和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

なんだか変で、それでいて。

2023-06-15 | 絵・言葉
『街道をゆく』。その須田剋太の挿絵を見ています。

うん。カタログを手許へと置きながら、
この魅力はいったい何かと思いながら。
余分な線が描きこまれたデッサンのような挿画。
まるで地面と歴史からの補助線がのびたようで。
まるで眼前の電線のように張り巡されたようで。

それに較べると、安野光雅画伯の『街道をゆく』の装画では、
落ち着きさが気になり、万事落ち着かない私には不釣り合い。

うん。これを私の好みの問題にしてしまったらそれまでですが、
こういう始末に困る魅力を、司馬さんは語ってくれております。

モンゴル高原に、司馬さんが須田さんといっしょに行った時の
ことを語った箇所があるのでした。

「・・須田さんが、半ば朽ちたタラップを降りつつ、
 草原を見はるかしたのをおぼえています。

 『 パリよりもすごい 』

 とつぶやかれたのは、おかしくもあり、感動的でもありました。
 私としてはお誘いした甲斐があったと思い、心満ちた気分でした。」

     ( p478~479 「司馬遼太郎が考えたこと 14」新潮文庫 )

ここで、須田画伯が、モンゴル高原とパリとをひきあいに出した。
そのことに、司馬さんは触れながら正岡子規をひきあいに出します。

「 二律背反とまで行かないにせよ、
  なんだか変で、それでいて張りのあるイメージなのです。

  例をあげると、子規の
 『 柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺 』のような張りであります。

  相異なる事物(この場合、柿と鐘)が、平然と一ツ世界に同居しますと、
  ときに磁力のように、たがいにはねのけたり、吸着したりします。

  そのことによってふしぎな音や光を発したりもします。
  芸術的効果というべきものであります。

  須田さんの絵画(とくに『街道をゆく』の装画)は、
  ほとんど無作為にしてそのようでありました。

  ・・・・そうでなければ画面の緊張というのは生み出されません。
  緊張とは、造形上の矛盾を、二つの相反する力が、
  克服しようとして漲(みなぎ)ってくる場合のことを言います。

  それにしても、人工で詰まったパリと、非人工の美ともいうべき
  モンゴル草原をとっさに同じ括弧(かっこ)のなかに入れて
  比較する須田さんのおかしさ・・・・・     」( p479~480 )


はい。この言葉を頼りに、また須田剋太画伯の
『街道をゆく』の装画を、ひらいてみることに。 
                           


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素朴な元気のようなもの。

2023-06-08 | 絵・言葉
司馬遼太郎著「微光のなかの宇宙 私の美術観」(中公文庫・1991年)。
はい。注文してあったこの古本が届く。
目次のはじまりは『裸眼で』
目次のおわりには『出離といえるような』。

はい、はじまりとおわりとを読んでみる。
司馬さんは昭和29年から同33年ごろまで、
「 私は、20代のおわりから30代の前半まで、
  絵を見て感想を書くことが勤めていた新聞社でのしごとだった。」(p15)

とあります。その勤めがおわってからのことが語られておりました。
自戒をこめてなのでしょう。こんなエピソードを紹介されています。

「 戦前からの古い画家で、戦後、パリ画壇の様式変遷史を
  そのままたどった人がいた。ついに≪最先端≫の抽象画に入ったものの、
  あたらしい形象を創りだすことができず、

  医大の研究室から電子顕微鏡による動植物の細胞写真をもらってきて
  はほとんどそのまま模写し、構図化していたりした。ただ形がおもしろい
  というだけで芸術の唯一の力である精神などは存在しなかった。
  
  ・・・あらためて思わせられたのは、画論というのは
  それを開創したその画家だけに通用するもので、
  他人の論理や他の社会が生んだ様式の追随者になるというのは、
  その人の芸術だけでなく人生をも無意味にしてしまうのではないか
  と激しくおもった。・・

  もはや仕事で絵を見る必要がなくなったときから、
  大げさにいうと自分をとりもどした。

  奇妙なことに――まったく別なことだが――右の(上の)期間、
  
  文学雑誌もいわば仕事としてたんねんに読んでいたつもりだったが、
  捕虜の身から解放されたような気がして、同時に怠けるようになった。

  ・・・時機が終るのと、小説を書きはじめるのと
  おなじ日だといいたいほどにかさなっていた。
  もはや私自身を拘束するのは自身以外になくて、
  文壇などは考えなかった。・・・・・

  自由を持続するには自分なりの理論めかしいものと、
  素朴な元気のようなものが必要だったが、

  右(上)の4年間の息ぐるしさのおかげで、
  ざっとしたものをごく自然にもつことができた。 」(~p29)


うん。とりあえず、私にできそうなことは、
司馬さんにとっての、小説と絵との結びつきに思いを馳せることでした。

『裸眼で』の最後を忘れないために引用しておくことに。

「 ・・むろん、解放をおそれる画家や画壇勢力もある。
  それはそれでよく、そうあることも自由でなければ、
  ほんとうに物を創りだしたり、それを見たりする者の自由はない。

  ・・物が沈黙のなかで創られる以上、創られてからも、
  ひたすらに見すえられることに堪え、平然と
  無視される勇気を本来内蔵しているべきものなのである。

  繰りかえしいうようだが、19世紀以後の美術は理論の虚喝が多すぎた。
  私自身、あやうくその魔法にからめとられかけ、やっと逃げだしたものの、
  自分だけの裸眼で驚きを見つけてゆくことについては、
  遅々としている。    」(p38~39)


 この本の目次の最後にある須田剋太画伯との旅は、
 『 自分だけの裸眼で驚きを見つけてゆく 』の『自分だけ』から
 解き放たれるような声が聞こえてくるような。そんな気がするんです。
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画と文の旅のセッション。

