若い頃に角刈りが流行ったことがある。私の髪は、にこげ系なので角刈りはできない。やろうと思ったことはないけれど・・。がっちりした体型で寅さん風の知人が角刈りをやっていたのを思い出す。角刈りをして目つきが悪いと嫌な印象だが、オシャレな彼はいつもニコニコしていたから、散髪したては特に清潔感があって良かった。
この生け垣は道路のものではなく、左のビルの付属だから私有物。こんな生け垣がずーっと続いたらカッコいいだろうけれど、ヨーロッパの都市なんかと違い、日本では景観条例や景観協定は難しいんでしょうね。
検索してみるとありがたい印のようだ。逆卍はナチスのハーケンクロイツとして、負のイメージに定着してしまった。法律でこのマーク使用を禁止している国もあるそうだ。『ウチの家紋は逆卍でナチスと一緒なんですゎ』とある知人が言っていた。
京都ではどこにでもある地蔵盆のときにお祭りをする祠。お寺の境内でもないし、お墓があるわけでもなく、これがあるのは公園の一画。
地蔵によだれかけが掛けてあることは多いが、これは大型でほとんどケープだ。首無し地蔵なのか、頭まですっぽりよだれかけが被っているのか。めくって確かめることはしなかった。
丸に友の字のフタは何なのだろう。さびしげな顔に見えてしまったりするけれど、そういう感情移入の前に、どう考えてもなぜ友なのかわからない。友人、友達、友情、友好、友軍、友子ちゃん・・くらいしか思いつかない。
検索してみたら、『友鉄工業㈱』という会社のマークのようだ。思いがけない何かを期待していたのだけれど、少しがっかり。仲の良い友数人で始めた会社なのだろうか?
綿毛が風に飛ばされる前のタンポポは、透けた一つの宇宙を成しているようだ。この形のままどこへでも弾んで転がっていきそうに見える。
息を吹きかけて飛ばしてごらん。そのように渡されたボンボンのようなタンポポを、口を開けてパクリとやった男の子の動画をYou Tubeで観た。その後はバツのわるそうな顔をして映っていたけれど、とっさの衝動はよくわかる。
タンポポの葉っぱが食べられるということは知っていたけれど、先日テレビを観ていて、生えたばかりの柔かい葉というわけではないのを生でそのまま食べさせられたタレントが美味しいと言っていた。
それなら野菜サラダにでもちょこっと入れたらよさそうだが、犬がマーキングをするようなとこに生えてるのが都会のタンポポ。田舎ではいくらでも山菜が生えてくるのでタンポポなんか誰も食べようとしないけれど、我が家の猫のひたいに生えたら食べてみようと思う。
私の散歩コースの一つ、山科川左岸道路から外環状線道路に抜ける公園。『あぁいいな』と思って撮ろうとする場合、画面の中に邪魔なものは入れたくないからベストアングルを探すわけで、左側にある小学校のネットフェンスも右側に連なっている白くて高い工事囲いも避け、電線も写らぬようにしてビニールのゴミなども無いところを探す。
そうして撮ってみたら、これは日本なのかな・・という風景になった。紅葉は常緑樹が混ざったコントラストがあってこそのものだと思う。この場所は植栽計画の途中で放置されたようなレンガ積みが、何となくいい味を出している。外環側にたまに寄る醍醐図書館もあり、雑な部分を見ないように歩くとなかなかに良い。
路上にブレーキ痕はなく、ものが擦れたようなキズもない。一本のガードレールを支える柱が三本将傾いでいる。アスファルトは支柱基礎を持ちこたえられずに割れている。何がぶつかったのかが判る筈の先頭部分は、ガラ袋をかぶせて隠してある。証拠保全なのだろうか?
車が暴走して事故を起こした場合はたいてい細かい破片が残っていたりして、それらしさが判るものだけれど、これは何とした事か、そのようなものが何も見当たらない。よほどきれいに掃除したのか、それとも戦車級の何かが緩い速度で押しただけだったのか?
何か事故があると、報道のカメラを遮るブルーシートを何人もが持って、必死で何かを隠そうとする。そのシーンを見るたびに違和感と不快感を覚える。マスコミ側の倫理観の無さもさることながら、何でも先ずは隠そうとする体質をどうにかならないものか。こんな事故現場にさえ、そんなことを思う。もしかしてUFOでもぶつかったのか!?
