和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

読んでいて生きた心地がする

2023-07-21 | 短文紹介
鄭大均(てい・たいきん)著「隣国の発見 日韓併合期に日本人は何を見たか」
(筑摩選書・2023年5月)の序文から引用。

「・・ポスト〇〇ニズムやポスト〇〇リズム隆盛の今日、
 研究者やジャーナリストたちは一見、過去から学んでいる風を装い、
 少数者には大いに関心があると言う。

 しかし彼らは今日を生きる自分たちを至上のものとする人々であり、
 一度(ひとたび)あるものに『侵略者』や『植民者』の烙印を押すと、

 それをなかなか変えようとしない頑固者たちである。
 そんな人々の記したいびつな日本統治期論などに比べると、

 この時代に朝鮮の地に住んでいた日本人が書き残した朝鮮エッセイには
 人間の息吹があり、読んでいて生きた心地のするものが少なくない。
 
 本書で紹介したいのはそんな良質なエッセイである。・・ 」(p13~14)


はい。第五章まであります。こりゃ夏の読書にはうってつけかも。

ここには、第五章の挟間文一(はざまぶんいち)のはじまりだけ紹介。

「大分県北海部郡佐賀市村に生まれた
 挟間文一(1898~1946)は1923年長崎医科大に入学、
 第一回生として卒業すると助手としてそのまま薬物教室に残り、
 1930年には同大助教授に就任する。

 後にノーベル生理学・医学賞の候補となる研究が始まるのは
 この時期のことで、挟間は研究室が英国から購入したケンブリッジ社製の
 弦線電流計を用いて臓器の動作電流曲線を描写する作業に取り組み、
 それに成功し、成果をドイツ語論文で記し、多くはドイツの科学専門誌
 に掲載されるようになる。

 挟間はしかし1935年、京城医学専門学校への転任を余儀なくされる。
 当時、長崎医科大で発覚した博士号学位売買事件の責任をとって辞職した
 主任教授の後任として長崎に赴任することになった京城医専の教授が、
 助教授職にあった挟間の留任を望まなかったためである。

 挟間は不本意ながら京城の地に向かうが、
 発光生物に関する研究は続けられ、やがて朝鮮をテーマにした
 多くのエッセイが記されるようになる。・・・・・

 筆者は偶然『朝鮮の自然と生活』の本を入手し、
 旅する科学者の姿に斬新な印象を受けたが、
 戦後この人の朝鮮エッセイに触れたものが
 だれもいないことに不思議な気持ちがした。・・・・」(p226~227)

このようにはじまっております。
あらためて、序にある
『 人間の息吹があり、読んでいて生きた心地のする 』
という言葉を反芻しながら、この夏の読書とします。


 
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児童漫画の読者たち。

2023-07-14 | 短文紹介
藤子不二雄著「二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史」
 ( 毎日新聞社・1977年 )を古本で購入。

いろいろな漫画家が登場しております。
パラパラめくっていると、こんな箇所がありました。

「 はじめは漫画への激しい意欲と情熱を燃やして描いたものが、
  次第に職業的熟練で処理していくようになる。

  大人漫画はいざしらず、児童漫画でこうなったら、
  その漫画家の生命はもう終りつつあるといっていい。

  少年読者は実に敏感に、作品を通して、その作者の
  エネルギーの減退をかぎとるからだ。

  現代の若者やこどもたちはシラケの世代だといわれる。
  たしかに彼等の行動や発言からはそれを感じさせる。

  だが、少なくとも児童漫画の読者たちは、
  漫画にシラケを求めてはいない。

  彼等が漫画に期待するのはホットな連帯感なのだ。
  まわりがシラケの環境であればあるほど、
  漫画の世界だけには熱い感情のたかぶりを求めるのだ。 」(p169)

これは、石ノ森章太郎を語った箇所にありました。
ついでに、石森章太郎はどう紹介されていたかも引用しときます。

「なんせ、つい最近まで、『趣味は?』と聞かれると、
『 漫画を描くこと 』と平然と答えた男(石森)だ。
 本業が『漫画を描くこと』で、
 趣味も『漫画を描くこと』。これはツヨイワ!
 漫画を描くことが面白くて、楽しくてしょうがないのである。
 ・・・・オトロシー。 」(p169)

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粗末にしてはいけない価値

2023-06-29 | 短文紹介
山口仲美著「日本語が消滅する」(幻冬舎新書・2023年6月30日発行)。
はい。パラパラとひらくのですが、本文の最後の方にある、ここを引用。

「 日本語は、音節言語で極めて発音しやすく、外国人も学びやすい。
  のみならず、ほとんど母音で終わる開音節性で、響きの美しい言語でした。

  さらに、重要な役割を持った語を後ろに配するという一貫性のある
  文の構造をしていましたね。

  そして、常に相手の遇し方に気を配り、
  敬語という特別な言語形式を持っていましたね。

  しかも、相手との心理的な距離によって臨機応変に言語形式を変える
  というユニークな相対敬語の言語だったではないですか。

  また、ひらがな・カタカナという、世界にたった一つしかない
  文字を千年以上も使い続けていましたね。
  文章は、漢字にひらがな・カタカナを交ぜて記し、この上なく
  意味のとりやすい効率的な様式を採用していました。

  そして、語彙の豊かさにかけては、世界のトップクラス。
  とくに、心理を表す語彙は、極めて豊富。

  さらに、概して、漢字は漢語を、ひらがなは和語を、
  カタカナは外来語や擬音語・擬態語を表すというぐあいに、
  文字で語の出自(しゅつじ)や性質まで区別している。

  おまけに、フリガナまで動員して、意味の豊かさを追求する。
  こんな面白い言語が、どこにあるでしょうか?
  世界中探したって、日本語以外には見つかりません。

  独自性を持った言語ほど、人類の進歩に役に立ちます。
  日本語は、粗末にしてはいけない価値を持っている言語です。

  どうか、そのことに気づいてください。こうした特色を持った
  日本語に支えられて、日本独自の文化が生まれているのです。

  奈良時代にはすでに、他の言語では決して真似できない
  短歌という独自の文学形態を生み出し、

  平安時代には、世界の人に読んでもらえるような
  巧みな心理描写を駆使した傑作を誕生させています。

  現代だって、日本語の特質であるオノマトペをふんだんに使った
  コミックで、世界中の若者たちを魅了しているではありませんか。

  日本人自身が、日本語に対する積極的な価値を見出し、誇りと
  自信を持って守らなければ、誰も日本語を守ってはくれないのです。
  言語学者のデイヴィッド・ハリソンさんは、こう言い切っています。
 『 私が確信していることはただ一点、言語が外部の人間によって
   【 救われる 】ことはありえないということだ  』。
  日本人が日本語を守らなければ、日本語は消滅するのです! 
  そして、日本語を子供たちに喜んで教えてあげてください。・・ 」

