和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『忘れる』花が咲く。

2023-11-21 | 道しるべ
ネットで本の注文が、習い性となってます。
以前もそうだったのですが、そうすると、
何かの関連で注文したはずの本の、
その関連の結びつきをすっかり忘れてしまってる。

本への興味も、私のことゆえ、すぐ飽きます。
興味にも引き潮があって、齢を重ねると、
そろそろ、この興味も終わり、次の興味へと移るころだと、
何となく分かるような気がしたりして。

すると、引き潮のあとに、残った本が、
これが、どうして買ったか分からない。
すでに、引き潮で興味が失われている。
要するに、すっかり忘れてしまている。

うん。こういう時のための備忘録。
それを書いてみることに。

津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)。
その最後の方に、「もうろくのレッスン」とある。そこに、
「ちくま文庫版の『老人力 全一冊』を購入」(p263)とある。
津野さんが、その文庫をひらくと

「 ふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、
  あいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代りに、

 『 あいつもかなり老人力がついてきたな 』

  というふうにいうのである。そうすると何だか、
  歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい。

  歳をとって物忘れがだんだん増えてくるのは、
  自分にとっては未知の新しい領域に踏み込んでいくわけで、
  けっこう盛り上がるものがある。   」(p263)


ここで、そういえば、と
松田哲夫著「縁もたけなわ」をひらくことに。
「赤瀬川原平さん(その3)」の始まりのイラストは
老人力の本が描かれて、そのわきに
「ものわすれで、いつもからかっていた
 赤瀬川さんに追いついてしまった二人が思いついた・・」
とコメントがあり、
 下には、南伸坊と藤森照信のふたりのイラスト
藤森さんは、笑いながら『老人力ってのはどうか』といい。
伸坊さんは、『いいねエ』と。

はい。このページをめくってみると、こんな箇所。

「・・・そこで、『忘れる』談義に花が咲く。
 
『 若い時って、イヤなことをいつまでも覚えてつらかったこともあった 』
『 記憶力は頑張れば身につくけど、
  忘れるのは頑張ってできることじゃないね 』

 物忘れとか固有名詞が出てこないとかを、
 『 忘れる力がついた 』と裏返そうという
 赤瀬川さんらしい考え方が全面展開される。

 そこで藤森さんは、
『 老化ってマイナスイメージしかない。
  思いきって力強い表現にしちゃおう 』と

『 老人力 』という言葉を口にする。

 こうして、マイナスの価値観を裏返す赤瀬川的思考に
 藤森的パワフル・ネーミングが加わって、最強の言葉(概念)が誕生した。」

はい。「最強の言葉(概念)」の誕生の瞬間ですから、
ここは、繰り返しになったとして構わずに引用します。

「『 スポーツの力は筋トレなどでつけていく。
   でも、いざチャンス、いざピンチという時は、
   コーチや監督が【 肩の力を抜いていけ 】と言う。
   あれも同じじゃない 』

  名前がつくと、一同、俄然張り切って・・・
  老人力のあらたな解釈が積み重なっていく。・・ 」(p210)


もどって、津野海太郎さんの「もうろくのレッスン」は
赤瀬川さんのあとに、鶴見俊輔さんの『もうろく帖』へと
駒をすすめておりました。

はい。『老人力 全一冊』『もうろく帖』『百歳までの読書術』
この3冊で3馬力。老人力に拍車がかかります。


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命が延びる思い。

2023-11-18 | 道しるべ
岡倉覚三著「茶の本」(岩波文庫・村岡博訳)の
第一章は「人情の碗」でした。

「 茶道の要義は『不完全なもの』を崇拝するにある。
  いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、
  何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。 」(p21)


はい。こんな風にはじまっておりました。
何だか腑に落ちたようでいて分からない。

そんな『?』のままでおりました。
最近になって生形貴重著「利休の逸話と徒然草」(河原書店・平成13年)
を買いました。はい。徒然草とあったので古本で買っておきました。

その第二章は「不完全と自然」と題されていたので、そこをひらく。
はじまりは「利休の言葉を記したといわれる『南方録(なんぽうろく)』の
引用があって
「『小座敷の道具は、よろず事たらぬがよし』という有名な言葉で始まる」
とあるのでした。

その次のページにはこうあります。

「現在では、茶道具を取り合わせる場合、
 当然のこととしてバランスというものを考えます。

 あまりよい道具ばかりが並びますと、
 かえって道具の格同士がかち合ってしまい、
 印象が薄れてしまいます。・・・・

 このバランスの意識こそ、じつは『不完全美』
 というべき美意識で、利休が侘び茶の秘訣
 として強調したものなのでした。 」(p54)

このあとに、徒然草の第82段からの引用がありました。
その引用のさいごの方をとりだしてみます。

「『すべて、何も皆、事のととのほりたるは、あしき事なり。
 し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。
 内裏(だいり)造らるるにも、必ず、作り果てぬ所を残す事なり』と、」

はい。この徒然草の段を次に訳してありました。

「そして、『何につけても、万事すべて完全に整っているのは
      悪いことだ。し残したものを、そのままにしているのは、
      趣向があり、命が延びる思いがする』と述べたのち・・・」(p55)

はい。こうして、茶道と徒然草の潜みへとわけいってゆくのでした。
はい。私はもうここで満腹。そういえばと思い浮かんだ言葉は

『 句集づくりのベテランにいわせると、
  名句ばかりを並べてもいい句集はできない。
  あいまにちょっと、ごく変哲のないのを入れておく・・』
                ( p189 「縁もたけなわ」 )
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『マチガイ主義』『マチガッテハイケナイ主義』

