毎日録画して、テレビ朝日系列の帯ドラマ「やすらぎの郷(さと)」(月~金 12:30~12:50)を見ている。脚本は倉本聰、出演は石坂浩二、浅丘ルリ子、加賀まりこ、野際陽子(ドラマではまだ生存)、藤竜也、ミッキー・カーチス…という豪華メンバーだ。
昭和の時代にテレビの世界で活躍した者だけが入居できる海辺の老人ホーム「やすらぎの郷」を舞台に、悲喜こもごものドラマが展開する。
先日その中で、入居者の夫婦が亡くなり、ホームの中でお葬式が営まれるシーンがあった。石坂はナレーションで「葬儀は無宗教で行われることになった」と語り、お坊さんも読経の声もないまま、棺と写真の前で入居者が手を合わせるシーンだけが流れた。私は反射的に「うーん、こんなお葬式は嫌だな」と思った。
仏式でお葬式を挙げるということは「霊魂」というものがあり、それを「来世」に送る、ということを前提にしている(私はキリスト教式のお通夜に参列したことがあるが、やはり焼香の代わりに献花があり、賛美歌・聖歌を歌い、死者の安らかな永眠をお祈りした)。
ドラマでは、単に手を合わせて死者を悼んでいた。この様子を見て「人は無宗教で弔われることに、耐えられるのだろうか」という素朴な疑問が湧いたのである。倉本聰は無神論者なのだろうか…。そこで思い出したのが、田中利典師の「葬式は無用ではない」というエッセイである。以下に全文を引用させていただく。
「葬式は無用ではない」ー田中利典著述集290508
過去に掲載した機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。今回は「葬式は無用ではない」という話。まあ、檀家を持たず、葬儀葬祭には関わりの極めて少ない私がとやかくいう立場にはない、とするむきもあるが、私なりに考えた提言である。それは本稿を書いた4年前も今も、ぶれてはいない。
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「葬式は無用ではない」
いま、日本の葬儀の現場では、劇的な変革が起こりつつある。葬儀無用論、墓無用論である。とはいえ、現実にはまだ80%近い人が仏式のお葬式をやっている。そこで、どうして仏式で葬儀をするかということを考えてみる。
日本人にとっては人には「霊魂」があることを前提として、仏式の葬送儀礼が行われてきた。例えば、奇跡を否定した加持祈祷というものはあり得ない。加持祈祷で奇跡を前提としないなら、加持祈祷そのものが否定される。もちろん、奇跡や奇瑞(めでたいことの前兆)は、行者の法力だけではなく、神仏の力によってもたらされるのであるが…。いずれにしろ人間の合理的な理解を超えている事態が起きるから、それを奇跡と感じるのであろう。これが加持祈祷のあり方である。
それと同様に葬儀も、もし「霊魂」を前提としない、あるいは「霊魂」が行き着く先の来世を前提としないなら、葬儀の意義は存在しない。葬儀をする以上は、やはり「霊魂」の存在が前提となっているのだ。
ところで、なぜ、仏教では死んでから戒名を与えて、葬儀をするのか?実はお釈迦様は一般の人の葬式はしなかったが、自分の身内の葬式はしておられるという。それで自分の身内の葬式として、我々も、まず死者を仏教徒にしてから葬儀を行うというので、死者に戒を授けて受戒の名前を与える…と、まあ、仏教の理屈ではそういうことになっているらしいが、日本仏教はそれだけではなく、少し違う意味合いがはあると私は思っている。
日本人は死んだ後、名前・戒名をいただけば、それで霊魂が成仏すると考えたのある。諡(おくりな)という。死んでから、名前をおくることによって魂が清まるという考えが、仏教伝来以前からあった言霊信仰と融合して、徐々に日本人の習俗に浸透してきた。
仏教徒になったら、戒名をいただき、名前が変わる。これで成仏するんだ、あるいはそういう期待が生じたのである。つまり死んだ人に名前を与えるということ自体が、実は鎮魂であり、霊魂の浄化になる、としたのだ。仏教本来の意義とはそもそも違うが、仏教と日本人古来の習俗との融合が起こっていることをしるべきだと私は思うのである。私説というそしりを受けるかも知れないが…。