                         ( p271~272 )


はい。分かりづらかった『ユニークな相対敬語の言語』とか
そして『音節言語』とかの具体的紹介は、各章で触れられておりました。
うん。私のパラパラ読みはここまで。
はい。私の受け取ったメッセージは引用したこの箇所でした。
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だれかがいつか、そこを通る。

2023-06-03 | 短文紹介
何だか思うんですが、新刊で買った本は読まずに、
安く買った古本は、これが読んでいるんですよね。
これは何なのだろう。と思うわけなんです。

新刊単行本値段で、古本は10冊ほど買えるのでついまとめ買い。
そうすると、古本を1冊読んで、あとの古本を読まないとしても、
何だか価格的な罪悪感とでもいいましょうか? そいつがない。

古本を10冊ならべて、豪華にパラパラとめくって、
そのうちの数冊を読めれば、これはこれで当たり。
新刊ならば、読みたいと思って買ったはずなのに、
何だか読めなかったりすることが多かった私です。

それはそれとして、最近、古本で買って読んだ本に

田中泰延著『読みたいことを、書けばいい。』ダイヤモンド社・2019年
その後半をパラパラとめくっていると、こんな箇所。

「 そもそも、ネット時代は、
  書きたい人が多くて、読みたい人が少ないので・・ 」(p236)

はい。この本の題名もそうなんですが、この文句も分かりやすい。
ということで、引用をつづけてみます。

「 あなたは世界のどこかに、
  小さな穴を掘るように、
  小さな旗を立てるように、書けばいい。

  すると、だれかがいつか、そこを通る。

  書くことは世界を狭くすることだ。
  しかし、その小さななにかが、

  あくまで結果として、あなたの世界を広くしてくれる。 」(p234~235)                                                  


「  そんなとき、わたしは、
  『 文字がここへ連れて来た 』と思う。 」(p242)


うん。また引用ばかりになっちゃった。
最後の引用はこの箇所。

「 自分が読みたくて、自分のために調べる。
  それを書き記すことが人生をおもしろくしてくれるし、
  自分の思い込みから解放してくれる。

  ・・・・・・
  学ぶということ以上の幸せなんてないと、わたしは思う。 」(p247)
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老典座は大笑いし。

2023-06-01 | 短文紹介
司馬遼太郎著「街道をゆく19 中国・江南のみち」(朝日新聞社ワイド版)
の目次をひらくと、その最後は『天童山』とあります。
そこに、須田剋太画伯との会話がありました。

「 『道元も、このようにして海から甬江に入ってきたのですね』
 道元好きの須田画伯は、鎌倉時代の日本の航洋船に乗って
 三江口をめざしているような表情で言われた。

  『 あすは、いよいよ天童山ですね 』
 とも念を押された。画伯は・・昭和20年代に道元の思想を読む
 ことによって独自の抽象画論を構築されたひとである。

 それだけに、道元の思想的成立の大きな契機をなした
 当時の天童山――とくにそこに住した如浄の禅風の故地――
 には、当然ながら関心がつよい。 」( p372 )

「天童山は、鎌倉の道元のころから伽藍が巨大で、
 他の高楼、殿舎が多かった。・・・

 建物の造形は装飾性がすくなく、簡潔で、1922年の来訪者である
 常磐大定博士も、このことに感じ入り、
 『 我が禅院を彷彿せしめる 』といっている。 」( p377 )

『天童山』の最後のページに、また須田画伯を登場させておりました。

「・・・・須田画伯は、生家にもどった童子のようであった。

 一楼があり、階段をのぼりつめると、
 西洋のベルのようなチューリップ型の梵鐘があった。
 鳴らすには、撞木で撞くのではなく、
 長い柄のついた木槌のようなもので鐘を打つのである。

 『 撞きませんか 』と、中国側の人がいったとき、

 いつもみずから前へ出ることをしない画伯が、めずらしく大木槌を持ち、
 餅つきのようにふりかぶったと思うと、激しく打った。

 鐘はぶじ鳴ったが、画伯はひびきわたる梵音響流(ぼんのんこうる)
 のなかで、いつまでも噛みつきそうな貌(かお)をしていた。 」(p380)

こうして、画伯の姿でしめくくられたおりました。

もっとも、その前に、司馬さんは道元をちゃんと語っておりました。
そこも引用しないと、中途半端な感じでしょうか。
それは、四川省からの類推から語られておりました。
はい。最後にその箇所を引用しておかなければ。

「天王殿の前で、黄衣の老僧に出逢った。副住職の永通法師である。
 40年あまりこの寺にいるという。うまれをきくと、
 
 『 四川省 』と、みじかく言った。
 私は、道元のことを思いあわせた。

 道元が、天童山に入る許可がおりぬまま、寧波港に停泊中の船で
 起居していたとき、一人の老僧が、陽ざかりの道を歩いてはるか
 阿育王山から椎茸を買いにきた。・・・・

 道元24歳、老僧61歳であった。阿育王山で雲水のためにかれは
 料理をする典座(てんぞ)という役をつとめている。
 
 故郷は、西蜀(四川省)である。その故郷を離れて40年になるという。
 若い道元は、40年も修行してまだ料理番をしているのか、と驚き、
 なぜ坐禅修行に専念されないのです、とたずねた。老典座は大笑いし、

 『 外国のお若い方、あなたは本当の学問や修行が
   何であるか、まだおわかりになっていないようだ 』 といった。
   ・・・・

  道元が天童山に入って早々、この老典座がたずねてきてくれたのである。

 『 私も齢をとったから、故郷の西蜀(せいしょく)に帰る。
   うわさに、あなたがこの天童山にいるときいてやってきたのだ 』

 と、いった。道元は感激し、船中での問答をさらにくりかえすと、老典座は、

 『 料理や掃除のなかにも学問や修行がある。それどころか、全世界の
   現象のすべてが真理であり、かつ学問や修行の対象である 』

 といった。道元は、いわば途(みち)ですれちがった程度の
 知りあいであるこの老典座について後年感謝をくりかえし、

 『 山僧(註・自分のこと)いささか文字を知り、
   弁道を了ずることは、すなわち彼の典座の大恩なり。』(典座教訓)

 と言っている。黄衣の永道法師が四川の人であるといい、
 かつ40年修行した、ということで・・・
 
 老典座に偶然符号するように思えたのである。   」( p378~380 )
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須田剋太『街道をゆく』挿絵作品集。