2023-11-13 | 道しるべ
津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)。
最後の方に、鶴見俊輔と赤瀬川原平のご両人が並んで登場する場面。
うん。ここを反芻する意味で引用しておくことに。

まずは、鶴見俊輔氏の「もうろく帖1」から引用している箇所(p266)

「  70に近くなって、私は、自分のもうろくに気がついた。
   これは、深まるばかりで、抜け出るときはない。せめて、
   自分の今のもうろく度を自分で知るおぼえをつけたいと思った。

 『もうろく帖1』は、1992年2月3日にはじまる。私は69歳8ヵ月だった。」

このあとに、津野さんは赤瀬川氏と比べておりました。

「鶴見さんのいう『生命力のおとろえの自覚からひらけてくる自由』を、
 赤瀬川式にいいかえると『老人力』になる。

 若いあいだはどうしても力んでしまって、うまく力が抜けない。
 したがって自由にふるまうのがむずかしい。でも心配することはない、

『老人になれば自然に老人力がついて力が抜ける』というのが赤瀬川論理。
 すなわち老人になると生命力がおちるのとひきかえに老人力がます――。

 老人力をばかにしてはいけない。

 力を抜くというのは、力をつけるよりも難しいのだ。力をつける
 のだったら何も考えずにトレーニングの足し算だけで、誰でも力はつく。
 問題はその力を発揮するとき、足し算以外に、引き算がいるんだけど、
 これが難しい。

 卓見である。ただし老人になったからといって、かならずしも、ただちに、
 かつ自然に老人力がつくわけではない。それにはやはりなにほどかの
 『引き算』の訓練が必要になる。

 鶴見さんの場合は、それが『もうろく帖』だった。そして
 赤瀬川さんにとっての『もうろく帖』が・・あの『老人力』だったのである。

 では、私の場合は?
 それとはまったく意識していなかったけれども、おそらくは
 この連載が私にとっての『もうろく帖』であり『老人力』ということになる 
 のだろう。・・・・   」(p267)


ちなみに、この津野さんの本のp80にですね。
鶴見俊輔さんの本を紹介し、『機会があったら読んでみてください』とある。
その箇所を引用しておくことに。

「・・人間はかならずまちがう、だから

『 われわれが思索に際して仮説を選ぶ場合には、
  それがマチガイであったなら最もやさしく論破
  できるような仮説をこそ採用すべきだ 』

  という『 マチガイ主義 』の考え方に衝撃をうけた。
  なにゆえのショックだったのか。それまでの私が
  結局は『 マチガッテハイケナイ主義 』の徒だったからだ

という話は、しばらくまえに鶴見の思想的自伝『期待と回想』(朝日文庫版)の解説でも書いたので、機会があったら読んでみてください。  」(p80)


はい。機会がありますので読んでみます。と古本を注文。

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ともあれ、めでたい。

2023-11-02 | 道しるべ
三年連用日記を注文しようと、ネット検索してたら、
『3年メモ』という商品があり、気楽そうな、そちらを注文。
はい。日記など続いたためしはないのですが、
何せ、すぐに忘れる自分を思うにつけ、
つづけられなければ、つづけられなくてもよしとして、
思いついたが吉日と、注文することに。


津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)に
「もの忘れ日記」と題する箇所がありました。そのなかに、
母親のことがでております。

「一昨年、94歳で死んだ母が、昨年、アルツハイマーを病み、
 そうとわかってから、その日にあったことをこまかく
 その場でメモするようになった。

 年になんどか、それ用の赤い表紙のノートを買って届けていたっけ。
 こうした努力のせいもあってか、最後まで、息子の顔を見て
 『 あら、あなたはどなた? 』というようなところまで
 病状が進行することはなかった。

 今年、じぶんの日記をつけはじめて、あれあれ、
 おれもあのころの母さんとおなじじゃないか、と思いあたった。・・

 それならそれでしかたないけど、そのまえにもういちど、
 なんとか忘れずにいる努力ぐらいはしておこう。

 そう考えて・・ うまく思いだせない名詞は
 地図でも辞書でも名刺でも伝票でも、なんでもつかって
 その場で確認し、日記に書きつけておくことにした。

 そんな作業を三か月つづけたら、あぶない名詞類も
 多少は安定して思いだせるようになった。
 ともあれ、めでたいーー。  」(p134)


はい。『 ともあれ、めでたい 』といえるまで、
三か月つづけるのか、何とか三か月ならできそうな気がしてきた。
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読書の蓄積の細道

2023-10-31 | 道しるべ
津野海太郎の本のはじまりを引用。

「3年まえに70歳をこえた人間としていわせてもらうが、
 60代は、いま思うとホンの短い過渡期だったな。

 50代(中年後期)と70代(まぎれもない老年)のあいだに
 頼りなくかかった橋。つまり過渡期。
 どうもそれ以上のものではなかったような気がする。

 読書にそくしていうなら、50代の終わりから60代にかけて、
 読書好きの人間のおおくは、齢をとったらじぶんの性(しょう)に
 あった本だけ読んでのんびり暮らそうと、
 心のどこかで漠然とそう考えている。現にかつての私がそうだった。

 しかし65歳をすぎる頃になるとそんな幻想はうすれ、たちまち70歳。
 そのあたりから体力・気力・記憶力がすさまじい速度でおとろえはじめ、
 本物の、それこそハンパじゃない老年が向こうから
 バンバン押しよせてくる。あきれるほどの迫力である。

