tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田中利典師の「山伏への道のり」(朝日新聞「人生あおによし」第2回)

2023年12月06日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は、朝日新聞奈良版「人生あおによし」の第2回「山伏への道のり」である。この連載は2014年11月9日から、20回のシリーズとしてスタートした。師はこれらのURLをご自身のブログに貼って紹介されたが、今はリンク切れとなっている。
※写真は三重テレビ放送「新・ええじゃないか」(11/13)。僧侶は師のご子息の佑昌さん

それを嘆いていると師は、全回分のデータ(少し加筆して金峯山寺の機関紙「金峯山時報」に転載されたもの)を送ってくださった。今日からそれらを順に紹介させていただく。利典師、ありがとうございました!

「山伏への道のり」
私の父・田中得詮は国鉄の職員でした。若い頃から興味持った山修行が高じて、ついには祈禱師になりました。成長してから母から聞いた話ですが、私は1歳半の時、ひどい肺炎にかかり、医者にも見放されました。

母に「自分の子も祈禱で守れないなんて」と責められた父は、蔵王権現様と役行者様に「この子が5歳になったら山上にお連れします」と願を掛け、お蔭様で、私は奇跡的に助かったそうです。その願掛け通りに私は5歳になった時に、父に連れられて山上ケ岳に登拝し、以来、毎年欠かしたことはありません。

とはいえ父の跡を継ぐつもりはありませんでした。子どもの頃は同輩達から「拝み屋さんの子」と呼ばれるのがとても嫌でした。ですが懸命に人のために祈っている父のことは尊敬していました。今にして思えばそれは菩薩行であり、糊口をしのぐ商売とする「拝み屋」とは違うものだったのです。

正直言って山修行は今でも好きではありませんでした。ただ、毎年歩いていると同じ道なのに変わっていることに気づきます。それは自分が変わっているのです。毎年の自分が違うのです。

その気づきを与えてくれるありがたさが少しずつ分かってきました。足の痛みをこらえていれば、痛みはついに快感に変わります。心で心を変えるのは難しいですが、自分を超えた大きな力を感じて行じていけば心を整えることができるのです。
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おっかん(近鉄田原本駅前)再訪!/昭和レトロ食堂(48)

2023年12月05日 | グルメガイド
Facebookの友達で、田原本町にお住まいのYさんのご案内で、「おっかん」(田原本町戎通2丁目179)を再訪した。ここは不思議な場所だ。前回訪問したとき、お客さんはご老人ばかりで、皆さん女将さんとの会話を楽しんでいた。





中には「介護タクシーが来るのを待っています」という人もいた。子ども食堂とは真逆の高齢者食堂(シニア食堂)の雰囲気だ。今回(2023.11.11)はそんなご老人ではなく、常連さんらしき中高年の男女3人が来られていた。女将さんに前回のブログ記事のプリントをお渡しすると、「ウチはお客さんが、皆、宣伝してくれますのや」と目を細めておられた。





Yさんによれば、「麺類(ラーメン、うどん、にゅうめん)もお好み焼きも300円で、おいしいですよ」とのことだった。ラーメンは品切れだったので、にゅうめんとお好み焼きを注文した。出てきたのが写真の料理である。



にゅうめんにはナスが具になっていて、ちょっと驚いたが、おいしかった。ツユも関西風の薄味だった。お好み焼きも、さほど大きくはないが具だくさんだった。




女将の岡田さん。「おっかん」は、高校時代のニックネームだそうだ



「お値段が税込み300円とか500円に統一されていて、選びやすいですね」と申し上げると、「暗算で計算しやすいように、こんな値段にしています」とのこと、なるほど。



日曜と月曜は定休日。火曜日~木曜日の営業は午前5時~午後4時、金曜日と土曜日は午前5時~午後8時だ。朝の早いご商売の方のために、午前5時から店を開け、モーニングメニューを提供しているそうである。

地域に溶け込んだレトロ食堂、女将さんにはご体調に留意され、末永くお店を継続していただきたいものだ。女将さん、ごちそうさまでした、またお邪魔いたします!