2023-06-05 | 絵・言葉
図録「『司馬遼太郎が愛した世界』展」に
 中塚宏行氏の短い文(p148)がありました。

「  司馬遼太郎は須田剋太を次のように語っている。

 『 まことに稀有な人と出会ってしまったような感じがした。
   以後、このひとと旅をし、やがてそれが
   作品になってあらわれてくるという二重の愉しみに
   ひきずられるようにして、旅をかさねるようになった。 』(241頁)

 とあるように、『街道をゆく』のなかには、
 常識をわきまえた大人である司馬遼太郎が、
 須田剋太の子供のような行動や言動、姿、形を観察して、

 それを生き生きと描写している箇所が随所に出てきている。
 その語りは文章にほのぼのとしたユーモアの味を添えている。

 そして続く。

『 ≪街道をゆく≫は私にとって義務ではなくなり、そのつど
  須田剋太という人格と作品に出会えるということのために、
  山襞に入りこんだり、谷間を押しわけたり、
  寒村の軒のひさしの下に佇んだり旅をつづけてきた。』(241頁)

  ※ 司馬遼太郎「微光のなかの宇宙 私の美術観』中公文庫1997年 」


うん。中塚宏行氏が教えてくれている『街道をゆく』の楽しみ方とは、
どうやら、司馬遼太郎と須田剋太の場所をかえての旅のセッションを
居ながらにして愉しめるところにあるようだと、ひとり頷いてみます。

とすると、『街道をゆく』を読む醍醐味を堪能するのならば、
司馬さんを読みながら、須田剋太の挿絵集を脇に置く愉しみ。


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何より驚いたことは。

2023-06-04 | 絵・言葉
本の話は、人のを読むのも、自分で書くのも、
どちらも楽しい。はい。楽しめるタイプです。

図録「『司馬遼太郎が愛した世界』展」に、
司馬遼太郎著「微光のなかの宇宙 私の美術観」中公文庫からの
引用がありました。八木一夫氏のオブジェ作品『ザムザ氏の散歩』
をとりあげた箇所が短く引用されておりました。

「 司馬遼太郎は八木一夫について次のように語っている。

 『 若いころの八木に、私はつよく文学者を感じ、八木が
   いるかぎりうかつに小説など書けないと思ったことがある』(202頁)

 『 私は当時、柳宗悦を読みすぎていたせいか、
   焼物における用のことばかりを喋り、結果として
   走泥社の方向を理解する側に立っていないというふうでもあった。

   そのくせ一方ではかれの≪ザムザ氏の散歩≫に
   はげしい衝撃をうけており、そういうものをうみおとしたまま
   風狂に笑っている八木一夫という人物につよい関心をもち、
   できればかれの精神と思想を手ざわりで知りたいとおもっていた。 』
                      (190-191頁)   」

図録の130ページから数ページにわたって、八木一夫氏の
オブジェ作品の写真掲載があったところに、その言葉がありました。

うん。オブジェ作品か。ちっとも興味がわかなかったけれど、
何だか知りたくなり、古本で文庫「微光のなかの宇宙」を注文。

そして、図録には、こんな箇所もあります(p122)。

「 私は、20代のおわりから30代の前半まで、
  絵を見て感想を書くことが、勤めていた新聞社でのしごとだった。

  絵を見るというより、正確には、本を買いこんできて
  絵画理論を頭につめこむことを自分に強いた。

  この4年ほどのあいだ、一度も絵を見て
  楽しんだこともなければ、感動したこともない。

  もはや仕事で絵を見る必要がなくなったときから、
  大げさにいうと自分をとりもどした。何より驚いたことは、
  絵を見て自由に感動できるようになったことである。

  19世紀以後の美術は理論の虚喝が多すぎた。
  私自身、あやうくその魔法にからめとられかけ、
  やっと逃げだした 』。・・・・        」

うん。この「微光のなかの宇宙」に須田剋太も登場してるらしい。
はい。やっと私にも、読み頃をむかえたような気分で古本を注文。
はい。まだ届きません。


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図録の愉しみ。

2023-06-02 | 絵・言葉
図録「『司馬遼太郎が愛した世界』展」を古本で購入。
はい。買ってよかった一冊。

図録の最後にはこうありました。

 編集――NHK/NHKプロモーション/朝日新聞社
 編集協力―神奈川近代文学館
 製作―――求龍堂
 発行 ・・・・・・・・・

平成11年~12年にかけて東京・熊本・広島・山口
横浜・大阪・名古屋・京都・神奈川と各会場での展覧会の図録。

 後援が、文化庁で
 監修が、井上ひさし・安野光雅・青木彰・木村重信

たとえば、『街道をゆく』のページでは、須田画伯の
あれ、こんな挿絵があったのかという選択眼がひかります。

各ページは、余白をゆったりとった詩集のように配列の妙が伝わります。
何よりも、ひらくこちらが、ゆったりとした気分にひたれます。
まるで、時間をかけて配列された美術展での各美術品の空間に
招き入れられたような感触が味わえました。

うん。時にはひらいてみたくなる図録です。
忘れないうちに、本棚に立てておくことに。

まったく、司馬さんの小説なんてちっとも読んでいないのにね。



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ジャンク(中国の帆船)

2023-05-30 | 絵・言葉
私と本とのつき合い方は、たとえれば、辞書をひく感じの
パラパラ読みなのだと、この頃合点するようになりました。
はい。一冊の本を最後まで読みとおせないという意味です。

さてっと、松山善三氏が
『 須田先生の絵を眺めていると、生きる元気がわいてくるのです 』
 ( p232 「司馬遼太郎が考えたこと 13」新潮文庫 須田剋太展 )

と、司馬さんとともに、ジャンクの絵を眺めて感想を漏らす場面がありました。

ジャンクっていったいなにか?
という疑問もありましたので、この際未読の
司馬遼太郎著「街道をゆく 19(中国・江南のみち)」を古本で注文。
それが昨日届く。ありました。本の最後のほうに
『戎克(ジャンク)』という箇所がありました。
こうあります。

「こんどの旅の主題のひとつは、ジャンクを見ることであった。」
( p328 ワイド版「街道をゆく」朝日新聞社2005年 以下はこの本の頁 )