 のんびりだって?じぶんがこんな状態になるなんて、あんた、
 いまはただ考えてもいないだろうと、60歳の私をせせら笑いたくなるくらい。 」

      ( p7  津野海太郎著「百歳までの読書術」本の雑誌社 )


はい。最後まで読んでから、この本のはじまりの、
この言葉をあらためて噛みしめることになります。

うん。今まで津野海太郎さんの本は読めなかったのですが、
この本を、あらためてもう一度パラパラとめくってみます。

たとえば、『渡り歩き』にふれてから、津野さんはこう語ります。

「・・・・・『老人読書』とは・・・
 高齢者特有の発作的な読書パターンをさす。

 なぜ高齢者特有というのか。
 少年や青年、若い壮年の背後には、ざんねんながら、
 それから『何十年かの時間が経過した』といえるだけの
 時間の蓄積がないからだ。・・・   」(p172)

さて。この本で『老人読書』は、どのような道筋だったのかと、
再度ひっくり返し読みたくなります。これも年齢の通り道かも。
老人読書の細道。どっこい。よろけながら踏み固め照らします。
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整理は急がぬこと。

2023-10-13 | 道しるべ
香住春吾著『団地の整理学』(中央公論社・昭和46年)を
古本で購入(200円)してあったのに気づく。
著者の香住春吾(かすみ・しゅんご)氏は、1909年京都市生まれ。

はい。家の整理でもするかと思っていたら、
本棚に購入してあった、この本が目に入る。
とりあえず、家の整理はそっちのけで開く。
もちろん。パラパラ読みです。
「紙を切り抜く」という箇所にこうありました。

「 切り抜いたら、いちおう所定の箱に入れておきます。
  『整理』は急がぬことがコツですが、
  とくに切抜きにはそれが必要です。
  後日関連記事が出た場合の取りまとめに役立ちます。・・」(p210)


はい。パラパラ読みは、つぎに、あとがきを開きます。

「・・しかし、『整理』の結果に、
 『完全』を期待しないでください。
 『完全なる整理』は存在しないからです。

 わたしたちの暮しは、常に動いています。
 『整理』はその動きに応じて起る必要現象です。

 したがって、
 きょうの『整理』は、
 あすのための『準備』なのです。

 ・・・・・
 掃除、洗濯、炊事などは、毎日くり返される作業です。
 終点はありません。そして、そのことに、
 あなたはいささかの疑問も抱きません。

 『整理』もじつは、それらと同様の『家事』なのです。
 くり返しくり返し、いつまでも永遠につづく『家事』です。

 ちがうところは、炊事や洗濯のように、きょう、いま、
 やらなければならぬ『緊急性』がないだけのことです。

 手の空いたとき、気が向いたときに
 やればよい『弾力性』を有している点です。
 はてしないことにかわりはありません。
 はてしない作業だからこそ、
 それは『家事』といえるのです。・・・  」(p277~278)


はい。「『整理』は急がぬことがコツです・・」。
このコツを掲げ、ゆっくり整理をしてみることに。

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蒙古襲来と怨霊追善。

2023-06-24 | 道しるべ
産経新聞の2023年6月6日。平川祐弘氏の正論欄で紹介されていた
テレングト・アイトル著『超越への親密性――もう一つの日本文学の読み方』
をひらく、平川氏が指摘されていた論文は、その本の最後にありました。
はい。とりあえず、私はそのところだけでも読んでみる。

蒙古襲来からとりあげられているのですが、
「フビライの帝国は遊牧型、農耕型、海洋型の社会が融合するように
 して拡大し、大都を中核として大ユーラシア交易圏ができあがってゆく」
その大局的な見地で、「フビライの帝国は全南宋を無傷のままに接収」
する具体的な流れを指摘してゆきます。

そのあとに、鎌倉幕府と北条一族へ焦点を定めております。
1278年(弘安元年)7月、建長寺の開山である禅僧蘭渓道隆(1213~78)が
没し、北条時宗は傑出した禅僧を招くために、宋僧無学祖元を迎えます。

「・・南宋政権はこの時点で崩壊して消えて二年も経っていたが、
 それを知ってか知らずか北条時宗は、仇敵フビライ・ハーンの元朝の
 支配下に置かれ、民間貿易・交流が自由で盛んだった寧波へ二僧を
 派遣した・・・

 これはつまり、鎌倉幕府は、元朝軍の第一次『蒙古襲来』の被害に
 見舞われた4年後、同じく元朝支配下の寧波仏教界へ公式に二人を派遣し、
 元朝の仏教界において傑出した僧を招請するために自由に出入をし、
 かつ元朝の禅僧無学祖元を迎えることに成功したということになる。」
                          ( ~p449 )

このあとに、無学祖元への言及がはじまります。

「無学祖元は日本に上陸した後、まず建長寺の住寺として迎えられた。
 1281年、第二次『蒙古襲来』(弘安の役)が過ぎると、
 『祖元は元寇も片づいたので時宗に対して帰国の希望をもらしはじめた』
 という・・・   」(p452)

「北条時宗は無学祖元が帰国の希望をもらしたことに驚き・・・
 円覚寺がちょうど落成したので、1282年、無学祖元を開山始祖として
 プレゼントした。ねらいは慰留するためである。それに加えて

 『蒙古襲来』も片づいたので、御霊信仰に従い、
 北条時宗はさらに円覚寺の開山にあたって、
 『 亡くなった日本や元の兵士など、敵味方両方の戦没者を追悼する 』
 という悲願をも託したという。

 敵味方なく外国の戦没者の霊を平等に祭るという点において、
 おそらく円覚寺の創立は、近代を除き日本史上、最高の
 格式と最大の規模のものといえよう。  」(p453~454)

