ちっとも、読み進めないけれど(いつものことですが)、
ここは馬齢の功で、読み進めないことを楽しむことに。
ということで、庄野潤三著「ザボンの花」の第12章『星』。
全集本で17ページほどの章なのですが、印象深い。
まず、学校へ行くことが出てきます。
「学校へ行くのが好きか、きらいか。そんなことを聞かれると、
なつめは困ってしまう。好きとかきらいとか、
そんなふうにいえる問題ではない。
とにかく、毎朝、『 なつめ、起きなさいよ 』と
お母さんの呼ぶ声が聞こえると、なつめはすっと起きてしまう。
それは学校が好きだからではない。
なつめは黙って起きて、寝ぼけまなこで服に着かえ、朝御飯を食べる。
・・・・
そんななつめが、ある朝、会社へ行く父といっしょに
家を出かけた時、歩きながらこういった。
『 お父ちゃん、会社へ行くの好き? 』
すると矢牧はびっくりして、それから、
『 きらい 』というと、
なつめはいかにもうれしそうに声を立てて笑った。
なつめが笑うので、矢牧もそれにつられて笑い出した。」
その数ページ後に主人公矢牧の少年時代のことが回想されるのでした。
「・・中学二年生の兄と二人で、夏休みに父の郷里の四国へ行ったのだ。」
「 天保山という桟橋から小松島行の船に乗ったのが夜だった。
・・・
その時は中学二年生の兄が矢牧の保護者であった。そして
矢牧は兄と二人でする旅行を心細くもなんとも思ってはいなかった。
兄の方は家を出る時までは悠々としていたのだが、
いよいよ船に乗って出帆の時刻が間近になると、変になって来た。
父がアイスクリームを買って来て、
『 はい、これ 』といって渡しても、心はアイスクリームになく、
ただ受け取るばかりで、あとは父と兄がなんといっても、
ただ『 うん、うん 』といっていた。
そのことは、後になって父がよく思い出して笑いながら話したので、
兄弟の間では有名になってしまったのだ。
矢牧はその時、兄が心細い様子をしていて、父の眼には
今にも涙ぐみそうに見えたということは、ちっとも気がつかなかった。
多分、安心し切っていたのだろう。
兄にしてみれば、生れて初めてのひとり旅であり、
それに小さい弟を連れているので、なおのこと責任が重く、
船がまだ港を離れないうちに、(これは大変なことになったぞ)
という気持でいっぱいであったに違いない。
四国の山の奥にある父の郷里には、祖父と叔父がいる。
そこまで行くのには、この船があくる朝、小松島に着いて、
それから汽車に乗りかえて徳島まで行き、そこからまた
バスに乗っておおかた一日かかるのだ。
その道順を思っただけで、出発の日まで兄の心をみたしていた。
親から離れて単独旅行をする愉快さは、たちまちどこかへ
消え去ってしまったのだろう。
何をいわれても『 うん、うん 』とだけしか返事をしなかった
頼りなげな兄のすがたは、初めて子供を二人だけ
旅行に送り出す父の心に深く印象に残ったのだ。・・・・ 」
こうして、引用していると、途中をカットできなくなり長くなりました。
こうして、主人公の子供の頃と、主人公の子供たちをダブらせながらの
この章の展開は、はい、とても味わい深く感じられてきます。
ということで、思い浮かべていたのは、
庄野潤三著「野菜讃歌」(講談社)に載っている「私の履歴書」のなかの
『 ザボンの花 』を語っている箇所でした。
「 母は脳血栓で倒れたあと、回復はしたけれども、
失語症のために話が出来なくなった。
日本経済新聞で『ザボンの花』の連載が始まったのをよろこんで、
毎朝、切抜を作ってくれた。母はこれを読んで、
私たち一家が東京でどんな生活を送っているかを
承知してくれたに違いない。
母は七人の子供(一人は小さくて亡くなったが)を育てて
一生働き通した。郷里の徳島から親戚など泊り客が来ると、
心からもてなし、みんなに好かれていた。・・・・・ 」(p228)
この「私の履歴書」に、坂西志保さんのことも出ておりました。
「 坂西さんには会ったことはないが、・・・・
日本経済新聞から頼まれて、はじめて新聞小説を書いた。
大阪から出て来た私たち一家が石神井公園の麦畑の中の家で
どんなふうに暮したかを書いた小説で、
およそ新聞小説らしくないものであった。
子供の話をいっぱい入れた。これが『ザボンの花』。
本になったとき、坂西さんが図書新聞にいい書評を書いてくれた。
『 著者の純真さには胸を打たれる 』と書いてくれた。 」(p227)
はい。私が今読んでいるのは、これなんだなあ。ちなみに、
講談社の庄野潤三全集第二巻に『ザボンの花』が載っているのですが、
そこの月報に坂西志保さんの文があるのでした。