2023-05-28 | 短文紹介
「 須田剋太 『街道をゆく』挿絵原画全作品集
   司馬遼太郎と歩き描いた日本・世界の風景  」第1集~第4集。

 企画・編集 社団法人近畿建設協会 ・・
 発行    社団法人近畿建築協会

という古本を手にしました。第一巻の「ごあいさつ」から

「・・・もう一つ、『街道をゆく』の魅力を形成している
 欠かせないものが、言うまでもなく須田剋太画伯の挿絵です。

 グワッシュ画を得意とした画伯の挿絵は、
 対象に迫る厳しさと、才気溢れる大胆かつ鋭い筆づかいで、
 独創的な絵画世界を形成しています。

 社寺、城跡、漁港、市街地、石仏、人物、自然など、
 画伯が遺した膨大な挿絵をたどっていくと、私たち自身もまた、
 共に諸国の街道行脚をしているような心楽しく胸躍る気持ちになり、

 すでに見知った場所や事物でも、
 また新たな感動をもってとらえ直すことができます。・・・   」(p2)

         社団法人 近畿建設協会 理事長 宮井宏

ここに『 すでに見知った場所や事物でも・・ 』とあります。
はい。この言葉と並るように、司馬さんの文を引用しておきたくなりました。

 「 子どものころから第一級の美を 」と題して

昭和48年『少年少女世界の美術館』の宣伝カタログに
掲載された司馬さんの文の、ほとんど全部を引用してみます。

「 野や町を歩いていて、日本人の美的感覚が
  一般に戦前よりも落ちたように思う。

  私は日常、むかしはよかったという趣味は
  まったくないつもりでいるのだが、この分野ばかりはそうである。

  戦前までの日本には、室町期に確立した美学が濃厚に残っていて、
  家を建てるにも座敷をつくるにも調度を選ぶにも、  
  一般人もそれを継承していたし、大工さんたちもそれをもっていた。

  いやらしいもの、あくの強いもの、汚物のような自我で   
  あることに気づかずに自我だけを主張しているものに対し、

  室町期の美学を自然に身につけたわれわれははげしく拒絶した。
  その美学がいま衰滅し、しかも新しい天才的時代が来ぬままに
  やたら混乱している。

  少年や少女たちが、その年齢のときから美しいものにあこがれ、
  何が美しく、何が嫌悪すべきものであるかを身につけなければ、
  きっと醜悪なものの中で平然としている人生を送るにちがいない。

  美の訓練は、知恵のできた大人になってからでは遅いらしい。
  子どものころから第一級の美しさを見馴れてしまうように
  しなければだめなものらしい。・・・           」

    ( p143~144 「司馬遼太郎が考えたこと 7」新潮文庫 )


ちなみに、1971年(昭和46)の1月1日号より、
『街道をゆく』が、はじまっていたのでした。


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よーくきいてごらん。

2023-05-01 | 短文紹介
安野光雅・藤原正彦対談「世にも美しい日本語入門」 

( ちくまプリマ―新書・2006年 )

この新書の最後に、引用作品一覧が載っていました。
安野光雅関連では

芥川也寸志編纂、安野光雅画「歌の絵本—日本の唱歌より」講談社1977年
安野光雅著「大志の歌」童話屋2005年
安野光雅著「絵本歌の旅」講談社2005年

なんて絵本が並んでおりました。
唱歌を、絵で表現するっていうのが何だか気になるので
とりあえずは、一番最初の本を注文しておきました。

さて、この新書のなかに

安野】 唱歌は学校で習い、童謡はラジオなどから流れてくる。
    でも、私が子どもの頃は、ラジオはたくさんありませんでした。

   ・・・この二つ(唱歌と童謡)は、うがった見方をすると、
   経済問題が背景にあったんじゃないかと思います。

  文部省唱歌は学校で習うものですから、それが広く歌われたところで、
  誰も儲かるものはいません。あれほど広く歌われても
  印税問題はありませんし、作者不詳の世界なのです。

  しかし童謡は、レコードとか、作詞者の印税、歌手の印税など、
  いろいろな商業的な問題がありますので、いきおい流行(はや)
  らせる手だてということも考えたのではないでしょうか。  (p96)


うん。この新書の第五章は、全部引用しておきたくなるのですが、
こらえて(笑)。あと一か所引用しておくことに。

    ・・・・安野先生は唱歌の本を前にも作られていましたが。

安野】 芥川也寸志(やすし)さんと編集した
   『 歌の絵本ーー日本の唱歌より』がそれです。

    芥川さんは懐かしいですね。あの人は思ったより進歩的で、
   『藤村(とうそん)の『朝』なんかいいじゃない』と言うと、
   『あれは国民歌謡の手あかがついているから』と言うので敬遠しました。

   また、『 あれ松虫がないている 』と歌う
   『 虫の声 』が好きだと言っていました。

  むかし長谷川一夫が大石良雄に扮したNHKのドラマ
  『赤穂浪士』のテーマ曲を彼が作曲しました。

  『 よーくきいてごらん、〈月の砂漠〉の変奏曲の部分があるから 』
   というので聞いてみると、なーるほど
  〈 月の砂漠 〉のメロディが感じられるところがありました。

藤原】 先生のあの本はまた絵がいいです。

安野】 ありがとうございます。やはり唱歌は、
    題材としてはいいけれど、絵を描くには意外と問題があるのです。

    絵と音楽は違うものなので、歌詞の内容を絵解きしても始まらないし、
    もともとできない相談だと思った方がいいんです。・・・
                        ( p99~100 )


はい。というわけで、『 歌の絵本ーー日本の唱歌より 』を
古本でさっそく注文しちゃいました(笑)。


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『 容易ならないこと 』

2023-03-02 | 短文紹介
それは、竹中郁の短文「児童詩の指導」の最後でした。

「 いずれ、忘れっぽいのがあたりまえの子どもは、
  詩をつくるのを忘れてしまうだろう。

  十五六歳ともなればきっと忘れてしまう。
  それでもかまわない。

  子どものころに、感じる訓練と、
  それを述べる訓練とを経ただけで、
  それは十分ねうちがある。

  子どもよ、詩をかく子どもよ、すこやかなれ。    」


(   p185 「全日本児童詩集 1950」尾崎書房   )


はい。私は今年、大村はまを読もうと思っていたのですが、
いつのまにか、児童詩を指導する竹中郁を読んでいました。
その竹中郁さんが指摘されている言葉には、

『 十五六歳ともなればきっと忘れてしまう。それでもかわまわない。 』

とあったのでした。15~16歳ならば、戦後の中学校国語を教えはじめた、
大村はま先生へと、すんなりバトンがつながるような気がしてきました。

たとえば、大村はま先生は、『教師の仕事』という講演で
『 書く練習 』について語っている箇所がありました。


「 書く練習をするときは、『 書く練習をしなさい 』
  と言うようなことではとてもだめです。

  ほんとに書かせなくては、だめなのです。
  それも、書くこと、書きたいことが胸にない
  という状態では、書く練習はできません。
  書くことが心にない人は書き表わすわけにはいかないと思います。

  それから、書かないとしかられると思って書くことがありますが、
  そういうほんとうに書きたいということがわかってこない状態で
  書かせると、つまらないことをダラダラと書いたりします。