こうして開山の記念説法である祈祷文の現代語訳にして載せております。
「この開山祈祷文は無学祖元の「語録」の形で現在まで残っている。・・
 それは明らかに檀那の北条時宗によって依頼された祈祷文を念誦しており」

まあ、その現代語訳を引用してみます。

「 わが日本国を助け、堅固な妙高山のように、
  わが軍の勇敢さは金剛力士のように、

  わが国が豊作で民の飢饉がないように、
  わが民が安楽して疾病がないように、
  わが国が永遠に続くように、・・・・

  古代から前年までの、わが軍と敵軍が戦死し、
  溺死した衆生の魂が帰するところなくさまよい、
  ひたすら速くそれらを救うようここで祈願し、
  
  皆苦界を超えるよう祈願します。
  仏界・法界において差がなく、
  怨親悉く平等でありますように(筆者訳)  」(p454)

このあとに、p457には、こうありました。

「 かくして日本史上最大の国難をもたらした宿敵、
  また無学祖元にとっても仇敵のモンゴルの怨霊が祭られることになる。

  そして元来、国内における敵味方なく
  怨親平等に怨霊が供養される祭祀は、
  
  今度外国の敵の怨霊をも内包するようになり、
  したがって『怨親平等』という死後の世界の平等は、
  被害側の日本と旧南宋の禅僧と元朝モンゴル帝国との
  現世の対立を超越することになる。

  元来の祟りや災いを避けるための信仰が、
  ここでは別の次元で受容され、揚棄され、
  普遍的な意味を具有するようになったといえよう。

  当時日本国内では、円覚寺の開山祭祀は
  宗教上最大のイベントであったばかりか、
  幕府のお抱えの禅僧無学祖元によって営まれたので、
  その祭祀によって、禅林の慈悲深さと寛大さが改めて明証され、
  怨霊鎮魂という伝統と信仰もより尊ばれたことであろう。

  実際、九州各地をはじめ日本の東北各地までモンゴル兵士の
  犠牲者の塚・追善の塔・板碑などが多く創られたのである。 」(p458)


はい。論文の内容は細部に詳しく、だいぶ端折りましたが、
私はこれだけでも、読めてよかったです。

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言うまでもなく。

2023-04-10 | 道しるべ
「四季終刊 丸山薫追悼号」(1975年)に掲載されていた
篠田一士の「打明け話」(p193~195)の最後は、こうでした。

「 一介のアンソロジストとして・・・
  なるべく早い時期に全詩集を読んでみたいと願っている。 」

ここに、ご自身を『一介のアンソロジスト』としておられる。
アンソロジストの紹介する本を片端から読んでみなくてもいいのかもしれない。
あらためて、そう思ってみるとだいぶ、気が楽になってきます(笑)。

ということで、幸田露伴を読まなくてもいいやと、
短絡的に判断しながら、気が楽になります。なんのこっちゃ。

それはそうと、詩とアンソロジーということで、
思い浮かぶ対談がありました。
丸谷才一対談集「古典それから現代」(構想社・1978年)
そのなかにある大岡信氏との対談「唱和と即興」の
しめくくりで、丸谷才一氏はこのように語るのでした。

丸谷】 それで思い出したけれど、
    アンソロジーがどういうものかわかってないのが、
    近代日本文学ですね。『新万葉集』とか『俳句三代集』とか
    いうアンソロジーがあったでしょう。あれ読んでみても、
    ちっとも面白くないね。ただ雑然と並んでいる。・・・・


はい。のちに、
丸谷才一氏は『新百人一首』を、
大岡信氏なら『折々のうた』を、発表するわけです。
そう思いながら、この丸谷さんの話を聞いてみたいのでした。
その話をつづけます。

   
    近代日本文学における詩の実状を手っとり早く示しているのが、
    いいアンソロジーが一つもなかったってことですね。

    つまり、文学と文明との間を結びつける靭帯がなかった。
    言うまでもなく、文学の中心は詩なんだし、

    その詩と普通の人間生活、あるいはそれをとりまく文明とを
    結びつけるのは、個人詩集じゃなくて詞華集・・・。

    だから、ある程度以上の歌人、俳人になると、
    年間十首とか、二十句とかいうのがあって、それで
    それに載ったといって喜んでる本があるでしょう。

    それは歌人、俳人の、歌壇的、俳壇的な位置のためには大事でしょう。
    しかし、現代日本文明にとって、
    そのアンソロジーは何の意味もないわけですよ。

    眠られないときに、日本人がみんな読む、
    そういう詩のアンソロジーはないんですよ。

    詩人の仕事が今の社会の言葉づかいに対して
    貢献するというようなことはないし、まして
    一社会の恋愛の仕方をきめるなどという、
    大それたことはやってないんだ。これではいけない。(笑)

大岡】 しかし、そういうものをつくれない時代なんだよね。

丸谷】 そうなんです。つらい話になってしまった。(笑)
    対談はこのへんでよして・・・
                        ( p120~121 )
   


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大村はまの『老いと若さ』

2023-03-25 | 道しるべ
大村はま著「新編教えるということ」(ちくま学芸文庫)をまたひらく。

最初の載っている講演「教えるということ」は、
「1970年8月富山県小学校新規採用教員研修会での講演」とあります。

大村はまは、明治39年(1906)生まれですから、
このときは、64歳でしょうか。新人教師への講演でした。

この講演での、『若さ』と『老い』を拾ってみることに。

大村先生は、こう語っておりました。

「 だれのためにもやっていません。自分が〇〇として老いないためです。」
 ( p31 注:〇〇のなかには教師が入りますが、
        ここには〇〇としておきたいのでした )