ちゃんとジャンクの写真(1981年撮影)p331も載っています。

「『戎克(ジャンク)―中国の帆船』という古い本が、私の手もとにあった。
 昭和16年刊で、しかも著者の個人名がなく(編集人は小林宗一)、
 発行所は『中支戎克協会』となっている・・・・」(p339)

「 著者は、当然、船舶の専門家であろう。
  科学的な態度で書かれているのに、
  船を生きものとして見ているという
  人格的な情感がときに行文にあらわれる。 」(p340)

はい。その本からも引用されているのですが、そこから一か所

「 戎克は其型は古代船式で頗る簡単ではあるが、
  其用途に依り実際の経験から仕事の仕易い様に
  すべてが実用本意で非常に頑丈に造られてゐる。 」(p340)

司馬さんの話はそれてゆくようで、本題へともどります。
その逸れ具合と、もどり具合が味わえる場面を引用してみることに。

「ある夏、日本海事史学会が兵庫県の西宮市の戎(えびす)神社の
 境内でおこなわれたことがあった。戎神社はいまは福を招くという
 信仰でささえられているが、もともとは漁民の神であったのだろう。

 その神社の境内を画している桃山ふうの練塀(ねりべい)の豪壮さは、
 京都の東寺のそれとならぶべきもので、
  
 すでにいまは浜から遠くなっているものの、堀のうちは
 うねるような浜の砂で満たされ、磯馴(そな)れじみた
 古松が浜の気分をよく象徴している。まことに、
 海事史の研究者たちの集まる場所としてふさわしいと思われた。
 ・・・・・・

 甬江(ようこう)をくだりながら、・・
 西宮戎神社での集いを思いだしていた。

 前後左右を帆走しているジャンクを見ているうちに、
 素人の自分がこれを見ていることの贅沢さを思ったりした。

 日本の海事史学者の多くは、なまのジャンクを見る機会を、
 さほどには持っていないのである。           」(p350)

『見る機会』をえた司馬さんの言葉もありました。

「 『港監五号』は、わざと低速で走っている。
  すれちがったり追いこしたりしてゆくジャンクたちに
  大波をあびせまいとする配慮であろうかと想像した。

  それでも、追いぬかれたジャンクは、災難だった。
  そのつど、大きなあと波のために踊るように上下している。

  ( ジャンク踊りだ )と、
   その壮観におどろいてしまった。
  そのくせジャンクは、船ごと笑いさざめいているように平気なのである。

  私どもは、ジャンクとすれちがうたびにふりかえった。
  ジャンクをその船尾(とも)から見るせいか、
  みるみるこの河海両棲の生物は船尾を持ちあげ、
  波間に落ち沈んで突っこみそうになるのだが、
  その独特の船体のせいか、たちまち波の山に馳せ登り、
  こんどは船首をたかだかと揚げる。

  ともかくもシーソー・ゲームのように
  派手にピッチングを繰りかえしながら
  遠ざかってゆくのである。

  舷側(げんそく)が高いために、
  船中の漁夫や水主(かこ)は頭ぐらいしか見えない。
  ときに平然とめしを食っていたり、空を眺めたりしている。
   
  ( さすがジャンクだ )と、
  滑稽とも頼もしさともつかぬ気持のさざめきをおぼえた。  」(p327)


はい。ここを読んだあとに、わずか2ページの司馬遼太郎の
「 もう一つの地球 (『須田剋太展』) 」の後半を読みかえすことに


「 『 須田先生の絵を眺めていると、生きる元気がわいてくるのです 』
  といったのは、松山善三氏だった。
  いわれたとき、目の前に、光が満ちてくる思いがした。

  中国の長江を、朝の陽を浴びながら、
  ジャンクが躍るようにすすんでいる。

  画伯のそういう絵が、松山氏と私の前に展示されていたのである。

『 たしかに、このジャンク、地球の生物以外の、もう一つの生物ですね 』

 そう言っているうちに、私のからだの中に、
 もういっぴきの私が誕生しているのを感じた。
 それがはしゃぎまわるのを、絵の前にいる間じゅう感じつづけた。

 この私(ひそ)かな体験は、画伯が、もう一つのちきゅうを、
 生物ぐるみ、創りつづけていることの、たしかなあかしだと思っている。

 それを感じるだけの力を、平素養いつづけねばならないことは、
 いうまでもない。    ( 昭和61年4月 )        」

     ( p233 「司馬遼太郎が考えたこと 13」新潮文庫 )


 
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須田剋太を読む愉しさ。

2023-05-29 | 絵・言葉
須田剋太の挿絵『街道をゆく』を見ながら、
さて、これをどう読んだらよいものかと思う。

さいわいなことに、『司馬遼太郎が考えたこと』(新潮文庫)が身近にある。
まるで、須田画伯の言葉を、分かりやすく翻訳するようにして、
須田絵画を、司馬さんが嚙み砕いて言葉にかえてくれています。

『街道をゆく』の司馬さんは、取材で共に須田画伯と歩いてる。
身近で知る司馬さんが言葉を選び浮き彫りにする画伯絵画の姿。

『 十六、七年、私がこの人(須田画伯)を見つめつづけてきて
  驚かされるのは、影ほどの老いも見られないことである。 』

  ( p142 「司馬遼太郎が考えたこと 14」 )

「 ここでちょっと余談をはさむと、
  絵画は自然を説明するものなのか、それとも
  タブローから生み出される宇宙最初の――自然を超えた――
  形象なのかと問われれば、
  画伯は圧倒的に後者だと私は答える。

  ――富士山はこうなのです。
  というのが、多くの画家によって描かれてきた富士山の絵だが、

  須田画伯のはそうではなく、たとえ富士を描いても、
  それはたったいま生まれてきた何かであって、

  人が富士と呼べばそうであり、人が心といえばそうである。
  あるいは人が抽象的形象とみればそれでもよく、

  ともかくも、画伯によってはじめて出現するなにかである。
  おそらくこの絵画思想は、妙義山(注:)に籠もりたいというときには、
  すでにその萌芽があったにちがいない。  」

