言われる飯豊天皇の墓です。「古事記」・「日本書紀」によると、角刺神社(つのさしじんじゃ、葛城市歴史博物館南隣)で政務を執り行ったことが伝えられています。所在地 葛城市北花内》と、ごく簡単に紹介されている。御陵には、宮内庁の「飯豊天皇埴口丘陵」という標識があった。



もう1つの史跡、柿本神社(かきのもとじんじゃ)は駅前にあった。「柿本山 影現寺」というお寺と同じ敷地内にある。葛城市のHP「柿本神社」によると《祭神は「万葉集」第一級の歌人と称される柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)です。石見国(島根県益田市)で没した人麻呂を770年に改葬して、かたわらに社殿を建てたのが始まりといわれています》。





《隣接する影現寺(ようげんじ)と共に、人麻呂の命日に毎年4月18日にはチンポンカンポン祭が行われます。人麻呂による葛城をしのぶ歌としては、「春楊(はるやなぎ) 葛木山に たつ雲の 立ちても坐ても 妹をしそ思ふ」があります。所在地 葛城市柿本187-1 電話 0745-69-2804 アクセス 近鉄御所線近鉄新庄駅より徒歩すぐ》。



「チンポンカンポン祭り」とは面白いネーミングである。市の「葛城の観光情報」によると

Q:チンポンカンポンの由来は?
A:鐘や太鼓の音と言われています。

Q:チンポンカンポン祭りの開催日は?
A:4月18日です。

Q:チンポンカンポン祭りの開催場所は?
A:柿本神社、影現寺(葛城市柿本)です。

Q:チンポンカンポン祭りの開催時間は?
A:14:00~影現寺で法要
  15:00~柿本神社で法要
  16:00~御供(もち)まき

Q:チンポンカンポン祭りに参加したい
A:法要は外からの見学になります。
  御供(もち)まきは参加できます。


なるほど。こんなお祭りがあったのだ。近鉄新庄駅の次の「忍海(おしみ)駅」の近くには「角刺(つのさし)神社」があり、この地に飯豊青皇女の「忍海角刺宮(おしぬみのつのさしのみや)」があったとされる。次はぜひ、こちらも訪ねてみたい。
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