この研修会についても触れておられます。

「 若い時は集められて研修会がありますけれど、
  年をとってくれば、自分で自分を研修するのが一人前の〇〇です。 」
 ( p32)

『自分で自分・・』という箇所もありました。

「 一人前の人というのは、自分で自分のテーマを決め、
  自分で自分を鍛え、自分で自分の若さを保つ。   」(p33)

うん。大村はま先生の『研究』という言葉も忘れがたい。

「 『研究』ということから離れてしまった人というのは、
  私は、年が二十幾つであったとしても、もう年寄りだと思います。
   ・・・
  研究というのは、『伸びたい』という気持ちがたくさんあって、
  それに燃えないとできないことです。・・   」


こうして新人教師に語りかける大村はま先生を、
ちっとも読めない癖して少しでも聞いていたい。
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神戸の詩人さん。

2023-03-07 | 道しるべ
思潮社の現代詩文庫「竹中郁詩集」。
そこに載る杉山平一「竹中郁の詩」から引用。

「・・その資質もさることながら、彼が生まれ育ち、
 そこを一歩も離れることのなかった海港神戸という
 都市を抜きにすることはできない。

 海外貿易を主として成り立ったこの都市は
 早くから西洋風物が根を下ろしていた。・・・・

 白砂青松の白く明るい須磨という土地柄も
 彼の詩の明るさを育てたのではあるまいか。・・・・

 ・・美術学校への入学を反対され、関西学院の英文科に進み、
 福原清、山村順らの友人と、『海港詩人倶楽部』をつくり
 詩誌『羅針』を発行。・・・・・  」( p147~148 )


うん。これぐらいで、つぎに年譜から戦後の箇所を引用しておきます。

1945年(昭和20) 41歳
   3月17日、神戸空襲によって生家・実家ともに焼尽す。
   6月5日、朝の空襲で自家も消亡、蔵書四千冊を失う。
   12月、神戸市須磨区離宮前町77番地の家を得て入居。
   この家が終生の住居となる。

1946年(昭和21) 42歳
   4月、神港新聞社に入社。はじめて月給をもらう。
   8月、第三次「四季」再刊され参加。

1947年(昭和22) 43歳
   10月、神港新聞退社。文筆生活に入る。

1948年(昭和23) 44歳
   2月、児童詩誌「きりん」を尾崎書房から創刊して
   監修及び児童詩の選評にあたる。これが後半生の主要な仕事となる。
   7月、第七詩集「動物磁気」を尾崎書房から刊行。

1950年(昭和25) 46歳
   5月、「全日本児童詩集」を共編して尾崎書房から刊行。
   この年から大阪市立児童文化会館で「子ども詩の会」が
   毎月一回開かれ、坂本遼とともに詩の指導をおこなう。
   これは昭和55年2月まで30年間つづく。

1952年(昭和27) 48歳
   10月、「全日本児童詩集」第二集を共編してむさし書房から刊行。
                      ( p135~136 )


はい。年譜から、昭和20年~昭和27年の箇所を引用しました。
もどって、杉山平一氏の文の最後の方を引用しておわります。


「彼は校歌や社歌をかき、また井上靖、足立巻一とともに
 児童詩雑誌『きりん』を発刊し・・・

 その終始かわらぬ向日的で平明な詩風が、必然的に、
 児童に生活を見る目をひらかせる運動へおもむかせたのだ。

 『きりん』には多くのすぐれた子供の詩が掲載され、
 全国の児童詩運動に大きな成果をあげたが、

 生活に結びついた純真な子供の詩心を育てることも、
 彼の詩活動そのものであった。・・・        」(p150)
 
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もうおそい ということは。

2023-03-04 | 道しるべ
「大村はま国語教室」の資料篇4の、函の中には冊子が4冊。
中学校時代に、学校からのプリントを配布されているままに、
そのプリントを読んでいる気分になってきます。

はい。配布されたプリントを、おざなりに見ていた中学生でしたから、
今回もそんな感じでパラリ。『読書生活通信』という冊子を開きます。

『読書生活通信』No.1には日付があり「42.10.15」とあります。
一面の左上『指針』とあり、本居宣長の『うい山ぶみ』の言葉がある。
その引用は、佐々木治綱訳となっています。

うん。岩波文庫の本居宣長「うひ山ふみ・鈴屋答問録」は
短くって「うひ山ふみ」だけでも58ページほどですから、
短いので読んだことがありました。古典に触れた箇所など分からない。
それでも、短いし、易しそうな箇所を摘まみ読みしたことがあります。

そういうことで、ここはひとつ引用箇所を、原文にあたってみる。
だいたいの脈絡から、ここじゃないかなという箇所。
当時の本居宣長の謦咳に接しているような感じになります。
では引用。

「  初心のほどは、かたはしより文義を云々、 」

はい。この箇所は新書でいえば小見出しにあたるようです。
そのあとにこうつづきます。

「 文義の心得がたきところを、はじめより、
  一々に解せんとしては、とどこほりて、すまぬこともあれば、

  聞こえぬところは、まづそのままにて過すぞよき。

  殊に世に難き事にしたるふしぶしを、まずしらんとするは、
  いといとわろし、ただよく聞えたる所に、心をつけて、深く味ふべき也。

  こはよく聞えたる事也と思ひて、なほざりに見過せば、
  すべてこまかなる意味もしられず、

  又おほく心得たがひの有て、いつまでも其誤りをえさとらざる事有也。」

 ( p39~40  岩波文庫 )