  それでは書くことの練習にはならないのですが、
  似て非なる練習のようなことをしたことが、
  練習をしたことになってしまったりします。・・・ 」

( p113 大村はま著「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 )

それでは、『書くことの練習』とはどうすればいいのか。
はい。それを大村はまの本に読もうとしているのですが・・・。

この講演で『 指示する言い方 』という箇所がありました。

先生に対しては、こう語っております。

「・・こういう場合、素人では言えないことを言いたいと思います。

  まず、『一生懸命なさい』とか、『書き慣れなさい』とか、
  そういう指示だけすることば、子どもに指図する、命令する
  ・・つまり、命令すればやるものと思ったりすることが、
  教師としての甘さで・・言ってもやらない人にやらせる
  ことが、こちらの技術なのですから。・・・      」(p112)

お母さんという箇所もあります。

「 『 書きなさい、しっかり 』と言うのは、
   お母さんでもだれでも言えますけれども、
 
   子どもを書きたい気持ちにさせるというのは、
   容易ならないことだと思います。・・・      」(p113)


こうして、『 容易ならないこと 』について
あらためて思い浮かぶ言葉がふたつ。

ひとつは、竹中郁さんが児童詩の指導で語られていたこの箇所。

『 きっと忘れてしまう。それでもかわまわない。 』

もうひとつ。中学三年の苅谷夏子さんが受けた大村はま先生の授業でした。
教室で『 書かなくてもかまいません 』と言われた夏子さんでした。
はい。ここはちょっと長く引用しておわります。


「一時間の授業が終わろうとする少し前、
 しんとした教室の空気を先生の声が破った。

『 はい、そこまででやめましょう。今考えた文章は、
  書きたかったら書いてみればいいでしょうが、
  書かなくてもかまいません。

  構成を考えたメモだけは、しっかり学習記録に入れておきなさい。
  さて、どうでしたか、

  《私の履歴書》を書こうとするときに、できごとを一から十まで
  すべて、あったとおりに、そのままに書くわけではなさそうでしょう。

  書いてある内容そのものが、その人をすっかり表現しているわけでない。
  選んだことを選んだ表現で書く、実際にあったことでも、書かないこともある、
  そこにこそ、その人らしさが出てくるんじゃありませんか・・・  』


この大村はま先生の言葉を、苅谷夏子さんは、
その時の状況を反芻して、こう書くのでした。

「あ、そうか、文章というのは、たった今まで私がしていたように、
 迷いや意図や思惑や思いやりや、そういう過程があって、
 その結果として選択されて表現されたものなのだ。

 はじめから唯一これしかない。という姿があったわけではなくて、
 迷った末に選び取られた結果だけが、見える形で残っているのだ。

 選ぶこと自体が大きな創造で、そこにこそその人らしさがある、
 そんな目で周りを眺めたことがなかった私は、文字通り
 目からうろこが落ちたように思った。とても興奮した。

 ひょっとしたら音楽だって、美術だって、
   そうか日常のことばのやりとりだって、
   みんなそうやって表現されたものなのか。・・・  」

はい。このまとめとして、生意気盛りの中学三年生の夏子さんが
感じたことを、現在の夏子さんが、改めて語ってしめくくります。
ここを今回は引用しておきたかったのでした。


「 この鮮やかな導入の手際を、私は忘れたことがない。

  文章を読むときには、作者の意図を考えながら、とか、
  行間の意味を探りながら、というような注意はごくあたりまえのものだ。

  それを知らなかったわけではないが、
  そう言われたからといって、なんの助けにもならなかった。

  あの一瞬まで、私は、いわば観客席に座ってできあがった
  映画をおとなしく見る幼児と同じであって、一方的な受容者だった。

  まあ、受容する楽しみもあるのだが、それでは創造の世界に
  ほんとうに迫ることはできない。でも、あの一瞬の転換で、
 『 私の創造 』が『 他者の創造 』と重なった。      」


もちろん授業で大村はま先生の言葉に触れた中学三年生の夏子さんは、
その瞬間、言葉にならなかったはずです。夏子さんはどうしていたか。

「 私はそのあたりでもう先生の声を聞かなくなっていた。
  ひとつの真実がすとーんと腹に収まった。
  それを感じて私はじっと固まってしまったように思う。  」


(  ~p52 「教えることの復権」ちくま新書・2003年   )




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生徒の作文を抱えて歩いて。

2023-02-19 | 短文紹介
作文といえば、坂本遼さんのエピソードが思い浮かびます。

竹中郁の短文「坂本遼 たんぽぽの詩人」。
そのなかに、こんな箇所。

「 『きりん』に集まってくる小学生の詩と作文は、
  詩は私が、作文は坂本君がと手分けして選ぶのだが、
  各々が三日くらいかかって選んだ。

  坂本君はそのために高価な大きな皮カバンを買って、
  5キロくらいの重さの原稿をもち歩いていた。・・・ 」

  ( p123 現代詩文庫「竹中郁」思潮社 )
  ( p180 竹中郁「消えゆく幻燈」編集工房ノア )


はい。『きりん』って何だろう?
それには、井上靖氏の「『きりん』のこと」という文が答えてくれています。

「昭和22年の秋、大阪の尾崎書房という出版社の若い社長・・・が、
 何か文学関係の雑誌を出したいが手伝ってくれないかという・・・

 私は詩人の竹中郁氏に相談し、小学生向きの月刊詩文誌がいいだろう
 ということになって、二人でそれを応援することにした。

 日本は戦争で何もかもなくなてしまったが、
 言葉だけが残っている、その言葉を使って、子供に詩を書かせたら・・

 そしてやはり詩人の坂本遼、足立巻一両氏にも、
 編集スタッフとして協力して貰うことを頼んだ・・・

 創刊号は翌23年2月に出た。粗末な紙で造った20ページ・・・ 」

 ( p64 井上靖著「わが一期一会」毎日新聞社・1982年 )


ちょっともどって、藤原正彦氏の短文を、もう一度引用。

「 現に、(大村はま先生が)生徒の作文を抱えて歩いていたら、
  校長に『 そんなものはストーブにくべてしまえ 』と
  言われたとうかがった。真意は
 『 たとえ忙しくて作文をすべて読んでやれなくても、
   ぜひ今のままどしどし書かせてくれ 』なのである。

  手のかかる作文指導を続ける若い教師への
  ねぎらいであり励ましである。・・・     」

 ( p323 「 かけがえなき この教室に集う 」小学館 )

はい。ここに出てきている
『 手のかかる作文指導を続ける若い教師 』の大村はま先生は
いったい、どのような作文指導をしていたのか、興味あるところです。

ちょうど、パラリとひらいた箇所に『諏訪高女のころ』がありました。
最後には、ここを引用しておくことに。

「そのころ、子どもたちの作品を読んで、
『 ここのところはもう少しよく思い出して、くわしく書きなさい 』とか、
『 ここの情景の書き方がもの足りない 』とか、
『 もう少し気持ちを表すように 』

