透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

ジョサイア・コンドル

2008-02-23 | A あれこれ



■ ジョサイア・コンドルと氏の一番弟子の辰野金吾。

今回引いたカードはスペードのA。「日本の建築界の母」否、男だから父か、ジョサイア・コンドル。イラストの背景の洋館は中央部分が隠れていて分かりにくいが・・・、鹿鳴館。

コンドルが工部省の招きに応じてイギリスからやって来たのが明治10年、24歳の時だったそうだ(若かったんだ・・・)。コンドルの教えを受けた明治初期の学生達が日本の近代建築の基礎を築いた。辰野金吾もそのひとり。

日本の伝統的な美にすっかり魅せられてしまったコンドルは任期を終えても帰国せずにこの国に永住することを決意して、銀座に事務所を開いて設計の仕事を続けた。

明治政府は御雇建築家に教育と実作を期待した。創られた建築はどれも重厚で存在感があった。弟子達の創った建築も然り。建築が文化であることを体現していた。それが100年足らずで経済活動(だけではないが)の単なる「ハコ」と化してしまった・・・。コンドルや氏の教えを受けた明治初期の建築家達の情熱はいつの間にか消え去ってしまった・・・。

辰野金吾設計の東京駅周辺はガラスの高層建築オンパレードだが、文化的香りがしない。それが私の知性の無さ、感性の鈍さ故ならいいのだが、どうもそれだけではなさそうだ。

休日の昼間っから嘆いていても仕方がない・・・。本稿、強制終了!


平等院鳳凰堂

2008-02-23 | A あれこれ



「建築トランプ」 今回は平等院鳳凰堂。10円玉のデザインに採用されているからこの建築はみんな知っている。でも・・・、建立の経緯などをきちんと知っている人は案外少ないのでは。 歴史に疎い私はこの鳳凰堂のことについてはほとんど何も知らない。オシマイ。

というわけにもいかないので何か書く。

**宇治の別業を伝領していた藤原頼通は、永承七年(1052)に至って、別業を喜捨して仏寺とした。これが平等院の始まりである。ここで、寺の創立やその後の沿革の概略を眺めてみよう。**

カードの背景として写した『日本名建築写真選集 平等院』新潮社(発行1992年)にはこんな書き出しで始まる解説が掲載されている。その要約をここに書いてもいいが、ネット検索するといくらでもこの寺の解説が載っているから省略する。

極楽浄土ってこんなところだ、とそのありさまをを現世に具現化したのが平等院鳳凰堂だということくらいは知識にある。上空から俯瞰するとこの堂が鳳凰に似ているというのが名前の由来だという知識もいつの間にかインプットされている。でも鳳凰堂という名称は古いものではなく、江戸時代になってからのことだろうと先に挙げた写真集の解説で伊藤延男氏は指摘している。

鳳凰をモチーフに造られたわけではなく、江戸時代に誰かがそのように見立てたのだろうか。



同書の図面を転載させていただきました。

中年オジサンにはこの配置図が鉄腕アトムに見える。アトムってこういう格好で飛んでいた。中堂の両側の翼廊(アトムの腕の部分)をピロティ形式にして空中に浮かべているのは翼を表現する為だ、と何かで読んだような気がする。でもそれも後世の人がそのように「解釈」したに過ぎなくて創建当時には何か別の「意図」があったということだろうか。

残念ながら宇治には行ったことがない。やはり京都、奈良にいつか出かけなくては・・・。