今日の「田中利典師曰く」は、朝日新聞奈良版「人生あおによし」の第8回「奥駈で見えるもの」。この連載は2014年11月9日から、20回のシリーズとしてスタートした。掲載当時の原稿に少し手を入れたものを師から送っていただいたので、掲載順に紹介させていただいている。この頃、還暦をお迎えになった利典師の「前半生の振り返り」である。
※写真は、吉野山の桜(2022.4.7撮影)
前回「奥駈の1日(下)」を掲載すると、師からFBに〈連載はまだ続きます。そして人生の奥駈はまだ続いています〉というコメントをいただいた。修験道では「山の行(山修行)より里の行」というそうだ。現実の奥駈修行からリタイヤされた師は今、自坊のご住職として日常生活を営まれながら、「里の奥駈修行」を実践しておられるところで、その様子はFBでいつでも拝読できる。では、全文を紹介する。
奥駈で見えるもの
国土の大半を山が占めるわが国では、山は古代から神仏や祖霊がいます世界と考えられ、畏れをもって仰ぎ見てきました。修験者にとって山は神仏の顕現であり、その聖なる世界に入って行ずるのが奥駈修行なのです。
わが身の罪を懺悔して、神仏にひれ伏します。汗や脂が体から流れ出て、眼耳鼻舌身意の六根が聖なる山に浄化される実感を得るのです。現代風に言い換えれば、神仏によって「癒やされる」一時と言えます。
修験道はどこまでも実践の宗教です。先達曰く「足に豆が出来てもかばうと膝を痛めます。かばわず歩き続ければやがて痛みが快感に変わりますよ」。むちゃに聞こえる先達のそんな助言が本当のことだとわかるには、実践してみるしかないのです。
修験道の教義書の多くは、「本覚」という簡単に言えば人は本来的に悟っているという立場で書かれています。ところが煩悩悪業の塵によって心身が覆われているため、迷う凡夫に身をやつしているのだというのです。命がけの入峰修行によってその塵を振り払うのが修行の肝心です。
そう考えると、現在の簡便な山上参りが本義から形を変えていることが気になります。山上参りを何回したとか、奥駈を何度行じたとか、そんなことは問題ではないのです。いかに懺悔の心を持って行に臨めたか、それのみを問わなければならないと私は思います。
※写真は、吉野山の桜(2022.4.7撮影)
前回「奥駈の1日(下)」を掲載すると、師からFBに〈連載はまだ続きます。そして人生の奥駈はまだ続いています〉というコメントをいただいた。修験道では「山の行(山修行)より里の行」というそうだ。現実の奥駈修行からリタイヤされた師は今、自坊のご住職として日常生活を営まれながら、「里の奥駈修行」を実践しておられるところで、その様子はFBでいつでも拝読できる。では、全文を紹介する。
奥駈で見えるもの
国土の大半を山が占めるわが国では、山は古代から神仏や祖霊がいます世界と考えられ、畏れをもって仰ぎ見てきました。修験者にとって山は神仏の顕現であり、その聖なる世界に入って行ずるのが奥駈修行なのです。
わが身の罪を懺悔して、神仏にひれ伏します。汗や脂が体から流れ出て、眼耳鼻舌身意の六根が聖なる山に浄化される実感を得るのです。現代風に言い換えれば、神仏によって「癒やされる」一時と言えます。
修験道はどこまでも実践の宗教です。先達曰く「足に豆が出来てもかばうと膝を痛めます。かばわず歩き続ければやがて痛みが快感に変わりますよ」。むちゃに聞こえる先達のそんな助言が本当のことだとわかるには、実践してみるしかないのです。
修験道の教義書の多くは、「本覚」という簡単に言えば人は本来的に悟っているという立場で書かれています。ところが煩悩悪業の塵によって心身が覆われているため、迷う凡夫に身をやつしているのだというのです。命がけの入峰修行によってその塵を振り払うのが修行の肝心です。
そう考えると、現在の簡便な山上参りが本義から形を変えていることが気になります。山上参りを何回したとか、奥駈を何度行じたとか、そんなことは問題ではないのです。いかに懺悔の心を持って行に臨めたか、それのみを問わなければならないと私は思います。