 とかいう助言・指導ではいけないのではないか。
 子どもたちは・・実際にどのようにしたらよいか、
 助言を受け入れて処理する意欲も実力も育てられないのではないか。

 ・・・・直接に端的に、批評し注意し、指示するのはやさしいのですが、
 そうではなく、と考えますと、容易に思いつかず、
 一編の作文に小一時間もかけてしまったりしました。・・・
『なになにをもう少し細かく。』式の評を書いてしまったこともありました。

 それで、それが思ったように書けますと、うれしくて大事で、
 残しておきたくて自分で書き写したのです。
 コピーなどあるはずもない、昭和も一けた時代のことです。
 文章を書き写して、自分の書いた赤い文字は赤で書いてあります。
 自分で自分の思いつきがよほどうれしかったのだと思います。  」

( p123~124 「大村はま国語教室」別巻。自伝 実践・研究目録 )


こんなことをしている、若い女教師を、見守る校長先生の
怒鳴る言葉が実感としてつたわってくるような気がしてきます。
まあ、そんなことを、藤原正彦氏の文に読み取ってしまいます。





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『きりすて法』と『別世界』。

2023-02-09 | 短文紹介
梅棹忠夫の『知的生産の技術』に「きりすて法」とある。
うん。紹介してみることに。

「たとえば、日本の研究者・・」と指摘しております。

「アメリカなどでは、論文や著書は、印刷して公表するまえに、
 原稿の複写というかたちで、それぞれ数人の専門家たちに
 目をとおしてもらう、というのがふつうのやりかたである。

 その原稿が、海をこえてわたしどものところまでまわってくる。
 ところが、こちらはそんなことは、したことがない。

 印刷され、発表されたものをみているかぎり、形はおなじだが、
 内容の吟味という点では、あきらかに一段階ちがうのである。

 これを、技術の不足にもとづく研究能力の
 ひくさといわずして、なんであろうか。          」( p5 )


はい。このあとに『きりすて法』が出てくるので
もうしばらく、おつきあいください。

「 研究に資料はつきもので、研究者はさまざまな資料
  ――たいていは紙きれに類するものだが――
  をあつかわなければならない。

  ところが、そういうものの整理法の研究がすすんでいないために、
  おおくの研究者は、どうしていいかわからない。研究室は
  わけのわからぬ紙きれの山で大混乱ということになる。

  そこで、混乱をふせぐために、しばしばとられている方法は、
  いわば『きりすて法』とでもいうようなやりかたである。

  ・・・できるだけせまい分野にとじこめてしまって、
  それに直接の関係をもたない事項は、全部きりすててしまうのである。

  そういうふうに、みずから専門をせまく限定すると、   
  必要な資料はごくすくないものとなる。それ以外の資料は、
  すべてまるめて紙くずかごにほうりこめばいい。     」( p6 )


はい。この新書は1969年出版ですから、今から54年ほど前に書かれました。
パソコンが常識の現在でも、それにしても、いまだ『きりすて法』は健在。

何だか、情報をしゃだんして、切り捨てている姿が目に浮かぶ。
それが、わたしです。


こういう「きりすて法」を、返す刀でバッサリ切って捨てることは可能か?
可能とすれば、たとえば、どんなことが考えられるのか?


カタログ「梅棹忠夫 知的先覚者の軌跡」(国立民族学博物館・2011年)に
会田雄次・桑原武夫・貝塚茂樹・・梅棹忠夫の面々が写っている写真があり、
そのページはというと、加藤秀俊氏が書いた文が載っておりました。

こうはじまります。

「むかし『西洋部』『日本部』という編成がとられていた時代の
 〇大人文科学研究所の『分館』では、同一の専門分野の研究者を
 複数採用しない、という一種の内規のようなものがあった・・・  」(p103)

「1954年に・・新米助手に任命されたわたしの
 勤務先たる『人文』はまことにふしぎな職場であった。

 なにしろ、ここには『同業者』がだれもいないのである。
 フランス文学の桑原武夫、日本近世史の坂田吉雄、
 哲学の鶴見俊輔、西洋史の会田雄次、心理学の藤岡喜愛・・・

 それぞれたいへんな碩学なのだがぜんぶ『専門』がちがう。

 それでいて、一日じゅう議論ばかりしている。
 話題は古今東西、森羅万象にわたって、尽きることがない。
 大学にある学部学科といった知識の分業なんかどこにもないのである。」


このあとに、『別世界』が語られおりました。

「とにかく、研究所にゆけば、毎日、先輩の話をきいているだけで
 なにかの新知識が身についてくる。

 逆にわたしのような若僧にも老先生から、これはどんな意味なんだ?
 と・・・質問がごく自然にとんでくる。うっかりしてはいられない。

 ・・・もとより長幼の序というものがあるから
 若い助手は中高年の助教授、教授を『先生』という敬称でよんでいたが、
 議論をしていて疑問があると
 『 先生、それ、ちょっとオカシイんとちゃいますか? 』
 と反論が平気ででてくる。先生のほうも
 『 そやなあ、そうかもしれへん 』
 とニコニコしておられる。

 当時のふつうの大学・・・をおもうと、これは別世界であった。」(p104)


今まで、安易に「切り捨て御免」一辺倒で過ごしておりましたけど、
今後は、『別世界』のあることを想起して、バランスをとることに。


そうすると、どうなるか?

加藤秀俊さんは、つづけます。

「梅棹さんは・・・あたらしい『研究経営』の手法を編み出された。
 さらに、民博で梅棹さんを待ち構えていたのは、

 人文とは比較にならないほどの規模の事業によって
 構成された『組織』であった。

 研究者なのだから研究さえしていればよろしい、
 といったノンキなことはいっていられない。

 予算から事業計画、設備、人事、など処理すべき
 『 事務 』がすべて・・責任者の肩のうえにのしかかってくる。

 ふつうの学者だったら、こうした行政実務に
 お手あげになってしまうところだが、梅棹さんは
 ふしぎな直観力で重要なものだけを選別し・・・・

 あたらしい舞台のうえで大型の『 組織経営 』に
 進化していったのだ、といってもよい。

 そこでは研究者組織と行政事務組織とを融合させ、
 じょうずに舵取りをする・・・
 梅棹さんはそれを悠々とこなしておられたようである。
  ・・・・・                    」

そうして、加藤秀俊さんは、文章の最後をこう締めくくっておりました。

「 いまふりかえって半世紀以上のむかし、
  京大人文に生まれたあの自由な空気は

  梅棹忠夫という人物によって千里にはこばれ、
  そこでさらに増幅されて民博の基礎をつくったのである。

  それはおそらく『 研究経営 』といういとなみがたどった
  偉大な進化の道でもあったのであろう、とわたしはおもっている。 」
                          ( p105 )