    ( p286~287 「司馬遼太郎が考えたこと 14」 )

 注:≪ おそらく二十そこそこに、故郷の妙義山に山籠もりしていた ≫

はい。須田画伯の挿絵『街道をゆく』を見ながら、
司馬さんの画伯への言及を読める醍醐味と楽しさ。
こんな箇所もありました。


「 ・・わが友では、須田剋太を好む。
  いずれも、地の霊が人に化したかと思われるような
  おそるべき魂をもちながら、

  その生き方はかぼそく、人には優しく、
  腫れあがった皮膚のように風にさえ傷みやすい。

  そのくせ画を創りあげるときには、
  造形を創るという匠気をいっさいわすれ、
  地と天の中に両手を突き入れて霊そのものの
  躍動をつかみあげることに夢中になる。

  しかしながら、鬼面人を驚かすような構成はまれにしかとらず、
  たいていは花や野の樹々といったおだやかな生命をみつめ、

  そのなかに天地を動かすような何事かを見究めつくそうとする。 」

  ( p194 「司馬遼太郎が考えたこと 9」  )


まだまだ、こぼれ落ちそうな司馬さんの須田画伯への言及を
鏡のようにして須田画伯の挿絵『街道をゆく』を見る楽しみ。


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『 作文の研究じゃいけないんですか 』

2023-02-16 | 絵・言葉
昨日は、思いったって出かける場所がありました。
もどってきたらもうブログの更新をせず仕舞い(笑)。

一昨日、古本が届きました。「大村はま白寿記念文集」とあり、
題が「かけがえなき この教室に集う」( 小学館・2004年 )。
この目次をめくっていると、藤原正彦の3ぺージの短文がある。
はい。これを読んで、私はもう満腹。

藤原正彦氏の短文は、内容がこれでもかと、詰まっていて、
これは大胆カットしなければ、ここには引用できないなあ。
ここでは、『 作文 』に関連する箇所とりあげてみます。

作文といえば、大村はま先生は、講演で
信州の教育風土を語った中にこんな場面があったことが
あらためて思い浮かびます。まずはそこから引用はじめ。

「・・とうとう私は、職員室のまん中で20幾人かいる先生がたの
 まん中で――校長先生ももちろんおいでになっていました――
 『 作文の研究じゃいけないんですか! 』と、大声でどなってしまいました。」

   ( p20 大村はま「新編 教えるということ」ちくま学芸文庫 )


もどって、藤原正彦氏の短文に、『作文』が登場しておりました。
場面は、正彦氏と大村はまの対談に関連してはじまっております。

「 母(藤原てい)が県立諏訪高女に12歳で入学したのは昭和6年だから、
  大村はま先生は25歳だったはずである。 」 (p322)

正彦氏の文に、母ていさんの『作文』の話題がありました。

「 先生が本気で指導されていたことは、
  母の作文までよく覚えていることからも分かった。
 
  寄宿舎住まいの母が、週末に両親の元に帰る際には、
  祖父が途中まで迎えに来ることになっていた。

  早く着いた母が身を隠していると、祖父が
  『 ていはどこだ、いねーか 』とあちこちを探し回る。
  
  それが帰省の楽しみの一つだった、
  などというエピソードを聞かせていただいた。

  70年以上覚えているのだから、よほど真剣に
  生徒の作文を読まれていたはずである。・・
  このような・・作文指導と励ましがあったから、

  後に母は『流れる星は生きている』を書く気になったのだろう。
  母に刺激されて父(新田次郎)が書き始め、
  両親の影響で私も書き始めたから、

  我が家の文運はすべて大村はま先生の贈り物だったとも言える。 」
                             ( p324 )

この藤原正彦氏の短文の最後には、小さい挿絵が載っていました。
遠くに山々が前後してあり、その前に林がひろがり一番手前には、
草原のような道を帽子をかぶって髪をなびかせて歩く女性がいる。
腕には白いものを抱え、諏訪の山々へ向き合い歩いているのです。

はい。正彦氏の短文に、思い当たる箇所があります。
そこも引用しておくことに。

「 現に、生徒の作文を抱えて歩いていたら、校長に

 『 そんなものはストーブにくべてしまえ 』と

  いわれたとうかがった。真意は

 『 たとえ忙しくて作文をすべて読んでやれなくても、
   ぜひ今のままどしどし書かせてくれ 』なのである。

  手のかかる作文指導を続ける若い教師への
  ねぎらいであり励ましである。
  先生はこのように荒っぽく鍛えられたのだろうが、
  諏訪人のこんな物言いには大分悩まされたと思う。

 『 諏訪で育てられた 』と言われたのでうれしかった。
  先生の度量の大きさであろう。   」( p323 )


うん。挿絵のそば、藤原正彦氏の文の最後も引用しておかなきゃ。

「 ・・・大村先生にお会いして、
  教育界にもこのような独創的な人がいるのだ、
  このような先生に日本は支えられていたのだ、
  と感銘を受けた。

  帰途、大村先生の薫陶の最下流に立っている
  自分が誇らしかった。            」( p324 )


これだけ引用しても、引用したりない箇所が残ります。
藤原正彦氏の短文から、抜け出せない気分でおります。

はい。もうすこしこの短文のまわりをウロウロしてみます。
ということで、次のブログも、このウロウロがつづきます。


 