散歩で又この道を通った。人を入れて撮るのは、人権侵害になる場合もありそうだし、いやがられそうな気もしてむずかしい。釣り竿のような長ものを袈裟懸けにかついだオジさんがくぐって行く背後から激写。すれ違う人がいないと若いコは自転車を降りずに身体を低く斜めにして器用に通っていくが、たいていの人は自転車を押していく。
バイクは低いので、からだを前方に倒し首はかろうじて前を確認できる程度に上げて運転したまま通っていく。ある職業の原付バイクが通っていくのを撮ったが、『バイクを降りて通行して下さい』という看板もあることだし、その人が特定されて叱責されたり職場を追われたりする可能性も無きにしもあらずなので掲載は控えた。
誉(ほ)める、褒(ほ)める・・の反対語を調べてみた。
反対語、対義語、対照語として、
叱(しか)る、謗(そし)る、貶(けな)す、罵(ののし)る、腐(くさ)す
が載っていた。
タイトルとした『最近のコは誉めないと伸びない』に対して真っ向から反対論を展開するつもりはない。私の取り上げ方や話の進め方は、鳥瞰ニュースとしながらも、おそらく斜め後方下側から覗き上げるやりかた。
『教鞭をとる』だとか『ご鞭撻をお願いする』だとかの大昔の言葉を使いたがる人でなしがまだまだ居るのだ。教育現場よりも、就労現場での新卒新人研修に当たって『最近のコは・・・』と言われることが多い。学校での人権無視などとは比較にならないほどの人権無視と苛烈なイジメが職場ではまかり通っていることが多い。
収拾がつかなくなりそうなので、思い出したエピソードを一つ。私が子どもの頃の有名女子競泳選手と言えば田中聡子さんだが、現役引退数十年後に子ども水泳教室を主催している時のインタビュー記事の内容。『子どもって、ふとしたきっかけで上手く泳げると、すごく自信を持つんです・・・』というようなことを言い、『そういう瞬間に立ち会える事がなにより嬉しい・・』と結ばれていた。
閑話休題とは、それはさておきという意味だ。恥ずかしながら、私は全く反対の意味だと思い込んでいた。ちょっと話を本筋からずらして、道草を食うようなことだと思ったままこの歳までやってきた。と、こんなずらし方が閑話休題と思っていたが、自分で使ったことがないので、これで恥をかくことはなかった。
閑話休題。結論的に言えば、画像の言葉のような理想を求める高邁な思想が広まって欲しいということに尽きる。この言葉がどのように発せられたかなどは私の任ではないので敢えて触れない。ただ偶然散歩中に見かけて撮った。琴線に触れる句だ。
今でいうなら、とんでもないパワハラや人権侵害が平気で見過ごされていた頃の、教師や大人や年上の叱る、怒るという行為は、自分がされてきたことのコピーだっただろうし、自分本位の感情爆発だったことが多い。アフターフォローがなされるかどうかで、しこりとなって残るかどうかが決まることも多かっただろう。
昔は無茶苦茶なスパルタ式がまかり通っていた。それができにくくなって残念がっている裏返しが『最近のコは誉めないと伸びない』だ。冗談じゃない。指導的立場は客観的評価能力と、それを正確に伝える表現力が大切なのに、『誉めたら伸びる』などと錆びた部品にCRCを吹き付けたらネジが回ったと同じ次元の物言いは失礼な話だ。
つい先日、女子フィギュアの選手を何人も育てたことで有名な山田満知子コーチの長時間インタビュードキュメントをちらちらと観た。選手とコーチの繋がりを取り上げる番組などで彼女のことを知るたびに好感度が上がる。個性と個性が相対峙して、お互いの成長がなされてきたことを正直に伝えている。
それで、感情にまかせて、このように書く私は、どう文章をしめくくろうか苦慮している。着地をイメージせずにやり始めるとこうなることがある。収まりが見いだせないままどこまで書いたらいいのか。私は私の能力を伸ばしてくれるコーチに出会っていないとでも書けばいいか、などと思いつつ。 (もしかしたら)つづく。
『最近のコは誉めないと伸びない』そんなことをよく聞く。話しの流れで、そのあとに続く部分が大事な場合は、ついつい聞き流すのだけれど、『最近のコは・・』の方に力点がある内容だったり、慨嘆だったりすると、反発心が湧いてくる。