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新聞紙は財産だった。

2023-01-29 | 短文紹介
この前、読売の古新聞(12月中頃~1月中頃までの)を
もらってきて、今日になってパラパラめくっています。

もう1月も終わろうとしてるけれど、
たとえば古新聞の1月1日の新春詠。

ここはお一人。小池光氏の3首。

 新春の庭に降り立ちちからある霜柱踏む 善きことあれな

 胃ぶくろの中に容れたりいただきし会津みしらずの大柿ひとつ

 息つめて一気に抜きしいつぽんの白毛鼻毛をわれは凝視す


新聞紙で思い浮かぶのは、四コマ漫画のサザエさんでした。
畳をあげての大掃除をしている場面。その下に古新聞が敷いてある。
サザエさんが、その古新聞を読み始めると掃除はそっちのけとなる。

うん。新聞紙で思い浮かぶ、大村はま・梅棹忠夫を並べてみることに。
まずは、大村はま先生から

それは、昭和22年中学校が創設された時のことでした。

「私はいちばん最初に、来るようにと声をかけてくださった
 校長先生の学校へ行きました。それは江東地区の中学校でした。

 ご存知のとおり大戦災地でしたから、一面の焼け野原・・・・

 焼け残った鉄筋コンクリートの工業学校があります。
 その一部を借りて、私のつとめる深川第一中学校というのは出発しました。

 ・・ガラス戸があるわけでなし、本があるわけでなし、
 ノートがあるわけでなし、紙はなし、鉛筆はなし・・・
 そこへ赴任したわけです。・・・

 『教室がないから二クラス百人いっしょにやってください』と、
 こういうわけです。その百人の子どもは中学の開校まで3月から
 1か月以上野放しになっていた子どたちです。・・・・
 しばらくは教室の隅に立ちつくしていました。・・・

 私はその日、疎開の荷物の中から新聞とか雑誌とか、
 とにかくいろいろのものを引き出し、教材になるものを
 たくさんつくりました。約百ほどつくって、それに一つ一つ
 違った問題をつけて、ですから百とおりの教材ができたわけです。

 翌日それを持って教室へ出ました。そして、子どもを一人ずつつかまえては、
 『これはこうやるのよ、こっちはこんなふうにしてごらん』と、
 一つずつわたしていったのです。・・・・・          」

  ( p75~76  ちくま学芸文庫「新編教えるということ」 )


この場面は、「教えることの復権」(ちくま新書)での
苅谷さんとの対談のなかでも出てきます。

大村】 ・・・そのとき、ふと新聞のことを考えついた。
苅谷】 すぐその帰り道のことなんですか。

大村】 そう。戦時中、強制疎開で私は千葉県我孫子市に
    一時移ったんですけれども、そのとき、
    茶碗やら何やらを新聞にくるんで運んだわけです。
   
    当時は私だけでなく、だれも新聞紙は大事にしましたよ。
    ご主人は、仕事に行くときに必ず新聞紙一枚ポケットに
    入れておくといったような。そんなふうに新聞紙は財産だった。

    ・・・でも、なにか特別の目的で取っておいたのでもなんでもない。
    靴を包んだりお箸やお皿を包んだりした新聞紙ですから、
    古いのも破れたのもあって、教材なんて結構なものではない。
    それが、まあたくさんあったわけです。

    とにかく子どもの数ほどないとしょうがない。
    新聞を丁寧にのばして、教材として使えそうな記事を探して、
    はさみで切っていって、百枚ほど作った。

    ほかに余分な紙などはないから、記事の余白に一枚一枚、
    学習のてびきを書いていったんですよ。

    これを読んでどうせよということ。
    それも、この文章を読みなさいなどというのではなくて、
    ちょっと気の利いた、面白いことばをつけて、
    やってもいいなという気にさせる。
    そんなてびきをそれぞれにつけた。

    ・・・・それが百枚全部違うわけよね。
    茶碗を包んだ新聞紙ですから。
    全員に全部違うものを読ませるとか、
    具体的なてびきをつけるとか、
    その後の教室での仕事が、このとき
    骨身に沁みてわかったのではないかしら。

    あれ以来、教材を探すのもてびきを作るのも、誰よりも早い。
    じょうずかどうかわからないけど、パッとこれは教材になるとわかる。
    あまりえり好みせず、なんとか役に立つものを自分で作るということ、
    それを知らず知らず体得したのではないかしら。

                     ( p131~132 )



うん。次でおしまい。
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社・1984年)。
そこにある、『 十年分の日刊紙三紙 』のことが印象深い。

「先生の場合、最初からはっきりした目的があったのかどうかは知らない。
 しかし、すくなくとも、半年か一年さきにつかう目的はなかったと思う。

 というのは、わたしがつとめはじめたときにすでに、梅棹夫人は
 物置きが新聞だらけで困っておられたのだから。 」(p207)

「十年もの長きにわたって、家族との闘いのなかを守りとおしてきた」(p210)

この三紙10年分の古新聞が日の目を見るチャンスが訪れます。
うん。肝心なところなのですこし長く引用。

「加納一郎先生の古稀記念事業に、その門下生たちのあいだで、 
 今日までの日本の探検の全成果をまとめて出版しようという
 企画がもちあがったのである。・・・・・

 梅棹先生も加納先生の薫陶をうけたひとりであった。
 研究室で加納先生のお名前が出るとき、先生はきまって
 『加納先生』と呼んでおられた。京都大学のあたりでは、
 学生も先生も教師のことを、本人の目の前以外のところでは、
 『さん』づけでよぶのがふつうになっている。それなのに、
 わたしたちの前でも、加納先生と呼び、手帳に約束をかきこむときも、
 『加納先生』と記入してあったから、梅棹先生にとって加納先生は
 ただの先生ではないのだなと、わたしは感じていた。

 その加納先生の古稀事業だから、先生はだれよりも率先してはたらいた。
 出版社に話をつけ、編集方針、編集委員などについて、
 根まわしのほとんどをとりしきられた。・・・

 その探検講座の資料の一部に・・自分の新聞を提供しようと考えられた。
 たまった新聞は、10年分はゆうにある。このなかから、
 探検や冒険に関連のある記事を切り抜いていけば、立派な文献資料ができる。

 ・・・出版社に交渉したら、切り抜きに必要な経費は、
 編集費の一部として出していただけることになり・・・

 アルバイトをしてくれる〇〇探検部の若者たちの手で、
 梅棹家から古新聞がはこびこまれ、台紙、合成糊、
 赤色マジックペン、新聞名や日付を台紙におすハンコ、
 スタンプ台、カッターなど消耗品は、注文し・・届けてもらった。

