今年は邪馬台国畿内説(纒向説)にちなんだツアーの組成やガイドの依頼がたくさん寄せられた。おかげでたくさんの本を読み、また纒向遺跡周辺を何度も訪れた。ツアーは2月、9~10月、12月と3回(計7本)実施され、私は3本のツアーでメインガイドを務めた。勉強のため10月12~14日には、高島忠平氏率いる邪馬台国九州説のツアーにも参加した。
私が教えを請うたのが雑賀耕三郎さん(NPO法人奈良まほろばソムリエの会理事)。いろんな本をご推薦いただき、また現地も案内していただいた。雑賀さんのおかげで桜井市立埋蔵文化財センターとのつながりもできた。ソムリエの会では私の方が先輩なのでいばっているが、実は雑賀さんは私より6歳も年長である。
雑賀さんは本年10月9日(日)、歴史バトル「邪馬台国はどこだ?」に出演された。その模様は当ブログでも紹介したが、今朝(12/29)の奈良新聞に特集記事として大きく紹介された。冒頭部分を抜粋すると、
第5回おもしろ歴史フェスティバル 歴史を愉しむ
邪馬台国はどこだ? 近畿VS九州 白熱のバトル 歴史ファン、2会場に結集
第5回おもしろ歴史フェスティバル「歴史を愉しむ」(同実行委員会主催、奈良新聞社・国営飛鳥歴史公園・国営吉野ヶ里歴史公園共催、飛鳥京観光協会・県立万葉文化館・NTT西日本奈良支店協力)が去る10月9日、明日香村の県立万葉文化館と佐賀県吉野ヶ里歴史公園で開かれ、インターネット回線で結んで実況中継された。奈良会場は約350人、佐賀会場には約200人の歴史ファンが参加した。
第1部は、昨年9月に続く2回目の歴史バトル「邪馬台国はどこだ?」を開催。邪馬台国の所在地を巡り、研究者や歴史愛好家が論争を繰り広げた。進行は前県立橿原考古学研究所調査課長の今尾文昭さんが担当し、奈良会場では邪馬台国近畿説の石野博信・香芝市二上山博物館名誉館長が、佐賀会場では九州説の高平忠平・佐賀女子短期大学名誉教授がそれぞれ持論を展開し、歴史愛好家それぞれ2人の合計4人が応援する意見を述べた。
石野さんは「纏向遺跡にはよその地域の人が住み着いていったことが土器の出土で分かり、都にふさわしい」と指摘した。高島さんは「九州説が歴史を総合的に理解するうえで合理的」とし、その根拠として大分県日田市のダンワラ遺跡で出土した卑弥呼時代のものと推定される鉄鏡を紹介した。
第2部は、キトラ古墳壁画体験館オープン記念「キトラ古墳と王塚古墳」をテーマにしたフォーラムが開かれた。奈良会場は石野さんと阪南大学教授の来村多加史さんが「キトラ古墳と高松塚古墳の壁画世界」で、佐賀会場は高島さんと元九州歴史資料館学芸第二課長の石山勲さんが「装飾古墳の魅力」でそれぞれ講演し、意見交換した…。
バトルの中で、雑賀さんはどんな発言をしたか。記事から拾ってみる。見出しは「他地域の土器多く 交流盛ん」だ。
纏向遺跡は広さが約300ヘクタールあり、箸墓古墳やホノケ山古墳が含まれています。出土した土器は地の地域からの搬入土器が多く、農工具はほとんど出土しなくて、土木用の多くの工具が出土しました。纏向遺跡は計画的に造られた最初の都市と考えます。この地は、ヤマト王権発祥の地であり、さらには邪馬台国が存在したとしても不思議ではありません。
纏向遺跡から出土した大型建物が注目されます。直径32センチメートルの太い柱が5メートル間隔で5本並び、間口が20メートルもありました。当時の最大の建物です。さらにこの大型建物と合わせて、3棟の楯のもが中軸線を一直線にして並んでいました。また、建てられた年代は200年代初めで、250年くらいまで建っていたと推定されています。卑弥呼が即位したのが180年ごろ、亡くなったのが247年とされていますので、卑弥呼の宮殿だったと考えることもできます。
近くにある黒塚古墳からは、三角縁神獣鏡が33枚、画紋帯神獣鏡が一枚出土されており卑弥呼が受け取ったとされる鏡が含まれていると考えられます。また古墳の石室の北側から出土したU字型鉄製品は魏から届けられた黄幢との見方もあります。纒向遺跡を邪馬台国としてみることができる地下からの証拠が出ており、総合的に考えると、邪馬台国は現在の纒向遺跡の地にあったと考えます。
私も雑賀説に基づき、纒向を案内している。昨今はちょっとした邪馬台国ブーム再来の様相である。来年も纒向ツアーのガイド依頼が舞い込んでくるだろう。もちろんメインガイドは雑賀さんにお願いしたいが、ある程度分担も必要だろう。
邪馬台国については読みかけの本だけでも5冊。お正月休みを利用して、何とか片付けたいところだ。雑賀さん、来年もどうぞよろしくお願いいたします!