本宗の方も近頃は葬儀に関わる行者さんが増えている。是非、関わる以上は葬儀の成り立ちや有り様をちゃんと自覚して、自分の役目を全うしてもらいたい。金峯山寺では葬儀特別研修も行われるが、ただ単に儀礼でやるのではなく、まさにそこに成仏という、故人の魂がうかばれる行為に関わる肝心なところを体得して事に向かっていただきたいと念ずるものである。
人には霊魂があるということを信じてきた日本人にとって、お葬式は決して無用ではない、と葬儀葬祭の専職ではない筆者であるが、そう考えている。
ー「金峯山時報平成25年10月号所収 蔵王清風」より
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日本仏教は、インド仏教とはちがう。日本仏教のあり方があってよいと私は思っている。近頃、なにかと、本来の仏教は生きている人のためのもので、死んだ者ばかりを相手にしているような日本仏教は仏教ではない、というような意見が正論として語られることが多い。間違いなく、私は宇井白寿先生以来続く東大・近代仏教学の災禍のひとつでもあると思っている。
まあ、確かにお釈迦さまが説いた仏教は、まるごと葬式仏教化したような日本仏教とはずいぶん違うのは確かなことだろう。日本仏教はある意味、神道教でもある、と私も思う。だからといって日本仏教全部を否定するというのもどうかなあ。
日本仏教は日本仏教なりに、形成発展継承してきて、現在に至っている。葬式仏教、形骸化、堕落の部分も大いにあるのは認めざると得ない。金ばかり要求する出来損ない坊主も大いに問題ではあるが、だからといって、現状の破壊ばかりを論じてしまうのはいかがなものかと、私は危惧するのだ。
戒名が謚(おくりな)というのは私の独自の意見だが、日本人は神信仰と言霊信仰でやってきたのだから、仏教もそこに合流している部分が大きい。縄魂弥才・和魂洋才の国柄である。ともかく、日本仏教、ガンバレ!と言いたい。
「人には霊魂があるということを信じてきた日本人にとって、お葬式は決して無用ではない」と力強く言い切っていただいて、安心した。
まもなくお盆(盂蘭盆会=うらぼんえ)である。これも仏教行事と日本古来の先祖祭りが習合したもので、日本で独自の発展をとげた。今年も先祖の冥福を祈りながら、お墓と仏壇に手を合わせたい。
昭和の時代にテレビの世界で活躍した者だけが入居できる海辺の老人ホーム「やすらぎの郷」を舞台に、悲喜こもごものドラマが展開する。
体を使って心をおさめる 修験道入門 (集英社新書) | |
田中利典 | |
集英社 |
先日その中で、入居者の夫婦が亡くなり、ホームの中でお葬式が営まれるシーンがあった。石坂はナレーションで「葬儀は無宗教で行われることになった」と語り、お坊さんも読経の声もないまま、棺と写真の前で入居者が手を合わせるシーンだけが流れた。私は反射的に「うーん、こんなお葬式は嫌だな」と思った。
やすらぎの郷(上) 第1話~第45話 | |
倉本聰 | |
双葉社 |
仏式でお葬式を挙げるということは「霊魂」というものがあり、それを「来世」に送る、ということを前提にしている(私はキリスト教式のお通夜に参列したことがあるが、やはり焼香の代わりに献花があり、賛美歌・聖歌を歌い、死者の安らかな永眠をお祈りした)。
ドラマでは、単に手を合わせて死者を悼んでいた。この様子を見て「人は無宗教で弔われることに、耐えられるのだろうか」という素朴な疑問が湧いたのである。倉本聰は無神論者なのだろうか…。そこで思い出したのが、田中利典師の「葬式は無用ではない」というエッセイである。以下に全文を引用させていただく。
やすらぎの郷(中) 第46話~第90話 | |
倉本聰 | |
双葉社 |
「葬式は無用ではない」ー田中利典著述集290508
過去に掲載した機関誌「金峯山時報」のエッセイ覧「蔵王清風」から、折に触れて本稿に転記しています。今回は「葬式は無用ではない」という話。まあ、檀家を持たず、葬儀葬祭には関わりの極めて少ない私がとやかくいう立場にはない、とするむきもあるが、私なりに考えた提言である。それは本稿を書いた4年前も今も、ぶれてはいない。
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「葬式は無用ではない」
いま、日本の葬儀の現場では、劇的な変革が起こりつつある。葬儀無用論、墓無用論である。とはいえ、現実にはまだ80%近い人が仏式のお葬式をやっている。そこで、どうして仏式で葬儀をするかということを考えてみる。