 ・・気になった記事の指定は、選定基準をもとに、
 まず学生たちが赤で記事をかこみ、そのあと、
 福井(勝義)さんが記事のとりこぼしがないかチェックする。

 さらに切り抜きと台紙にはりつける作業は、
 梅棹家のお子さんと若い学生さんたちで手わけしてやるときまった。

 ・・先生は『新聞切抜事業団』と名づけられた。・・・・   」
                      ( p209~210 ) 


さてっと、これだけで終わっては昔の戯言と笑われるかもね。
最後には、鶴見俊輔氏の対談での言葉を引用しておくことに。


「 ・・私たちが〇〇でやったのは、いまの〇〇のイメージとは
  ぜんぜん違うわけ。つまりね。あのときのカードは機械のない
  時代の技術なんですよ。コピー機もないしテープレコーダーもないし、
  もちろんコンピュータやEメールもない。

  いわば、穴居時代の技術です。
  コンピュータのいまのレベル、
  インターネットのいまのレベルという、
  現在の地平だけで技術を考えてはだめなんです。

  穴居時代の技術は何かということを、
  いつでも視野に置いていかなきゃいけない。

  それとね、私たちの共同研究には、
  コーヒー一杯で何時間でも雑談できるような
  自由な感覚がありました。・・・・・

  一日中でも話している。
  アイデアが飛び交っていて、
  その場でアイデアが伸びてくるんだよ。
  ああいう気分をつくれる人がおもしろいんだな。

  いま、インターネットで世界中が交流できるようになってきているけど、
  コンピュータの後ろにそういう自由な感覚があれば、
  いろんな共同研究ができていくでしょうね。   」

   ( p207 季刊「本とコンピュータ」1999年冬号 )






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どこにでもあるような大問題。

2023-01-23 | 短文紹介
今年は「大村はま全集」を最後までひらき、
そうして、根気よく読みとおせますように。

「大村はま国語教室」の第4巻に
「文学を味わわせるために」(昭和42年12月大下学園国語科教育研究会)の
講演録が載っておりました。そのなかに『 重ね読み 』が語られていて、
ああ、一冊だけじゃなくって、何冊か重ねながら、そこから共通点やら
微妙な違いやらを抽出して、自分の心持を言葉に浮かび上がらせる過程を、
具体例を出し、講演を聞く先生方に発見させるような説明されております。

『重ね読み』で、私がきちんと比べたくなる人たちは
大村さんと、梅棹忠夫たちの共同研究の系列の人たち。


今年はまた、1から大村はまを読み始めることに。
そう思うと、ちくま新書の「教えることの復権」をひらきたくなる。

大村はまさんが、教えようとした学校を語る箇所がありました。

「・・・でも私自身はいい学校へ行きたいと志願したことはないです。
 日本中にどこにでもあるというようなあたりまえの学校に奉職したい
 と思っていたんですよ。

 これから自分が一生懸命取り組んでいくことの成果、
 それはあたりまえの学校でやってこそ、
 たくさんの人についてきてもらえるのだ、と思った。」( p28 )

この語りをついで、元生徒の苅谷夏子さんも語っています。

「 私たちはみんなあたりまえの、普通の中学生だった。
  特殊例として、そう思って読んでほしくない。

  普通の中学生がこういうことをやっていたんだ、
  そう思って読んでいただきたいと思うんです。  」( p29 )


この箇所はそのまま、大村はま全集のひらき方を示唆しておりました。
これから一年、私は中学生となり大村はま国語教室の生徒になります。

まず、大村先生は、こう新入の中学生に言ってきかせております。

「『ここは中学校です。
  小学校は子どもの学校、中学校は大人の学校、
  ――じゃないけれども、大人になる学校です。

  だから子どもの学校ではいいと言われたことでも
  中学校のほうではだめっていうことがあるんです。

  それは中学校の先生が意地悪なのではなくて、大人になって
  やって悪いことはやめていかないと困るので、そこが大変ちがう。

  そこで、とにかく国語の時間としては、これからは一ぺんで
  ものを聞いてほしい、私の言うことは一ぺんで聞きなさい 』

 こんなふうに言いました。
 わからなければ二度でも三度でも言うけれど、
 お詫びしなければ言わないって。

 大人は聞きそこなったりすると、恐れ入りますがどんな話でしたか、
 と、そういうふうに言って謝らなければ聞けない。

 だからそれをまず国語の時間にやってほしいと言いました。

 それは、実際には、単元学習のような構成の複雑な学習を進めるのに、
 一ぺんで話のわからない子どもがたくさんいたら、やれません。

 だからそれは最初の大事なことでした。
 
 二度聞いても三度聞いても、もちろんよくお話しはしますよ、
 お話しはしますが、ただ、謝らなきゃねって。

 これは大層効果のあったことでした。

 ただし、それは教師のほうからすれば大変なことなの。自分が一ぺんで
 わかる話をしているかということが問題でしょう。大問題。  」(~p31)


ちなみに、この『 大問題。 』は、そのあとにどうなったのか?

「大村はま国語教室」第13巻は「やさしい国語教室」の文が載っています。
その最後の「解説」を倉沢栄吉氏が書いているのですが、そこから
この箇所を引用して、今回は終わります。

「・・・それは本書の愛読者が、先生方はむろんだが
    小中学生にもたくさんいたという事実である。

    その少女の一人を宮崎陽子という。
    この少女はいわゆる帰国子女の一人で、
    日本に帰ってきた六年生のとき、

    偶然、荒木千春子と出会い、
    『やさしい国語教室』をすすめられる。
    熱心に読み出してその感想を文章に書き続けた。
    ・・・・・少女は次のように親しみをこめて書いている。

  『 この「やさしい国語教室」を読んで感じた楽しさは、
    今までに読んだ本の楽しさとは、質が違うように感じられる。

    それは、他の本よりも、この本は
    作者を身近なものに感じさせるからだろう。

    この本を読むと、大村はま先生と実際に
    お話をしているように感じられる。

    このような事は、今までに読んだ本の中では
    一度も感じられなかった。 』 と。     」

         (  p468 「大村はま国語教室」第13巻  )
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型にはまらない茶花。

2023-01-15 | 短文紹介
「大村はま国語教室」第4巻のはじまりに、
10箇条が並んでいます。気になったのが第5と第6。
その箇所を引用。


「 第五に、気軽に読み、根気よく読みつづける力、根気よく聞き入る力。
  第六に、気軽に筆まめに書き、根気よくまとめあげる力。      」


はい。大村はま先生の国語教室を知らなかった私は、
今年の一年かけて、大村はまさんの本を開くことに。

思えば、気楽に読み、気楽に書きというのは身近でしたが、
『根気よく』を知らず人生をぼんやり過ごしておりました。

でもしょうがない、いままで『根気よく』してなかったし、
この根性は直せないだろうなあ。今からでも出来ることを
するしかないじゃない。と思うのでした。

え~と。ここから花の話。古本で買ってあった
堀宗凡著「茶花遊心」(マフィア・コーポレーション。1987年)を
本棚からとりだす。そのあとがきは、こうはじまりました。