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『 旅の絵本 』と『 河童の三平 』

2023-02-14 | 絵・言葉
安野光雅著「旅の絵本」を、
はじめてひらいたとき、私はつまらなかった。

はい。大村はま・安野光雅対談を読んで、
なるほど、なるほど。と合点したしだい。
そうすると、そこから、連想がひろがる。

はい。ゆっくりと時間をかけてひろがる。
たとえば、私が思い描いたのは、掛け軸。

床の間に、掛け軸がかかっているイメージ。
季節で掛け軸を替えるのが本来でしょうが、
一年中ほとんど同じ掛け軸の時もあります。

そのひとつ、水墨画の山水を描いた掛け軸。
掛け軸の下には川の水が流れていてだんだん、
掛け軸の上にゆくにしたがい深山へ導かれる。

その川に橋などがかかっていて、そこを人が
渡っていたりすると、奥には人家があったり。

はい。安野光雅著『 旅の絵本 』というのは、
発想が同じなのじゃないのかと思ったわけです。

掛け軸の水墨画のような世界を、カラーの絵本で表現している。
そう思えば、連綿と続く日本の絵の表現の流れとつながりそう。

はい。ぼんやりしていると、もうひとつ思い浮かんだのは、
水木しげる著「河童の三平(全)」(ちくま文庫)でした。
うん。そのはじまりを今日は引用したくなりました。
こちらは、マンガですから、当然言葉もありました。
はじまりは

「 ここは5年か10年にひとりかふたりの
  人しかはいってこないという山奥である。
  そこに一軒の家があった・・・・     』

こうして、山の傾斜に藁ぶきの屋根の家がありました。
お爺さんと主人公が住んでいるようです。お爺さんが、

「 おまえはきょうから小学一年生として村の小学校に入学する 」

主人公は、河原三平。笹原をザワザワザワと手でわけて学校へ。
 「  学校まで10キロもあるのだ  」

そんなある日、三平は川に魚つりに行き、舟でねむってしまいます。

「 三平が、ふつうの子どものように、10時間ねむればしぜんに
  目がさめるというのなら、問題はなかったが三平は生まれつき
  一度ねむると、人がおこすまで目がさめない子どもだった。 」(p15)

 
「 なん時間 いや なん日間ねむりつづけたのであろうか・・・
  船はみょうなところへながされていた            」

はい。このp16の絵が、川を中心に切り立った奥深い山間が描かれています。
その川の真中に舟がすすみ、グーグーと鼾が聞こえます。


佐藤坊やのことを、思い浮かべているうちに、
水墨画から河童の三平へ思いが広がりました。

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『 旅の絵本 』の魅力。

2023-02-13 | 絵・言葉
大村はま・安野光雅対談で
安野光雅著『 旅の絵本 』のことが取り上げられています
( ちなみに、この絵本は1977年福音館書店から発売。以後続刊も )。

この絵本に関しての2人の会話は丁々発止という感じで弾んでいます。
ですが、両方を引用していると、ゴチャゴチャしてしまう。ここでは、
大村はまさんの言葉だけを引用してみることに。
本屋さんで、この絵本を見つけた大村さんです。

大村】 ほんとにうれしくてね。それぐらいこれはうまく使えるんです。
    教材に。それが、ちょっと見てすぐわかったので、
    後はよく見もしないで買って家へ抱いて帰ったんです。

    ことばが書いてないからいくらでも読める。
     ・・・・・


はい。この絵本には、言葉がなくて、絵だけでした。
   だからいくらでも、言葉をつけていく楽しみがある。


大村】  たとえば、第1ページ、風が吹いているでしょう。
     風といったっていろいろ吹き方がありますから、     
     そよそよとか、さやさやとか、いろんな音のことばが・・・

     第2ページ、ここに人が話している。交渉している。
     馬を貸してくれということを言っているですが、
     交渉するとか、相談するとか、お願いするとか、
     ここから語彙がずっと広がるでしょう。・・・・・

     こういうふうに見ていくと、あっちこっちで、
     二人とか三人で話をしているんですね。・・・・ 

     それを実際、授業で使ったんです。まず最初には、
     語彙でやったんですよ。そこから広がることばを
     できるだけ拾ったんです。できる子もできない子も、
     いろんな子がいましたけれど、そんなことは関係なくて、
     いくらでもことばが拾える。

     何も拾えなかった、つまんなかった子はいなかったのです。・・
                            ( p187 )


うん。また引用が長くなりますが、印象深い場面がありました。

大村】 このなか(「旅の絵本」)に少しポーンとしたような
    女の子がいるでしょう。ダイダイ色みたなスカートはいた
    子がいるんですね。それがどこででも、ポーンと立っているんです。

    この学習のとき、佐藤という苗字の生徒なんですが、あまり
    坊やみたいだから佐藤坊やってあだ名がついている子がいたんです。

    その子はなにもわかったことがない子でしたが、
    これを見てうれしかったんでしょうね。その子が
    一生懸命になって、私が気がつかないかと思って、
    みんな静かに絵を見ているのに、

   『 先生、先生、ここにだれかいる。ここにだれかいる 』

    って私に教えてくれるんです。そこ子がポンちゃんを指して、

   『 この子はさっきの笹舟のときもポーンと立ってて、ここに
     来てもやっぱりポーンと立ってる。ぼくみたいなんだろうかな 』

    って言うんですね。たいした鑑賞力ですよ。
    そうやって自分のことをちゃんとわかっていてね。
    これはぼくじゃないかなって。スカートをはいてるけど、
    ぼくみたいな子なんだって言うんです。

    それぐらい身にせまって見たんですね。    ( p191~192 )


はい。わたしの引用はここまでにします。
ひとつ残念なことは、私はこの絵本、楽しめなかった。

どうして楽しめなかったか? そのことを
この絵本をめぐるお二人の対談が教えてくれていました。

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豊かでおおらかな視点。

2023-01-31 | 絵・言葉
新聞の切り抜きを、整理する甲斐性がないもので、
以前の磯田道史の新聞連載『古今をちこち』の切り抜きを
さがしてもが見つからない。それでも、

折り畳んで本に挟み込んであった一枚がでてくる。
連載挿画は村上豊とあるので、ネット検索をする。

村上 豊(むらかみ ゆたか、1936年 6月14日 - 2022年 7月22日)日本の画家。そうか、昨年亡くなられていたのだと、ここでわかる。

それ以後の、磯田氏の新聞連載『古今をちこち』は、
挿画も磯田氏自身が描くことになったのだろうなあ。
まあ、そんなことに思いいたる。

ここで、思い浮かんだのは、絵と文章ということでした。

「梅棹忠夫語る」( 聞き手・小山修三。日経プレミアシリーズ新書 )
から引用してみます。この新書は2010年刊行なのですが、
梅棹忠夫氏は2010年7月3日に亡くなっております。
この本の第三章『メモ / スケッチと写真を使い分ける』から引用。

小山】 梅棹さんは、よく写真や絵を学術論文にも使いましたか?