はい。大村はま先生は『読書生活通信』をはじめるにあたって、
本居宣長の『うい山ぶみ』を指針とし、掲げてあったのでした。
実際の通信は、佐々木治綱訳です。そちらも引用しておきます。

「どの書物を読むといっても、学び初めのころは、
 片っぱしから文章の意味を理解しようとしないほうがよい。

 まずだいたいにざっと見て、他の書物を見、あれやこれやと読んでは、
 また以前読んだ書物に返りながら、何べんも読むうちには、

 始めにわからなかったことが、少しずつわかるようになってゆくものである。
 
 これらの書物を何べんも読むうちには、その他の読むべき書物のことも、
 研究法についても、だんだん自分の考えができてくるものであるから、
 それからあとのことは、いちいちさとし教えるに及ばない。     」


はい。私は中学生となって、大村はま先生の国語教室に、
今は、はじめからやり直し通おうと思っているのでした。
ということで、思う浮ぶ詩を引用しておわることに。



       いま    杉山平一


    もうおそい ということは
    人生にはないのだ

    おくれて
    行列のうしろに立ったのに
    ふと 気がつくと
    うしろにもう行列が続いている

    終りはいつも はじまりである
    人生にあるのは
    いつも 今である
    今だ



そういえば、『うひ山ふみ』のはじめの方には
こんな箇所もありましたね。

「・・又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり。
   又暇(いとま)のなき人も、思ひの外、
   いとま多き人よりも、功をなすもの也。

   されば才のともしきや、学ぶ事の晩(おそ)きや、
   暇(いとま)のなきやによりて、
   思ひくづをれて、止(やむ)ることなかれ。・・・  」

           ( p15 岩波文庫 )




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忘れっぽいのがあたりまえ。

2023-03-01 | 道しるべ
足立巻一による、竹中郁の年譜の最後には

 昭和57年(1982)
   ・・・・・・・
   3月7日午前5時40分、病状急変して脳内出血のために死去。
   満77歳11か月。戒名、春光院詩仙郁道居士。
   3月9日、神戸市兵庫区北逆瀬川町1、能福寺で告別式を営み、
   4月23日、同寺竹中累代墓に葬られた。・・・

ちなみに、まとまったものとしては、
 昭和58年3月7日初版発行『竹中郁全詩集』角川書店。そして、
 平成16年(2004)6月25日『竹中郁詩集成』沖積舎が出版されております。

『竹中郁全詩集』は、監修が井上靖。編集は足立巻一・杉山平一。
『竹中郁詩集成』は、監修が杉山平一・安水稔和とあり
( 詩集成には、帯に「誕生百年記念出版」とあります )
どちらにも、杉山平一氏の名前がありました。

それでは、杉山平一氏は、竹中郁の詩をどのように理解していたのか?
思潮社の現代詩文庫1044「竹中郁詩集」に杉山平一氏の文があります。

「 竹中郁の詩は・・・一貫して、
  きわめて清新、明快、平明の独自の詩境を展開している。

  現代詩が、歌う詩から考える詩への道行きを示した中で、
  竹中郁は、歌う詩すなわち音楽的要素から全く離脱した
  ところから出発している。

  歌わない詩にしても、一般ではなお、
  ことばのおもしろさで書かれるのに、
  
  竹中の場合は、全く新しいことばにより絵をかくという、
  きわめて視覚的要素の強い作品が主流をなしている。・・ 」 
     

はい。杉山平一氏の『竹中郁の詩』はこうしてはじまっておりました。


万事、天邪鬼(あまのじゃく)な私は、とてもじゃないけれど、
全詩集とか詩集成とかを、読み進められるわけもなくて、
それでも今回読み直し、ひとつ気になる個所があります。

それは、竹中郁少年詩集「子ども闘牛士」(理論社・1999年)の
最後にある、足立巻一「竹中先生について」のなかにありました。

「 先生は第八詩集を『そのほか』と題されました。
  子どもの詩を読むことが第一で、自分の詩は
  余分のことだという考えから名づけられたのです。 」(p163)