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田中利典師の「修験道、大峯修行と私」(朝日新聞「人生あおによし」第1回)

2023年12月04日 | 田中利典師曰く
今日の「田中利典師曰く」は「修験道、大峯修行と私」(師のブログ 2015.1.4 付)。これは朝日新聞奈良版に連載された記事「人生あおによし」(2014年11月・全20回)の初回である。
※写真は三重テレビ放送「新・ええじゃないか」(11/13)。僧侶は師のご子息の佑昌さん

この連載は、師がご自身のブログ(山人のあるがままに)に、記事のURLを貼る格好で全回分を紹介されていたが、残念ながら今はすべて「リンク切れ」になっていて、読むことができない。

今日の記事は、たまたま師がお正月にあたって原稿をテキスト(文章)で公開されていたので、読むことができた。もし師が全回のテキストデータをお持ちなら、ぜひ拝読したいし、当ブログで紹介したいものである。では、以下に初回の全文を抜粋する。

「修験道、大峯修行と私」
昨年(2014年)は世界遺産登録10周年ということでさまざまなことに携わりました。また5年ぶりに5冊目となるなる拙著を大手出版社の集英社から、集英社新書として上梓しました。『体を使って心をおさめるー修験道入門』です。そのほか、『修験道の真実と未来』(京阪奈出版刊)や『奈良の紅葉』(淡交社)、『ちょっと良い話』(自由出版)など私の著述のある本も何冊か出ました。

また「開運!なんでも鑑定団」や「新TV見仏記」はじめ、たくさんのテレビ番組にも出、松平健さんや佐野史郎さんなど多くの方々ともご一緒する機会がありました。シンポジウムでは阿木耀子さんや三田村邦彦さんなどともご一緒しています。

そんな中、昨年秋(2014年11月)には今までの自分を総括するような連載となった、朝日新聞奈良総局、「人生あおによし」にも全20回で連載していただきました。お正月にあたり、第1回分を再掲載します。

*****************

「修験道、大峯修行と私」
皆さんは山伏というとどんな人を思い浮かべますか。山野を駆け巡って一生を送る行者でしょうか。あるいは俗人の願いに応じて加持祈禱をする姿でしょうか。実は、そのいずれもが山伏の大切な修行であり実践です。

私はいま金峯山修験本宗で宗務総長という実務を束ねる役職にあり、また京都府下にある自坊でも加持祈禱や信者さんの相談事に携わっています。さらに講演や会議で各地を回ることも多く、いわば典型的な「里山伏」といってよいでしょう。

しかし毎年何回か大峯山中に入って修行をすることは欠かしたことがありません。いや忙しいのを理由に山に入ることが少なくなると体の調子を崩します。若いころは過酷な山修行は体に悪いと思っていましたが、過剰な負荷を掛けることで逆に体が目覚めるのかもしれません。

人々の悩みや願いに対応するには、厳しい山修行で培う法力が必要です。ですが里で悩みを持った人にばかり相対していると、自分自身の気力が奪われ、力がすり減ってきます。だから自ら邪気を払い、気の濁りをリセットして再び法力を高める山修行が必要になるのです。常に山の修行と里の行を循環する、それが山伏の活動なのです。

修験道は一言で言えば山の宗教です。難しく言えば日本古来の山岳信仰に神道や外来の仏教、道教、陰陽道などが混淆して成立した日本固有の民俗宗教です。山を歩く、礼拝する、滝に打たれる、瞑想する、これ全てが山伏の修行であり、体を使った実践修行です。実修実験の道が修験道。理屈ではなく五体を通して実際の感覚を体得し、それによって心を高めて覚りを目指すのです。

吉野から熊野にかけて紀伊半島の中心を背骨のように貫くのが霊峰大峯山脈。修験道の開祖、役行者に開かれた最高にして最大の根本道場といわれています。大峯山山上ケ岳は今も女人禁制を貫いていることで知られます。

その一帯を含む、北端の吉野山から南端の熊野本宮に至るまで1500メートル級の山々が続く山脈を尊称して大峯山と呼びます。修験道の聖地中の聖地です。吉野山から山上ケ岳に至る山々を金峯山と呼びます。吉野金峯山は役行者が金剛蔵王権現を山上ケ岳で祈り出された伝承によって、修験道発祥の地として根本道場となりました。

その修験道は明治初期に徹底的な弾圧を受けました。徐々に復興はしたものの、宗教史の中では未だに異端のように扱われているのがとても残念です。私は、文明社会が行き詰まりを見せている現代にこそ、自然を恐れ敬い、肉体を使って心を整える修験道の出番だと考えています。