梅棹】 論文それ自体のためには、牧野四子吉さんに描き直して
    もらったりしてた。動物なんかはとくに。

小山】 モンゴル、アフリカでスケッチされた道具類の絵は、
    もうほとんどそのまま使えるようなものですね。

梅棹】 そら、わたしは描ける。それも、かなりあるんじゃないかな?

小山】 イヌぞりの実測図は、全部、寸法も測りながら、とってますが。

梅棹】 あのときは、樺太のイヌぞりの形態と機能について、絵を描いている。

小山】 そういうときに写真でなく絵を描くことの意味とは何ですかね?
    たしかに絵は文章よりわかりやすいと思うんですが。

梅棹】 そう。写真ではあかん。写真では細部の構造がわからへんのや。
    目で見て、構造をたしかめて、その構造を図に描くんやからね、
    ようわかる。

小山】 目でたしかめていくわけですね。

梅棹】 写生をするということは当然、そういう作業を伴う。
    写真ではそれがない。写真もたいへん有用、役に立つけれど、
    ちょっと絵とは機能がちがう。
    フィールド・ワークの補助手段としては、
    写真よりも絵のほうがずっといい。
    その場でシューッと線をひいて、欄外にメモが書きこめるから。

小山】 描きながら、部分の呼び名なんかをメモしている。

梅棹】 それが大事。呼び名と構造だな。そうやって、
    わたしは絵がためらわずに描けるんです。

小山】 でも絵が下手な人は、どうしたらいいのかな。
    これは一種のセンスですか、経験ですか。

梅棹】 まあ、両方あるやろうな。
    わたしは子どものときから絵がうまくて、
   『 この子は絵描きにせえ 』って言う人と、
   『 この子は絵描きにだけはしなさんな 』と言う人があったんです。
   『 絵描きでは食えませんからなあ 』って言って。
                        ( p54~58 )

はい。この箇所はまだまだつづくのですが、ここでカット。
はい。次に写真のこともでてくるのですが、ここまで。

参考文献としては、

「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(国立民族学博物館・2011年)には
いろいろな写真があって、そこに描いた絵も収められて楽しめました。

「梅棹忠夫著作集第1巻」(中央公論社・1990年)のなかの
 『イヌぞりの研究』には、橇(そり)も犬も、橇と犬を結ぶ綱の
 形態も絵入りで一目でわかるような記載がなされております。


昨日のブログで紹介した
磯田道史氏の言葉のなかには、こうありました。

『・・・わかりやすい。面白い。楽しい。つながる。
 こういった本来、人文知がもっていた豊かでおおらかな視点・・・
 誰にもわかる。楽しめる。ユニバーサルな学問がこれからは必要である。』

はい。そんなことを思いながら、つぎにひらいた本は、

  磯田道史著「日本史を暴く」(中公新書・2022年11月)。

パラパラひらくと、著者自身の挿画が二枚ありました。
うん。『カブトムシの日本史』という文(p97~100)には、
クワガタが三匹、角度を変えて道史氏の画で(p99)載せてあります。
ここでは、この文の最後の3行を引用しておくことに。

「 結論をいえば、約200~300年前から、
  日本人は我々同様にカブトムシやクワガタムシを
  精確に認識しはじめたようである。

  熊本藩の細川重賢(しげたか)や
  長島藩(三重県)の増山雪斎(ましやませっさい)など
  
  盛んに昆虫の絵を描く殿様が相次いだのも、この時期である。」(p100)

この「豊かでおおらかな視点」には
挿画も、写真も、マンガも、ビデオも、何でもはいるかもしれないなあ。
はい。短歌も、俳句も、いれときましょう。









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花を聴く。花を観る。

2023-01-14 | 絵・言葉
柄にもなく、お正月は松を飾りました。

年末、主なき家の庭にあった松を切りました。
鉢植えの松がそのままになっていて鉢が割れ、
そのまま根をはり大きくなりはじめてました。
切った松は家に持って帰り、前の鉄柱に結わえて、
下の切口がきになるのでプラスチックの鉢に入れ、
年末にいただいた枝ぶりのよい南天を下にかざり、
竹の葉もかざり、即興の門松がわりとなりました。

思いっきり切った松は、まだまだありましたから、
家の中では剣山にさし水をはって飾りとしました。

家の中の松は、まだそのままにしてあります。
はい。思い浮かんできたのは、生け花でした。

ということで、花が語りかける瞬間のような場面を引用することに。

河井道著「わたしのランターン」(恵泉女学園)
このはじめの方に、病身の父のことがでてきます。

「 ・・その後も彼はとうとう本当の健康体にならなくて
  二十歳になるまでは半病人のようであった。

  けれども、病身ということはまたよいこともあった。
  主治医や、彼を毎日教えに来る先生が、いろいろな
  物語や伝説を話してくれた。父は、日本の古典や和歌に
  専念するゆとりを得たし、また茶道や活け花のけいこを
  する時間ももてた。

  また紙や絹や藁で手芸品をつくるのも楽しみであった。
  けれどもわけても一番の大きい楽しみは、庭にあった。

  花や苔、鳥やなく虫、また小石や庭石さえも、友とした。

  このような趣味は、一見、女性的であるように見えるが、
  神官の職は、風雅な教養を必要とするので、
  実際上にふさわしいものであった。

  後年ある時、わたしが野の花をびんに押しこんだのを見て、
  父がわたしをたしなめたことがある。わたしは、

 『 これは花瓶でもないし、花だって特別いい花ではないのです。
   ただちょっと道端でつんできただけなのですもの 』

  と、口ごたえすると、父は、

 『 野の花でも、栽培した花でも、花は花、
   安いものでも、高いものでも、花いけは花いけ 』

  と言った。そして、

 『 かためてぶち込んだら、あつくるしくて、
   息づまりそうだろう。葉を茎からおとしなさい。
   こちら側に花をいく分ひき上げて、茎を曲げてごらん。

   ちょうど露がおいて、風がそよぐように見せるのですよ。
   自然の姿に見えて、涼しい感じを与えなくては、いけない 』。

 いまでも、わたしは野花が、安ものの器におしつめていけてあるのを見ると、
 あの父の言葉を、初めて聞いた時のままに、ありありと思い出す。 」
                         ( p41~42 )