「 老 西山氏は近くの茶店での偶然の出会いの人である。
  彼の手持ちのモノクロのネガはちょうどこの茶花遊心
  をとるだけ残っていた。

  何もない茶室で彼は『 茶花をいけなさい、私がうつします 』
  といい出した。且て雑誌『主婦の友』のいけ花専門のカメラマン
  であったから、その後一年、彼とは活花をおいて
 『 イエス、ノー 』の外にはいつも何も語っていない。
  かくとり終って三月後他界された。すべては
  彼の胸中に秘められた人生仕上げであった。・・・    」


はい。この本は、1ページごとに茶花の写真があり、
堀氏の文があるのでした。ふられたページ数は397ページ。
うん。185ページには『野趣』とある。文はこうはじまります。

「 淡々斎は茶花を活けるには習った花はうまくないと、言われた。
  自分は教えられるまま何流も習わず終ってしまった。

  花は野にある如くと利休はいった。
  露もつ如くばらり、はらり、ほろほろ ・・・・・    」

ちなみにこのページの茶花の写真の左には説明がありました。

 「 花 / とりあし升麻、紅忍冬、木槿、操の木
   器  /     唐物蝉籠 山水のれん        」


はい。堀氏の茶花の写真を見て、引用した文をうつしていると、
最初の大村はまさんの十箇条のはじまりが思い浮かぶのでした。

「 第一に、型にはまらない、のびのびとした態度を育てることである。
      思うぞんぶん、ぐんぐんと個性を発揮する力をつけ、
      独創的な個性的な表現を心がけ、また、それを
      味わったり喜んだりするような力をつけることである。  」




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私(大村はま)の好きな話。

2023-01-13 | 短文紹介
そういえば、と思い浮かべたのが『仏様の指』でした。
さて、どこにあったのか、大村はまの本をさがします。
そんなに何冊も、読んでいないので、みつかりました。

大村はま著「新編 教えるということ」(ちくま学芸文庫)p154~157
「教えることの復権」(ちくま新書) p150~151
「大村はま国語教室」第11巻(筑摩書房) p245~247

うん。私には、分からないなあと、思っていた箇所です。
では、引用。

全集の第11巻では、
「 私はかつて、八潮高校在職のころ・・ 」とあります。

文庫では、この箇所が、こうはじまっておりました。

「 終わりに、私の好きなお話をご紹介したいと思います。
  私はかつて、都立八潮高校(当時、府立第八高女)在職のころ  」

うん。ちょっとしたことなのですが、並べてみました。
後は、適宜引用してゆきます。

「 奥田正造(おくだしょうぞう)先生の毎週木曜の読書会に参加していました。・・ 
  先生は私が今日までお会いした先生の中で、いちばんこわい先生でした。 」

あるとき、先生と二人きりになってしまった。と続きます。

「私は、どうしてよいかわかりませんので、下を向いてもじもじしていますと、
 先生が一つのはなしをしてくださったのです。 」

うん。なんだか、古臭いような話なので引用を憚られるのですが、
ふいに、この箇所を引用してみたい気分になりました。
では、引用をつづけます。

「それは『仏様がある時、道ばたに立っていらっしゃると、
 一人の男が荷物をいっぱい積んだ車を引いて通りかかった。

 そこはたいへんなぬかるみであった。
 車は、そのぬかるみにはまってしまって、
 男は懸命に引くけれども、車は動こうともしない。
 男は汗びっしょりになって苦しんでいる。
 いつまでたっても、どうしても車は抜けない。

 その時、仏様は、しばらく男のようすを見ていらっしゃいましたが、
 ちょっと指でその車におふれになった。その瞬間、車はすっと
 ぬかるみから抜けて、からからと男は引いていってしまった。 』

 という話です。

『 こういうのがほんとうの一級の教師なんだ。
  男はみ仏の指の力にあずかったことを永遠に知らない。
  自分が努力して、ついに引き得たという自信と喜びとで、
  その車を引いていったのだ。 』

 こういうふうにおっしゃいました。そして、

『 生徒に慕われているということは、たいへん結構なことだ。
  しかし、まあいいところ、二流か三流だな。 』

 と言って、私の顔を見て、にっこりなさいました。
 私は考えさせられました。

 日がたつにつれ、年がたつにつれて深い感動となりました。

 そうして、もしその仏様のお力によってその車が引きぬけたことを
 男が知ったら、男は仏様にひざまずいて感謝したでしょう。
 けれども、それでは男の一人で生きていく力、生きぬく力は、
 何分の一かに減っただろうと思いました。

 お力によってそこを抜けることができたという喜びは
 ありますけれども、それも幸福な思いではありますけれど、

 生涯一人で生きていく時の自信に満ちた、真の強さ、
 それにはるかに及ばなかっただろうと思う時、

 私は先生のおっしゃった意味が深く深く考えられるのです。  」


大村はま先生の、授業を読みはじめると、
細部にわたって知るほどに、どうしても、
この話が何やかやと思い浮かんできます。
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苟(まこと)に日に新(あらた)なり。

2022-12-28 | 短文紹介
司馬遼太郎著「風塵抄」の56は『 新について 』。

紀元前1600年。中国の古代王朝殷(いん)を語っておりました。

「 殷を興した湯(とう)という王は、
  『孟子』の『尽心章句』によると、
  うまれついての聖人・・と違い、
  努力してそうなったという。
  湯王は名臣伊尹(いいん)の補佐をうけた。伊尹は、
 
 『 時(こ)レ乃(すなわ)チ日ニ新(あらた)ナリ 』

  ということばが好きだった。
  徳を古びさせるな、ということである。徳とは、
  人に生きるよろこびをあたえるための人格的原理といっていい。」


うん。新聞のエッセイですので、短いので全文を引用したくなるのですが、
カットして最後の方にいきます。

「 とくに日新ということばが、江戸期の日本人は好きだった。
  たとえば、会津藩の有名な藩校が日新館であり、
  また、近江仁正寺(にしょうじ)藩(滋賀県日野町)や
  美濃苗木藩の藩校も同名である。
  美濃高須藩の場合、日新堂だった。  」

はい。このあとでした。司馬遼太郎は、こう続けます。

「  電池にかぎりがあるように、生体にも組織にも衰死がある。
   
   日本国は戦後に電池を入れかえたのだが、
   私は組織電池の寿命は三、四十年だと思っている。

   政治・行政の組織もつねづね点検して
   細胞を《 日に新 》たにせねば、
   部分的な死があり、やがて全体も死ぬ。 ・・・・ 」
 
               ( 1991(平成3)年1月7日 )


《 日々新 》と程遠い私でも年末年始は、
《 あらた 》な気持ちが蘇る気がします。
というので、司馬遼太郎『風塵抄』でした。
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