10年前、「紀伊山地の霊場と参詣道」がユネスコの世界遺産に登録されました。これは私が提唱する「修験道ルネサンス」の幕開けだと思っています。1300年の歴史をもつ修験道が、文明社会になぜ必要なのか。私の半生を語りながら、皆さんにお伝えしたいと思います。
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山田太一さんを悼む

2023年12月03日 | 日々是雑感
私が生まれたのは1953年(昭和28年)で、この年から日本でテレビの本放送が始まった。だら物心ついたときからテレビは身近にあったのだが、いわゆる「テレビっ子」ではなかった。しかし、たまたま学生時代に『それぞれの秋』(1973年)で初めて山田太一作品を見てからハマり、その後『岸辺のアルバム』(1977年)、『想い出づくり』(1981年)などをワクワクしながら視聴した。
※トップ写真は、毎日新聞の記事サイト(12/2付)から拝借した

家庭用ビデオデッキを購入した1980年(昭和55年)代前半からは、『ふぞろいの林檎たち』(1983年~)、『輝きたいの』(1984年)、『シャツの店』(1986年)などを立て続けに見た。『男たちの旅路』(1975年~)は、再放送を見た。映画『異人たちとの夏』(1988年)も、テレビで録画したものを見た。これらの中では、やはり『岸辺のアルバム』が出色だった。

「こんな作風の脚本家は空前絶後ではないか」と思っていたので、今回の逝去の報に接して、残念でたまらない。「脚本家ご三家」と呼ばれた向田邦子氏、山田太一氏を失い、残るは倉本聰氏だけになってしまった。山田太一氏のことは毎日新聞(2023.12.2付)が詳しく報じていたので、以下に紹介しておく。山田氏のご冥福をお祈りいたします。

山田太一さん死去 脚本家「男たちの旅路」89歳
「男たちの旅路」「岸辺のアルバム」「ふぞろいの林檎(りんご)たち」など、市井の人々の日常から人間や時代を描くテレビドラマを手がけた脚本家、小説家の山田太一(やまだ・たいち、本名・石坂太一=いしざか・たいち)さんが11月29日、老衰のため死去した。89歳。葬儀は家族で営む。喪主は長男石坂拓郎(いしざか・たくろう)さん。

東京都出身。早稲田大教育学部を卒業後、松竹を経て、1965年にフリーの脚本家になる。松竹で師事した木下恵介監督に請われ、TBS「木下恵介アワー」枠の「3人家族」や、「パンとあこがれ」などの脚本を執筆した。

浅草で国民学校(小学校)の3年生まで過ごし、強制疎開で神奈川県湯河原町へ移住。11歳で敗戦を経験した。戦災孤児のその後の人生を描いた「記念樹」(TBS、66年)や戦争で夫を亡くしたヒロインを描いた72年のNHK連続テレビ小説「藍より青く」など戦争の影が色濃く残る作品を手掛けた。

76年にNHKが脚本家の名前を冠したドラマを開始した際、先発に選ばれた「男たちの旅路」は、鶴田浩二さん演じる特攻隊の生き残りの警備員が主人公。若い世代との相克などを描いて連続ドラマは第4部まで放送され、大きな反響を呼んだ。

また多摩川の増水で民家が流された災害をモチーフに、家族のもろさを描いた「岸辺のアルバム」(TBS、77年)や“四流大学”の男子学生と看護学生の青春群像をとらえた「ふぞろいの林檎たち」シリーズ(TBS、83~97年)など、放送史に残るドラマを多数送り出した。

晩年も、2011年の東日本大震災をテーマに「時は立ちどまらない」(テレビ朝日、14年)といった作品を残すなど、ドラマの可能性を探求し続けた。「空也上人がいた」など小説も数多く発表。「異人たちとの夏」で88年に山本周五郎賞、自伝的エッセー集「月日の残像」で14年に小林秀雄賞を受賞した。

日本脚本アーカイブズ推進コンソーシアムの代表理事を務め、放送局にも映像が残っていない80年代以前の番組の記録を残そうと、脚本を収集・保管する活動にも尽力した。

85年には「家庭や職場等のごく平凡な日常を、抜群のドラマに仕上げて、人間愛を訴えつづけている」として菊池寛賞を受賞。92年度には毎日芸術賞、08年には橋田賞特別賞を受賞した。自著「異人たちとの夏」が英国で映画化され、「異人たち」として来春公開予定となっている。17年1月には脳出血で倒れ、療養していた。