はい。これはもう、花が語りはじめた瞬間のように私には思えます。
うん。ここは、もうひとつ引用を重ねることにします。

「 朝花の水をかえる。
  花をトップリと桶の水の中につけて、花びんの水をかえて、
  さて花を一本ずつ少しクキを切って挿す。

  花はいきいきとして、また美しさを増す。こうして、
  クキのさきをポツンと切る度に耳にひびいて来る声――

 『 毎日、少しずつクキを切るんだとさ。
   そうすると花がよく保つそうだよ。
   そしてね、一分ぐらい、
   花を水につけるんだとさ。

   だから切る前に水につけておいて、
   一本ずつさきを切って活けるんだね。 』

  大変な発見をしたように、私に話した夫の声がよみがえる。  」

 ( p17 村岡花子エッセイ集「腹心の友たちへ」河出書房新社 )


はい。花を買うことは、まあありませんが、時には、
貰い物のお裾分けのように花を頂くことがあります。
そのままに、筒形の花瓶に投げ入れておくのですが、
この花を語るお喋りがきまって聞こえてきそうです。
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お手軽自家用美術館。

2019-04-08 | 絵・言葉
三越の包装紙が手にはいった(笑)。

ということで、
自家用美術館展示品の作成にかかる。
はい。簡単手軽な美術品のつくり方。

三越の包装紙を二枚用意します。
白地に赤の、れいの包装紙です。
一枚は、その赤い箇所を切抜く。
もう一枚の包装紙を、安い品の、
ポスターフレームに入れる(笑)。
その際、切抜いた赤をつかって、
もう一枚の包装紙の三越紋やら、
横文字を、目隠しするのがミソ。

純粋に、白地と赤の模様になります。
これで、自家製の美術展示品の完成。

はい。一度やってみたかった(笑)。
その念願がかなう。

以前に、
やなせたかし著「アンパンマンの遺書」(岩波現代文庫)
を読んでいたら、三越の包装紙の箇所があったのでした。

バラバラに引用してみます。

「これが戦後の街に旋風を巻きおこした三越の包装紙である。
現在でも、そのデザインのまま生き残っているが、
焼け跡の余燼がくすぶる荒廃した街に、
白と赤のデザインは花が開いたように明るく目立った。
追随するように、その他のデパートも包装紙を一新して、
白地が主流となったが、三越を抜くものは出なかった。
全国的に似たようなデザインが大流行した。
さすがに猪熊画伯である。」(p98)

ここに
「焼け跡の余燼がくすぶる荒廃した街に、
白と赤のデザインは花が咲いたように明るく目立った。」
とあります。
うん。部屋の壁の、どこか余っている箇所に、
この包装紙を額に入れて飾っておきたいと
思っておりました(笑)。

猪熊画伯についても、書かれております。

「そのデザインを戦後の洋画界のモダン派の旗手
猪熊弦一郎画伯に依頼した。

締切りの日に、ぼくは画伯を訪問した。
画伯のアトリエの玄関わきの木には、
猫が鈴なりという感じで、ぼくをにらんでいた。
渡されたデザインは、白い紙の上に紅い紙を
ハサミできりぬいて置いただけという簡単なものだった。

『MITSUKOSHIという字は、そっちで描いてね。
場所は指定してあるから』と画伯は言った。

社へ持ちかえって、文字の部分はぼくが描いた。
自慢じゃないが、デザイナーなのにレタリングが下手で
まったく自信がないが、担当者だからしょうがない。
自分でも字がまずくて画伯に悪いなあと思った。」
(p95~96)

はい。ここいらの箇所が、読んで印象に残っておりました。
それで、いつかは、三越の定紋や文字を隠して、
画伯が、切り抜いて置いただけの簡単なデザインのままに、
飾っておきたいと思っておりました。

そのいつかが、今日。そのチャンスが到来(笑)。
簡単手軽な、家庭菜園ならぬ、家庭美術館です。


部屋が、雑然と荒廃していると感じた時。
猪熊弦一郎の白と赤とで、救出をはかる。
身近でお手軽な自家用美術館へ模様替え。



追記。
三越の定紋を隠してしまって、バランス悪し。
三越の英文字だけを隠して、よしとしました。
なんとも、微妙なバランスを感じられました。
ということで、包装紙を壁にかけておきます。




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ソッケない振りをする癖。小林秀雄。

2018-08-09 | 絵・言葉
小林秀雄について書いた、
安岡章太郎の文を思い浮かべたので引用。
それは、佐々木基一と小林秀雄と安岡章太郎の
三人でロシアへ出かけた際の印象を綴っている文でした。

「・・・もっとも小林さんは、興味のあるものに出会っても、
はじめはソッケない振りをする癖があるらしく、
ロシアの絵画にしても最初はまるで軽蔑し切ったように
言っておられたのが、だんだん変り、最後には佐々木さんに、
『きみ、ロシアっていうのは美術評論のアナだよ。
きみの年なら、いまからでも狙っておいて損はないね』
などと囁かれるようになったりした。」