日本人にとっては人には「霊魂」があることを前提として、仏式の葬送儀礼が行われてきた。例えば、奇跡を否定した加持祈祷というものはあり得ない。加持祈祷で奇跡を前提としないなら、加持祈祷そのものが否定される。もちろん、奇跡や奇瑞(めでたいことの前兆)は、行者の法力だけではなく、神仏の力によってもたらされるのであるが…。いずれにしろ人間の合理的な理解を超えている事態が起きるから、それを奇跡と感じるのであろう。これが加持祈祷のあり方である。
それと同様に葬儀も、もし「霊魂」を前提としない、あるいは「霊魂」が行き着く先の来世を前提としないなら、葬儀の意義は存在しない。葬儀をする以上は、やはり「霊魂」の存在が前提となっているのだ。
ところで、なぜ、仏教では死んでから戒名を与えて、葬儀をするのか?実はお釈迦様は一般の人の葬式はしなかったが、自分の身内の葬式はしておられるという。それで自分の身内の葬式として、我々も、まず死者を仏教徒にしてから葬儀を行うというので、死者に戒を授けて受戒の名前を与える…と、まあ、仏教の理屈ではそういうことになっているらしいが、日本仏教はそれだけではなく、少し違う意味合いがはあると私は思っている。
日本人は死んだ後、名前・戒名をいただけば、それで霊魂が成仏すると考えたのある。諡(おくりな)という。死んでから、名前をおくることによって魂が清まるという考えが、仏教伝来以前からあった言霊信仰と融合して、徐々に日本人の習俗に浸透してきた。
仏教徒になったら、戒名をいただき、名前が変わる。これで成仏するんだ、あるいはそういう期待が生じたのである。つまり死んだ人に名前を与えるということ自体が、実は鎮魂であり、霊魂の浄化になる、としたのだ。仏教本来の意義とはそもそも違うが、仏教と日本人古来の習俗との融合が起こっていることをしるべきだと私は思うのである。私説というそしりを受けるかも知れないが…。
本宗の方も近頃は葬儀に関わる行者さんが増えている。是非、関わる以上は葬儀の成り立ちや有り様をちゃんと自覚して、自分の役目を全うしてもらいたい。金峯山寺では葬儀特別研修も行われるが、ただ単に儀礼でやるのではなく、まさにそこに成仏という、故人の魂がうかばれる行為に関わる肝心なところを体得して事に向かっていただきたいと念ずるものである。
人には霊魂があるということを信じてきた日本人にとって、お葬式は決して無用ではない、と葬儀葬祭の専職ではない筆者であるが、そう考えている。
ー「金峯山時報平成25年10月号所収 蔵王清風」より
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日本仏教は、インド仏教とはちがう。日本仏教のあり方があってよいと私は思っている。近頃、なにかと、本来の仏教は生きている人のためのもので、死んだ者ばかりを相手にしているような日本仏教は仏教ではない、というような意見が正論として語られることが多い。間違いなく、私は宇井白寿先生以来続く東大・近代仏教学の災禍のひとつでもあると思っている。
まあ、確かにお釈迦さまが説いた仏教は、まるごと葬式仏教化したような日本仏教とはずいぶん違うのは確かなことだろう。日本仏教はある意味、神道教でもある、と私も思う。だからといって日本仏教全部を否定するというのもどうかなあ。
日本仏教は日本仏教なりに、形成発展継承してきて、現在に至っている。葬式仏教、形骸化、堕落の部分も大いにあるのは認めざると得ない。金ばかり要求する出来損ない坊主も大いに問題ではあるが、だからといって、現状の破壊ばかりを論じてしまうのはいかがなものかと、私は危惧するのだ。
戒名が謚(おくりな)というのは私の独自の意見だが、日本人は神信仰と言霊信仰でやってきたのだから、仏教もそこに合流している部分が大きい。縄魂弥才・和魂洋才の国柄である。ともかく、日本仏教、ガンバレ!と言いたい。
やすらぎの郷(下) 第91話~第130話 | |
倉本聰 | |
双葉社 |
「人には霊魂があるということを信じてきた日本人にとって、お葬式は決して無用ではない」と力強く言い切っていただいて、安心した。
まもなくお盆(盂蘭盆会=うらぼんえ)である。これも仏教行事と日本古来の先祖祭りが習合したもので、日本で独自の発展をとげた。今年も先祖の冥福を祈りながら、お墓と仏壇に手を合わせたい。