つい先頃、ほぼ半世紀ぶりに会う人も多くいた同窓会に出席した。私はそれくらい昔のコだ。その席の思い出話しで、恐かった教師の体罰に話しが及んだら、つぎつぎと『こうやられた、あーやられた』の具体的なことが噴出した。もうほとんどそれらの教師は亡くなっているけれど、我ら皆が決して奴らを許していない。
要領が良いコ、悪いコ。顔色を読むのが出来るコ、出来ないコ。何でもこなせる器用なコ、何をやらせても直ぐにはやれない不器用なコ。気に入られ方を身につけているコ、まずい方にばかり行ってしまうコ。
私も定規の角でコツンとやられた話、げんこつで後頭部をいきなり殴られた話、出席簿で顔を張られた話を披露した。やられたことなどないと思われたコが『あの頃の先生ってみんな頭を叩くのよねー、今なら考えられない暴力教師が多かったわねぇ』と言うのでありました。 つづく
榛名湖の水辺でカワニナを見つけた。手を伸ばして捕れる範囲にさえ居たので、相当数生息しているものと思われる。普通のものより随分と小さい。榛名湖の水面は標高1084mなので大きく成長できないのかも。私が水槽で飼っているものとは種類が違う。これはイボイボがありざらざらしている。
もう旅から戻って一週間経つけれど、何かブログの記事にならないかと、フォト・ファイルから見つけたのがこの画像。大きさを表すために落ちていたプルリングを置いて撮った。調べてみると、タテヒダカワニナだと思われる。蛍の幼虫がこれを食い、標高1000m以上の榛名湖湖畔で蛍が飛ぶのを見ることができるのだそうだ。
帰省した我が故郷でのご馳走。焼き魚などは銘々皿だけれど、こういう家庭料理の出し方が一般的だった。『ざいご』というのは、自分らの住む田舎を少し卑下したニュアンス。在郷が変化したものかも知れない。田舎者は『ざいごもん』という。『ごっつぉ』はご馳走。
左上;ハタイモ(里芋)を煮て皮を取ってタレで味付けしたもの
皮を剥いてから調理せず、煮てからツルリと剥くところがミソ。
◎素朴で里芋本来の味。
中上;ゼンマイとシイタケの煮付け。
干しゼンマイの戻し方に工夫があるそうだ。
◎太くてやわらかくて絶妙。
右上;赤いダイコンと白いダイコンとキュウリのサラダ。マヨネーズ以外に
ベーコンやタマネギで作った秘伝の保存調味料で味付けしてある。
◎食感も味も爽やかでいくらでも食べられる。
左下;ダイコンその他の煮付け。色んな材料を入れてある定番煮付け。
◎おでんなどと違って、これは常温で食べる。
おかずらしいおかず。悪くない。
右下;麩と高野豆腐の料理。これも調理法に独自の工夫がしてあり、
素材の麩は、他所にないかも知れない特殊な麩。
汁気が当たり前なのに敢えて汁気を抑えた調理の逸品。
◎見た目と違い、抜群に美味。創意工夫の絶品。
以上はお金を掛けずに手間暇掛けて、幼なじみの○○ちゃんが私のためにつくってくれた、ざいごごぅつぉ。ごちそうさまでした。
榛名湖はカルデラ湖だ。カルデラだから当然ながら山に囲まれた盆地になっている。水が溜まる条件がそろって湖になっている。それなのに『これは湧き水かなぁ』と何度も不思議そうに言う仲間がいた。
『流れ込む川が無さそうじゃないか』というその人の考え方こそ不思議でたまらなかったので、その件については反論も相の手を入れることもしなかった。山に沁み込んだ雨水が伏流となり、湖の深い底でこんこんと湧き出るイメージを想い描いて、だれかに賛成して欲しかったのか!?
そんな中で、私はマンホールの画像なんかを撮っていた。雨水の導管まであるのか・・カルデラ湖の畔に。出口は湖か!? 汚水は浄化槽があって、やはり最後は湖か!? 榛名湖温泉の源泉はどこかな? 飲み水は井戸水か? やはり、すべての水の源、入口、出口を知りたくなってくる。帰ってからだいぶ経つ今頃になってから。
榛名神社の階段を登っていくと途中に、こんな門や奇岩がいくつかある。あまり興味は湧かないけれど、団体行動中だし一応ときどき立ち止まって撮ってみる。
景色より階段状のステンレス手すりに感心した。初めて見た。握り心地も良い。ふらっとしたときに、普通の手すりだったら握りそこねたりしそうなところを階段踏み外し防止になりそう・・・かな!?