具体的には、エルミタージュ美術館へ行く場面を
安岡章太郎氏は、再現されております。
では、その個所を引用。

「実際、小林さんはロシア人の絵画の鑑賞力にも
大いに疑惑的で、レニングラードの美術館
エルミタージュへ出掛けるときも、
『どうせ田舎の大尽がヨーロッパへ行って、
つかまされて来たものだろうから、むやみに
数ばかりたくさんあっても、見られるやつは
いくらもありゃしないだろうョ』
とうそぶくように言っておられた。
私自身は外国でそのまた外国の絵を見ることに
馬鹿々々しさを感じていたので、美術館へは
招待客としての義務感からアルバイトのつもりでついて行った。
エルミタージュというのは、
部屋から部屋へ渡り歩く距離だけで数十キロ・メートル、
駆け足で走っても数時間を要するという巨大なシロモノだから、
これは実感だった。私は出来るだけサボるつもりで、
中庭の屋上庭園のベンチでタバコばかり吹かしていた。
しかるに小林さんは美術館の中に入ると、
まるで人柄が変ってしまった。
皮膚も唇も干からびたように、へとへとになって
ベンチへやって来たかと思うと、
タバコもろくに吸わないうちに、また飛び出して行く。
そして案内者が、そろそろ引き上げましょうと言ってからも、
『もう一と部屋、近代フランス絵画の部屋をあけてくれるそうだ』
などと、その場を動こうともしないのである。
それは山へ這入った猟犬の本能とでも言うような執念深さであり、
・・小林秀雄の『我』がなまぐさい程に漂っていた。・・・」

(「小林秀雄全集別巻Ⅱ批評への道」新潮社・昭和54年)



言葉から絵画までの道のり。あるいは、絵画から言葉までの道のり。
屋上庭園で安岡さんは、そんなことを思っていたのかなあ(笑)。
ちなみに、小林秀雄年譜によりますと、
昭和38年(1963)6月にソ連作家同盟の招きにより
ソビエト旅行に出発とあります。
「皮膚も唇も干からびたように、へとへとになって」
いた小林秀雄氏の年齢は当時61歳。

安岡章太郎氏は、文の最後に、
「美術館を引き上げていく小林さんの顔を見ながら」
敗戦の翌年にリュックをかついで帰って来た
安岡氏の父親の顔をだぶらせておりました。
ということで、安岡氏の文章の最後を引用。

「疲労しきった小林さんの足取りや体つきの全体が、
襟章のない軍服姿の父が玄関のまえで突っ立ったまま
私たちを見ていたときの様子にそっくりだったのである。」


う~ん。安岡章太郎は大正9年(1920)生まれ。
一方の、小林秀雄は明治35年(1902)生まれ。
安岡氏にとっては、ご自身の父親世代と一緒なのですね。

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言葉では、表現し得ないものが、絵画では。

2018-08-08 | 絵・言葉
せっかく、高橋新吉が登場したので、
高橋新吉著「すずめ 美術論集」全10巻をひらく
(4巻目が欠だったので、さっそくネット注文)。

昭和36年から昭和45年までの
高橋新吉氏の美術巡り。美術館とか画廊とか
それに、院展とか日展とかの各展覧会評。
目次のあとに、図版が5~60頁あり、
ほぼ白黒写真なのですが、それをパラパラとめくる楽しみ。
ほぼ一年に一冊。高橋新吉氏が覗いた絵画からの
選択を並べて見せてもらっている嬉しさ。

すこし言葉を引用。
一巻目のはじまりは「正倉院展をみて」。
そのはじまりの言葉は、

「千二百年といっても、人間を縦に二十人ほど、
ならべただけの時間に過ぎないのだから何も、
古いとか、変わっているとか言っても、
悠久な時間の流れに比ぶれば、些末な、微小な
問題になってしまうが、天平勝宝年間に正倉院が造られてから、
早くも十年目に、恵美押勝が、武器類を持ち出したという。
それからも、売り飛ばしたり、盗まれたりしたものもあるが、
ともかく、治承四年に、東大寺が焼けたときにも、焼けず、
この間の空襲にもあわずに、一万点にも及ぶ宝物が、
そのまま原型を保っていることは、どのように考えても、
これを、見ない方がよいとは言えぬのである。・・・」

第二巻のはじまりは「絵を見るよろこび」。
そのはじまりの言葉は

「この数年、毎日のように、絵を見て歩いてきたが、
最近、絵を見ることに対して、以前ほど、興味も感動も、
覚えなくなった。私が老人になって、視力が衰えたせいもあるが、
他人の描いた絵を、忠実に見て廻っても、足がだるくなるだけで、
あまり得るところはないという結論に達しているのである。
それと、最近私が考えている事は、目で見るということは、
人間の動作の中の、一つの事柄に過ぎないので、
盲目でも生きておれるということは、たしかな事実だからである。
眼の筋を、無暗に緊張させて、物を見たところで、
それが何だというのであろう。
だから、画家にとって、大切な事は、物を見ることではなく、
どのような考へで、生きているかという、画家の心の問題だと思う。
・・・・」

はい。この文は、興味深いので、もう少し引用。

「私は、物を見ることに興味を失っているが
わたしとおなじような人が、画家の中にも、
ありはしないかと思って、他人の絵を見るのである。
同感し、納得する絵を見ることは、よろこばしい事である。
それが、過去の人でも、同時代の人でも、その作品によって、
判断することが、できるからである。
言葉では、表現し得ないものが、絵画では、微妙に、
表現されている場合があるのである。
人間の考えは、その人の肉体的動作に、集約されて、
出てくるからである。色の選択、画面の構成に、
その人の全思想が表われる。
それに対して、反撥するか、肯定するかは、
見る側の自由である。・・・」


ちなみに、「すずめ 美術論集」を創刊した
昭和36年(1961)は高橋新吉60歳。
昭和45年「すずめ 美術論集」10巻目で終刊。

これを古本で買ったときは、
何か、つまらないなあと思ったのですが、
いまなら、私の読み頃をむかえた気がします。

無駄口ははぶき、駄作は黙殺して、こまめに絵画見て歩き、
一年一年を過ごしている高橋新吉の目を楽しめるのでした。
これもきっと、私が60歳を過ぎたからなのだろうなあ(笑)。

「還暦過ぎの気難しがり屋の美術巡礼の書」と、
この本を、今の私は言ってみたい。

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