時代 リアルに【評伝】
山田太一さんのドラマは大抵、どこにでもいそうな市井の人が主人公だ。パート4まで続いた「ふぞろいの林檎(りんご)たち」(TBS)は学歴社会に適合できなかった“四流”大学生の青春群像。「ながらえば」(NHK)は息子夫婦と暮らす老人を笠智衆(りゅう・ちしゅう)さんが演じた。歴史上の偉人を取り上げるNHK大河ドラマでも「獅子の時代」で架空の会津藩士を通して社会の底辺から明治維新を描いた。

そんな普通の人が、ある出来事や強烈なキャラクターの人物との出会いにより、自分と向き合わざるを得なくなる。追い込まれた主人公が発する感情の発露に、私たちが見落としている時代の魂を込めた。そんな山田ドラマの数々のセリフは多くの視聴者の心をえぐり、現在活躍する脚本家にも大きな影響を与えた。

小学5年生の時に敗戦を経験。マルクス主義のような思想にはうさん臭さを感じ、理念や美意識ばかりが先走る作品を嫌った。大学卒業後、入社した松竹で師事したのが映画「喜びも悲しみも幾歳月」などを撮った木下恵介監督。庶民の「弱さが美しい」という監督の世界観に影響を受けた。

「予言者ではないか」。山田さんを知る人は、その時代を見る目をそんなふうに評する。有名なエピソードは鶴田浩二さんが主演した「男たちの旅路」(NHK)第3部の「墓場の島」。若い人気歌手が「商業的な曲ばかり歌わされる」と突然引退し、ガソリンスタンドで働くという脚本を書いた。「リアリティーがない」と局側に反対されラストを書き換えたが、放送前に人気絶頂だったキャンディーズが解散を発表した。


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生駒聖天厄除大根炊き2023(by ななまるカード)

2023年12月02日 | 奈良にこだわる
昨日(12/1)は朝から、宝山寺(生駒市門前町)をお参りし、「生駒聖天厄除大根炊き」のふろふき大根をいただいてきた。毎年12月1日の午前0時(つまり11/30深夜)から午後1時頃まで開催されている恒例の行事である。


この写真は、奈良市のHPから拝借した

この日は私にとって、特別な日だった。奈良市が発行する「ななまるカード」(奈良市優待乗車証)が、この日から使えたのである。このカードは、奈良市内の奈良交通バス停留所で乗車または降車した場合、すべて100円で利用できるというスグレモノである。


生駒駅前の「グリーンヒルいこま」で

70歳の誕生月の翌月1日から使える。11/22生まれで、この日に70歳となった私は、12/1から使えたのである(あらかじめ3,000円、チャージしておいた)。


生駒ケーブルの宝山寺駅から、急坂と石段を登る


所々で、紅葉が拝めた



午前7時台のバスは、とても混んでいた。私もこんな時間に、バスに揺られて通勤していたのだ。考えてみれば、平日のこんな時間帯にバスに乗るのは、ずいぶん久しぶりのことである。


急な冷え込みのせいか、参拝者は少なかった



この日は朝の冷え込みがキツかった。しかし生駒ケーブル(近鉄生駒鋼索線)の宝山寺駅から、坂道と石段をひたすら登ったので、お寺に着く頃には、ダウンジャケットの前を開けるほど、体が温まっていた。





参拝者はそんなにたくさんはいなかったが、それでも20人以上の人が、お堂の周りの廊下などに腰掛けて、ふろふき大根に舌鼓を打っていた。





今朝(12/2)の朝日新聞奈良版「大根炊きで心晴れやか 生駒・宝山寺」によると、この日は約8,000食分の大根が用意されたそうだ。信者でつくる「宝山寺青年会」が11/30の朝から、大根約1,300本を輪切りにして、昆布だしやお酒で炊いた。うち約300本は、大腸癌を乗り越えた阪神タイガースの原口文仁選手が寄贈したという。


味噌は1本540円。甘口のおいしい味噌だった


葉付きの大根は、1本500円

大根は、聖天さん(大聖歓喜天)の好物で、これを食べると体から毒が出て、心の悩みを消し去ってくれるそうだ。今年は前夜の午後11時頃から参拝される方が多かったという。晴れやかな気持ちで、お正月を迎えたいものだ。
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