この直前に足立さんは、竹中さんの言葉を引用しております。

 『 自分みずからの詩作品を書いてゆけることも
   しあわせの一つにはちがいないが、

   日本のあちこちから集まってくる子どもの声・・・
   詩の数々を毎日読み、かつ選び出していく仕事は、
   他の何にもまして充実した時間だった 』


私がさがしたかったのは、この『充実した時間』を
語っているところの竹中郁さんの文でした。
詩ではないので全詩集や詩集成に探せない。
それでは、どこに。

はい。なにやら、推理の迷路めいてきましたけれど、
竹中郁さんの、『 児童詩の指導 父兄、先生へ 』
という2ページの文を、私は最後に引用したかった。

ということで引用をはじめます。

「こどもの詩雑誌『きりん』をだしはじめて、わたしは
 いろいろなことを、子どもから教えられた。

 ・・・先生が・・だと子どもは、すぐに
 詩とは何であるかを解し、せい一杯の作品をさしだす。・・・

 大人が親切と熱心とを示すと、子どもはたちどころに
 効き目をあらわして、ぐんぐんとすすむ。

 詩というものが、数学とか科学といったように
 問題を設けて、子どもの力をためすものでなく、

 子ども本人が丸うつしにでてくるものだから、その微妙な
 成長や停頓は、まるで手にとるように、よんでわかるのである。」


はい。私はこの2ページ文を引用したいために書いております。
もうすこし我慢して(笑)、引用をつづけさせてください。


「 直接、わたしが、詩をかく子どもに話をして・・・
  そのときの印象では、

  子どもは詩をかくことが、ほとんどみな好きらしいということであった。
  子どもは常からかきたいことをたくさん感じているのだ。

  しかし、かく方法がめんどうだったり、たいくつだったりして、
  かかないのだ。そう思った。だから、なるべく、

  楽な気もちで、あきのこない程度の方法を与えてやるがよい。
  それには詩なんだ。そう思った。そんな印象を得た。

  詩はめんどうな約束はないし、長くかく必要もないし、
  ほかの文学形式とくらべて、いちばん子どもに似合っている。

  だから、詩をかく子どもに出あって、話をすると、
  みなにこにこして楽しそうにわたしをみつめた。
  
  わたしが詩をかく人間だと知って警戒しないのである。
  仲間だと思うのである。わたしの方でも、子どもを
  仲間だと思って、くだけてたのしく話をした。

  ・・・・・・・・・・・

  いずれ、忘れっぽいのがあたりまえの子どもは、
  詩を作るのを忘れてしまうだろう。

  十五六歳にもなればきっと忘れてしまう。それでかまわない。

  子どものころに、感じる訓練と、それを述べる訓練
  とを経ただけで、それは十分ねうちがある。

  子どもよ、詩をかく子どもよ、すこやかなれ。   」


はい。この竹中氏の文が掲載された本は、
『 全日本児童詩集 1950 』(尾崎書房・1950年)でした。

  







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文章を書く上に。

2023-02-27 | 道しるべ
詩も言葉で、散文も言葉。
だからって、分けるのも何なのですが、
とかく分けた方がゴッチャにならない。

そこで、詩と散文と散文詩を並べておきます。
はい。ここには、『エンピツ』を例にとって。

はじまりに、神戸市菊水小学校四年の詩。

        雪    平井健允

    詩を書いていると
    雪が降ってきた
    エンピツの字がこくなった


つぎには、井上靖の「『きりん』のこと」という文から
この四年生の詩を引用してから、指摘されている箇所を。

「『雪』という詩になると、大人はもう敵(かな)わない。
  雪が降ってくると、実際に鉛筆の字はこくなって感じられる
  であろうと思う。大人では感じられないことを、少年は
  少年だけが持つ鋭い感性によって感じとっているのである。

  私はこれらの少年、少女の詩から、
  文章を書く上に、いろいろ教えられている。

  それぞれが、大人の詩人たちでさえ及ばない
  ようなものを持っているからである。

  しかし、こうした詩を読むことによって得た
  一番大きい貰いものは、小学校時代の子供たちが、
  例外なく鋭い感性を持ち、それを虫が触覚でも振り回すように
  振り回して生きているということを知ったことであった。・・  」

 ( p70  井上靖著「わが一期一会」毎日新聞社1982年  )


はい。井上靖には『雪』と題する散文詩がありました。
昭和40年5月号に掲載されたもの。つぎは、こちらを引用。


        雪     井上靖

   ――雪が降って来た。
   ――鉛筆の字が濃くなった。

   こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
   十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌でみつけた詩だ。

   雪が降って来ると、私はいつもこの詩のことを思い出す。

   ああ、いま、小学校の教室という教室で、
   子供たちの書く鉛筆の字が濃くなりつつあるのだ、と。

   この思いはちょっと類のないほど豊穣で冷厳だ。
   勤勉、真摯、調和、
   そんなものともどこかで関係を持っている。

     ( p97~98  「井上靖全詩集」新潮文庫  )
     ( p104~105 「自選 井上靖詩集」旺文社文庫 )


    注:散文のように、つながって書かれているので、
      かってに、私なりの改行をしてしまいました。



ちなみに、『キリン』といえば、竹中郁さん。
竹中郁の詩に、鉛筆が出てくる詩があります。
こちらは、雪でなく夏でした。その詩を引用。


         夏の旅     竹中郁


      えんぴつをけずる
      えんぴつは山の匂いがする
      えんぴつは苔の匂いがする
      芯には鴉のつやがある
      安全かみそりの刄のつやがある

      えんぴつをはしらせる
      谷川を下る筏のさけび
      風にはねかえるつばめの反り
      おお えんぴつを使うと  
      夏の旅はすこぶる手軽だ
      二千円の旅も十円だ


はい。この詩が載った詩集『そのほか』を、
足立巻一氏の解題から引用しておくことに。


     第八詩集『そのほか』

 昭和43年12月25日、神戸市東灘区御影本町二丁目、
 中外書房より刊行。・・定価千円。署名本千五百円。
 ・・・・

 この時期、詩人は井上靖のすすめにより子どもの詩誌
 『きりん』の監修・選評及び子どもの詩の指導に没頭した。

 『きりん』は昭和23年2月、大阪尾崎書房から創刊され、
 曲折をへて東京理論社に発行を移譲し、46年3月に通巻
 220号で終刊した。

 その間、竹中は子どもの詩の選評をつづけた。
 『そのほか』という書名も、子ども詩が仕事の中心であり、
 詩作も余業という考えからつけられた。・・・・・

 杉山平一は44年7月刊の『四季』第五号で『そのほか』を評し、

『 かつての清冽な、星とかがやく純粋な光への志向は、
  詩人にとっては、そのまま人間性の純粋そのものへ
  の志向にふくらんでいる。

  氏が、戦後果たした『きりん』という子供の詩の
  育成への情熱は、子供のなかに清冽な純粋をみたからであり、

  その育成は、そのまま竹中氏の詩作そのものであったにちがいない。 』

 と評した。理解の行き届いた評言である。  」

(  p736~737 「竹中郁全詩集」角川書店・昭和58年  )


