透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

絵は謎に満ちている フェルメール

2006-10-05 | A あれこれ

 
左:オランダの画家フェルメールの全作品を欧米の美術館に訪ねる
右:2004年東京都美術館で開催された絵画展、フェルメールの「絵画芸術」が公開された。このチケットではタイトルが「画家のアトリエ」となっている。

 フェルメールは人気のある画家だ。特に「真珠の耳飾りの少女」(写真下)は彼の作品の中で最も有名でかつ最も人気のある作品かもしれない。この絵のモデルの少女は誰なのか・・・。

2004年にはフェルメール家で働く若いお手伝いの娘がこの絵のモデルになる様子を描いた同名の映画が公開された。フェルメールの絵のような光の扱いが印象的だった。本当にこの絵によく似た少女が出演していた。

同年、上野で絵画展(写真右)が開催されたが、会場がすごく混んでいたという記憶がある(絵画展ではフェルメールの作品は「画家のアトリエ」だけだったが、この絵のポストカードやポスターが売られていたと思う)。

『フェルメール全点踏破の旅』朽木ゆり子/集英社新書


この本はフェルメールの絵の全てを欧米の美術館に訪ねるという集英社の贅沢な企画の記録だ。フェルメールは43年の生涯で三十数枚の絵を描いた。この本では37枚となっているが、真贋はっきりしない作品があってきちんと作品点数が定まらないということらしい。

先日、川上弘美の新刊本を後回しにしてこの本を購入した。美術史家の手になる本は専門的でなかなか読めないが、この本は気楽に読むことが出来た。結局この旅で全点踏破は叶わなかったものの著者は33点を観ることが出来たという。


「真珠の耳飾りの少女」 

この新書では全作品がこのようにカラーで紹介されている。絵を観るだけでも楽しい。


室内に入り込む光の中に浮かび上がる女性・・・。フェルメールの絵は光が印象的だが、ほとんどが左側に窓があって、そこから光が射している。何故だろう・・・。

右手で人の横顔を描くと左を向いた顔になる(ためしに描いて見て下さい、そうでしょ?)。その場合、光は左からだと逆光にならずに顔に射す。私は単純にそんな理由を考えたのだがどうだろう。尤も例外的に光に背を向けている絵もあるが・・・。

あるいは、右左それぞれに「意味」があるのかも知れない・・・。残念ながらこの本にはその理由までは示されていない。


 


もう半年近く経ちました

2006-10-04 | A あれこれ

**今朝のNHKの「新日曜美術館」は画家の藤田嗣治の特集だった。ゲストは評論家の立花隆さん。立花さんのオフィスの外壁にはネコの顔が描かれている。そして、藤田もよくネコを描いた。現在、竹橋の国立近代美術館で生誕120年の展覧会が開催されている。ポスターに採用された「カフェにて」の女性の物憂げな表情に、必ずしも生活が幸せではなかったという、藤田の内面を見た、と思った。** 

今年の4月16日(日)、こんな書き出しでブログを始めました。はやいものでもう半年近く経ちました。写真のアップの仕方が分からなかったので文章のみでした。今なら、こんな写真を添付するでしょう。

 

左:猫ビルの外観 文藝春秋11月臨時増刊号より(9611)
右:藤田嗣治展のチケット(060407)

映画のチケットなどを私は
ダイアリーの余白に貼り付けて保存してあります。記録として残しておくことが好きなんです。

当初、1週間に3日ないし4日のペースでと考えていましたが、今のところほぼ毎日更新しています。このペースがいつまで保てるかは分かりません。生活記録、情報発信のツールとしてこれからもブログを活用していこうと思っています。


 


抽象的な建築の抽象的な人間

2006-10-03 | A あれこれ


路上観察 松本市内にて

 青木淳(*1)は最近の雑誌(建築技術 10月号)に青森県立美術館について「コンペ時におけるプロジェクトの発想」と題する小論を寄せている。

その中で**現在の美術館展示室の主流はホワイトキューブである。白い長方形の部屋。均質な光。サイズとプロポーションだけに還元された四角い部屋。世界中にホワイトキューブの展示室が広まっているし、多くの美術作家もまたそれを望んでいる。**と指摘している。このような「抽象的な建築」は美術館だけにとどまらず、最近のあらゆる用途の建築の特徴のようにも思われる。青木はこのあとに**しかし私たちは、青森にあってここでなければできない空間をもつことも、同じくらいに重要だと考えた。**と続け、敢えてそういう建築にはしなかったと書いている。

*1 青森県立美術館の設計者

塩尻市の「市民交流センター」の一次審査に残った5作品のプレゼンテーションボードに描かれた建築はどれもこの特徴を備えている。そこに描かれているパース(完成予想図)からは、実体としての建築がイメージしにくい。点景として描かれている人間も抽象的な形をしている(以前5作品を紹介しているサイトのアドレスを載せたので確かめて欲しい)。(09/21のブログ)

先日松本市内で見かけたショーウィンドウのディスプレイを見てふと思った。最近パースに描かれる抽象的な人間と同じではないか、と。

抽象的な空間には抽象的な人間が似つかわしいということなのだろうか。生身でない、無機的で抽象的な人間、実社会でも人をそのように捉えてしまう傾向があるのかも知れない。そしてそのことと最近の理解不能な悲惨な事件とも或いは関係があるのかも知れない。


 


「木精」 北杜夫

2006-10-03 | A 読書日記

 先日、東京へ日帰りで出張した。私には車中は最適な読書空間。

『木精(こだま)』北杜夫/新潮文庫を持参した。往路の3時間に加えて、セミナーの休憩時間で読了した。再読することはあまりないが、この小説と『幽霊』だけは繰り返し読んできた。81年、96年、00年に続き今回で4回目だ。

人妻との不倫関係を清算するためにドイツに留学した青年医師が、帰国する直前トーマス・マンゆかりの地を辿る旅に出る。旅の終りに作家として生きることを自覚して『幽霊』を書き出す・・・。

不倫関係の清算などと書いてしまうと、なにやら俗っぽい小説のようだが、たまたま恋した女性が既婚者だったということだ。それはあたかも初恋物語のように初々しい。
 
**ぼくは椅子にかけた女に近づき、その腕を調べようとして、なにげなくその顔立ちを見た。すると、幼いころから思春期を通じて、ぼくが訳もなく惹きつけられていった幾人かの少女や少年の記憶が、たちまちのうちに、幻想のごとく立ちのぼってきた。あの切り抜いた少女歌劇の少女の顔にしても、たしか片側は愉しげで、もう一方の片側は、生真面目な、憂鬱そうな顔をしてはいなかったか。その女性―まだ少女っぽさが残っている彼女の顔は、あの写真の片面同様、沈んで、気がふさいで、もの悲しげだった。**

蕁麻疹の治療のために往診して初めて会った女性の最初の印象はこうだ。

**君を愛したということは、或いはぼくの人生が表面的な不幸の形で終るにせよ、なおかつ幸福であったといえることにつながるのだ。倫子、ではさようなら。ぼくは自分のもっと古い過去の時代に戻っていかねばならない。それを書き造形することがぼくの孤独な凍えた宿命なのだから。**

物語の終盤でこの恋を主人公はこのように総括する。

そして「人はなぜ追憶を語るのだろうか」に続けて「どの民族にも神話があるように、どの個人にも心の神話があるものだ。・・・」と『幽霊』を書きはじめる。
『木精』は『幽霊』の続編とされているが、『木精』『幽霊』の順に読むのもいいかもしれない。次回はそうしたい。

この小説を越える作品などないということを確認するために読書を続けているようなものだ、と書いてしまおう。