私が教えを請うたのが雑賀耕三郎さん(NPO法人奈良まほろばソムリエの会理事)。いろんな本をご推薦いただき、また現地も案内していただいた。雑賀さんのおかげで桜井市立埋蔵文化財センターとのつながりもできた。ソムリエの会では私の方が先輩なのでいばっているが、実は雑賀さんは私より6歳も年長である。
雑賀さんは本年10月9日(日)、歴史バトル「邪馬台国はどこだ?」に出演された。その模様は当ブログでも紹介したが、今朝(12/29)の奈良新聞に特集記事として大きく紹介された。冒頭部分を抜粋すると、
第5回おもしろ歴史フェスティバル 歴史を愉しむ
邪馬台国はどこだ? 近畿VS九州 白熱のバトル 歴史ファン、2会場に結集
第5回おもしろ歴史フェスティバル「歴史を愉しむ」(同実行委員会主催、奈良新聞社・国営飛鳥歴史公園・国営吉野ヶ里歴史公園共催、飛鳥京観光協会・県立万葉文化館・NTT西日本奈良支店協力)が去る10月9日、明日香村の県立万葉文化館と佐賀県吉野ヶ里歴史公園で開かれ、インターネット回線で結んで実況中継された。奈良会場は約350人、佐賀会場には約200人の歴史ファンが参加した。
第1部は、昨年9月に続く2回目の歴史バトル「邪馬台国はどこだ?」を開催。邪馬台国の所在地を巡り、研究者や歴史愛好家が論争を繰り広げた。進行は前県立橿原考古学研究所調査課長の今尾文昭さんが担当し、奈良会場では邪馬台国近畿説の石野博信・香芝市二上山博物館名誉館長が、佐賀会場では九州説の高平忠平・佐賀女子短期大学名誉教授がそれぞれ持論を展開し、歴史愛好家それぞれ2人の合計4人が応援する意見を述べた。
石野さんは「纏向遺跡にはよその地域の人が住み着いていったことが土器の出土で分かり、都にふさわしい」と指摘した。高島さんは「九州説が歴史を総合的に理解するうえで合理的」とし、その根拠として大分県日田市のダンワラ遺跡で出土した卑弥呼時代のものと推定される鉄鏡を紹介した。
第2部は、キトラ古墳壁画体験館オープン記念「キトラ古墳と王塚古墳」をテーマにしたフォーラムが開かれた。奈良会場は石野さんと阪南大学教授の来村多加史さんが「キトラ古墳と高松塚古墳の壁画世界」で、佐賀会場は高島さんと元九州歴史資料館学芸第二課長の石山勲さんが「装飾古墳の魅力」でそれぞれ講演し、意見交換した…。
バトルの中で、雑賀さんはどんな発言をしたか。記事から拾ってみる。見出しは「他地域の土器多く 交流盛ん」だ。
纏向遺跡は広さが約300ヘクタールあり、箸墓古墳やホノケ山古墳が含まれています。出土した土器は地の地域からの搬入土器が多く、農工具はほとんど出土しなくて、土木用の多くの工具が出土しました。纏向遺跡は計画的に造られた最初の都市と考えます。この地は、ヤマト王権発祥の地であり、さらには邪馬台国が存在したとしても不思議ではありません。
纏向遺跡から出土した大型建物が注目されます。直径32センチメートルの太い柱が5メートル間隔で5本並び、間口が20メートルもありました。当時の最大の建物です。さらにこの大型建物と合わせて、3棟の楯のもが中軸線を一直線にして並んでいました。また、建てられた年代は200年代初めで、250年くらいまで建っていたと推定されています。卑弥呼が即位したのが180年ごろ、亡くなったのが247年とされていますので、卑弥呼の宮殿だったと考えることもできます。
近くにある黒塚古墳からは、三角縁神獣鏡が33枚、画紋帯神獣鏡が一枚出土されており卑弥呼が受け取ったとされる鏡が含まれていると考えられます。また古墳の石室の北側から出土したU字型鉄製品は魏から届けられた黄幢との見方もあります。纒向遺跡を邪馬台国としてみることができる地下からの証拠が出ており、総合的に考えると、邪馬台国は現在の纒向遺跡の地にあったと考えます。
私も雑賀説に基づき、纒向を案内している。昨今はちょっとした邪馬台国ブーム再来の様相である。来年も纒向ツアーのガイド依頼が舞い込んでくるだろう。もちろんメインガイドは雑賀さんにお願いしたいが、ある程度分担も必要だろう。
邪馬台国については読みかけの本だけでも5冊。お正月休みを利用して、何とか片付けたいところだ。雑賀さん、来年もどうぞよろしくお願いいたします!
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