       








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『週刊朝日』に『ハルメク』。

2023-01-26 | 道しるべ
夕刊フジを数か月購読してました。
今日電子版に登録しておきました。

うん。新聞は紙で読むものだと習慣づいており、
なかなか電子版で読むのは億劫だったのですが、

一ヶ月の購読料が夕刊フジで3,700円。電子版で1,100円。

はい。電子版で今日から読み馴れることに。
とりあえずは、今月末までは、紙と電子版
がダブるので両方を見て電子版慣らし期間。

夕刊フジは、見出しが好きなんだな。
他の新聞より、はっきりした見出し。

それはそうと、1月26日(木)で気になった箇所。

花田紀凱「天下の暴論」(p14)は題して
『 「週刊朝日」休刊を惜しむ 』でした。
そのはじまりは

「『週刊朝日』5月休刊のニュースを悲しい思いで聞いた。
  創刊101年目のあの『週刊朝日』が――。・・・

  何より表紙がいけない。毎週のように、
  ジャニーズ系の男の子たちのアップ(むろん彼らを非難しているわけではない)。
  若いファンが購入してくれるのを見込んでのことだろうが、
 『週刊朝日』ともあろうものがそんな層に媚びてどうする、
  と情けなかった。・・・・

  ぼくは『週刊朝日』はすぐれた家庭誌で、
  その路線を貫くべきだったと思っている。

  中流家庭の居間に置いてあり、
  家族の誰もが手に取れるような週刊誌。・・  」


思わず、そうそうと、頷きたくなります。
さて、同じ日の夕刊フジの4面右上には、

「 女性誌『ハルメク』快進撃 」とある。

記事のはじまりを引用しておきます。

「 50代以上の女性向け月刊誌『ハルメク』の販売部数が
  昨年12月号で50万部を超え、漫画誌を除く全雑誌で
  1位となった( 日本ABC協会調べ )。

  雑誌不況の中、5年前からほぼ右肩上がりの快進撃。
  読者自身も自覚しないニーズを掘り起こす編集姿勢・・ 」

うん。全文引用したくなる記事なのですが、とりあえずあと少し引用。

「 書店を通さず読者に直送する定期購読月刊誌として
  1996年創刊した『いきいき』が前身。

  部数が低迷していた2016年に現誌名に変更した。
  翌17年、主婦と生活社で女性誌の編集長を歴任した
  山岡朝子さん(48)が編集長に就任した後、躍進が始まった。

 『 雑誌作りで大切なのは読者を知り、寄り添うこと 』

 と山岡さん。その好例がスマートフォンの特集だ。・・・・  」

『 不況に負けず50万部超え 』という小見出しが効いてます。

折れ線グラフでは『家の光』『週刊文春』『文芸春秋』『週刊現代』
の各雑誌が下降線をたどる中、昇り調子の『ハルメク』が一目瞭然。


夕刊フジ(1月26日)にはこの時代のエポックとして、
『週刊朝日』と『ハルメク』とが語られて印象的です。




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成人式。中学校卒業式。

2023-01-09 | 道しるべ
今日の1月9日は成人式。そうカレンダーにあります。

今日寝床で、思い浮かんできたのは、
中学校の国語の先生大村はまでした。


昭和22年に義務教育として新制中学校が全国にできます。
その中学校に、大村はまは国語教師として赴任しました。
氏の講演(1970年8月)のなかにこんな箇所があります。

「 教師は専門家ですから、やっぱり生徒に力をつけなければだめです、
  ほんとうの意味で。こうした世の中を行きぬく力が、優劣に応じて
  それぞれつかなければならないと思います。・・・・

  中学におりますと、
  『 これで一人前の日本人として世の中を行きぬけるか 』
  というのが、生徒を社会に送り出すときの私の気持ちです。

  非常に悲痛な気持ちで送り出します。
  『 これで、一人前の日本人として激動の中を生きていけるだろうか 』
  と思います。

  私は卒業式の時、若い時は別れるのが悲しくて泣きましたが、
  今はこの人たちの生きていく世界が目に見えて、
  かわいそうで泣けてしまいます。

  『 どんな苦しみの中を越えて、
    この人たちは生きていかなければならないか。
    それにしては、いかにも力をつけなさすぎた  』
  と思うのです。

  生徒は高等学校へほとんどいきますが、
  高等学校は別の世界です。義務教育でもないし、年齢も違っていますから、
  中学校で与えられなかったものを、高等学校で与えられるものではありません。
   ・・・・

  脳細胞の発達の方から勉強してみても、中学の2年から
  3年の初めをもってもう頭脳のいちばん大切な開発は終わりです。
  あとは鍛えることだけしかできないのです。

  中学時代につかなかった癖は、永遠につかないと、
  大脳生理学者の時実(ときざね)利彦博士もおっしゃっています。

  ですから、この世を行きぬくだけの
  良い癖をつけることができたかと思いながら、
  みんなが一人ずつ卒業証書をもらいに出てくるのを見ていると、
  心細さと、申しわけなさと、かわいそうなのと、それから
  私の予期しなかったどんなことに出会うのかと思うと、
  なにか胸がいっぱいになってしまいます。・・・・     」

  ( 大村はま著「新編教えるということ」ちくま学芸文庫 p60~62 )

  
  こういう中学校の頃のことって、
  ボンヤリと、ちょうど成人式の頃から、
  思い浮かんでいたような気がします。ある先生のこととか。
  はい。二十歳ぐらいでは、ちっとも言葉にはならなかったけれど。
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