和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

林野に安處(あんじょ)せり。

2024-02-17 | 道しるべ
2月14日(水)に法事がありました。いつからか、
できるだけ、お坊さんについて声を出し読むようにしております。
意味はわからなくても、いいや。とりあえず、声を出し読みます。

読経とでは延ばし方が違っているため、お坊さんの読経に
あわすことができないのですが、それでもいいや。と思うことにしてます。
そのうち、それなりに印象に残る所があるものです。
こんかい、気になった箇所を、引用しておくことに。


    三界(さんがい)は安き事無し。
    猶(なほ)火宅(くわたく)の如し。

    衆苦充満して甚(はなは)だ怖畏(ふゐ)すべし。
    常に生老病死の憂患(うげん)あり。
    
    是(かく)の如き等(ら)の火、
    熾然(しねん)として息(やま)ず。

    如来は已に三界(さんがい)の火宅を離れて、
    寂然(じゃくねん)として閑居(げんこ)し、
    林野に安處(あんじょ)せり。

    今此三界は、皆是れ我有(わがう)なり。
    其中の衆生は、悉(ことごと)く是れ吾子なり。

    而(しか)も今此處は、諸(もろもろ)の患難(げんなん)多し。
    唯(ただ)我一人(いちにん)のみ能く救護(くご)をなす。


はい。今回は、読経のこの箇所が気になりました。
久しぶりに集まって昼食を共に語りあっていたら、
この箇所も、すっかり忘れてしまっておりました。
今日になり、お経本をひらいておもいだしました。


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「安岡章太郎」覚書。

2024-01-29 | 道しるべ
関東大震災は、大正12年9月1日。
安房郡でその記録「安房震災誌」が出来たのは大正15年3月。

読んでないのですが、安岡章太郎著「僕の昭和史1」は
こうはじまっておりました。

「僕の昭和史は、大正天皇崩御と御大葬の記憶からはじまる。
 天皇の崩御は大正15年12月25日、御大葬は翌昭和2年2月7日・・・」

今回古本で注文したのは
安岡章太郎対談集「対談・僕の昭和史」(講談社・1989年)。
カバーもきれいな単行本がとどきました。
この対談集の最後には、田村義也氏との対談がありました。
田村義也といえば、

「安岡さんの著書の大半が田村義也装丁である。・・・・
 『僕の昭和史』(全3巻)と『対談・僕の昭和史』の装丁・・・

 第一巻が『ゴールデンバット』、第二巻が『ピース』、
 第三巻が『セブンスター』、対談集が『光』であったが、
 タバコのデザインも時代によって少しずつ違っている・・・・

 田村さんの装丁も・・・精興社の活版印刷のよさも生きた、
 とても素晴らしい出来ばえであった。 」
( p230  鷲尾賢也著「新版編集とはどのような仕事なのか」 )

うん。『対談・僕の昭和史』が古本でも新刊並みの綺麗さで、
その素晴らしい出来ばえが味わえました。

それはそうと、田村義也・安岡章太郎の対談のなかに
興味深い箇所があったので、忘れないように引用しておきます。

安岡】 最近僕は、小説は文学の中心ではないように思いはじめている。
   これまでずっと小説が文学の中心だったわけだけど、一般に
   そういう考え方は変わってくるんじゃないかな。
   僕自身かなり変わってきていますけれど、
   伝記とか紀行とかいうものに対する関心が、ずっと大きくなりましたね。
   自分のことをいっていいかどうかわかりませんが、
   アメリカから帰ってきて書いたものの中では、やっぱり
  『志賀直哉私論』が大きいんですね。・・・・・・

田村】 あの本については、僕にも思い出があってね。
   岩波にいた頃のことなんだけど、小林勇さんがやってきて、
  『おれはきのう大変なことになった』と興奮していう。

   小林さんは、前の晩に、安岡さんが『文学界』に連載していた
   『志賀直哉私論』を読みだして大興奮したらしいんですね。
   たまたま一冊読みだしたら止められない。押し入れの中に
   積み重ねてあった雑誌のバックナンバーを探し出して必死に読んだ、
   そして、すごくおもしろかった、という・・・・

安岡】 僕は後でそれを聞いてうれしかったんだけど、とにかく
    あれは小林さんが70歳ぐらいのときですよ。
    その歳の人が文芸雑誌を引っくり返して読んでくれる
    というのはうれしかったね。
       ・・・・

安岡】 あのあと『流離譚』を書いたでしょう。
    あれは『志賀直哉私論』とほとんど同じ書き方です。
                       (p259~261)


話しは逸れるのですが、編集者・鷲尾賢也氏の文のなかに

「 調子にのると、安岡(章太郎)さんは おかしな格好になる。
  相撲の蹲踞(そんきょ)のように腰を浮かせて書くのである。
  そうなったらしめたもので脱稿も間近い。・・・」
  ( p229  鷲尾賢也著「新版編集とはどのような仕事なのか」 )

という箇所があって、気になっていたのですが、
どうしてそんか姿勢になるのかが、今頃になって判明しました。

世界文化社の一冊に、安岡章太郎著「忘れがたみ」があり、
私は読んでいないのですが、目次の次のページの写真。
それは、机に向かって執筆している写真なのですが、下に説明がある。

「昭和34年(1959年)頃の著者
 まだ脊椎(せきつい)カリエスが完治せず、坐っての執筆は無理だった。」

なあんだ。蹲踞の姿勢で執筆するのは、病気が原因だったのだ。


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享年69歳。

2024-01-25 | 道しるべ
田中美知太郎の短文のなかに、

「老人心理というようなものについて、
 わたし自身どれだけ知っているのか。
 知ったかぶりは笑われるだけであろう。
 
 しかし年とともに、死もまた光を失い、
 次第に平凡なものになって行くのではないかと考えたりする。」

「シリーズ牧水賞の歌人たちVol.5  小高賢」(青磁社・2014年)
という雑誌本がありました。

最後の方に、小高賢自筆年譜がある。

1944(昭和19)年0歳
 7月13日、東京下町に生まれる。・・秋口に疎開。・・
 祖母、母、兄とともに移る。中風の祖母、
 それに乳飲み子で、病弱な私の世話で、どれほど
 苦労したかというのが、晩年の母の繰り返した愚痴である。
 確かに、私の身体には切開した跡がいくつもある。
 脳膜炎になり、首を振ったとも聞かされていた。 
 父は昭和20年3月10日の大空襲を隅田川に浸かって助かったという。

この年譜の、最後はというと、

2013(平成25)年69歳
  ・・・長くお付き合いいただいた安岡章太郎さんが亡くなる。
  ショックであった。・・・・
  12月に、安岡章太郎『歴史のぬくもり』を編集刊行。解題を書く。

そして最後にこう付け加えてありました。

2014(平成26)年
  2月10日、脳出血のため急逝。享年69歳。

この編集後記をみる。

「・・・このムックの最終校了ゲラが小高さんから届いたのが2月10日
 ・・・同日、10日の午後4時過ぎにはメールがあり、書き出しは
 『東京は大雪。昨日、雪かきで腰を痛めました。年寄は困ったものです。』
  であり、結語もやはり
 『そのうち、打ち上げで一献しましょう。楽しみにしています。』であった。
  その僅か数時間後に訪れる唐突な死のことなど、
  微塵も感じさせない文面である。・・・・」


最初に引用した田中美知太郎氏の文の後半には、こうありました。

「・・・『死を思え』と哲学は教える。・・・
 ・・いつまで生きてみたところで、
 わたしたちには解くことのできない問題がいくらもある。
 人生の大切な問題は、これまでの歴史において解くことができなかったものを、
 これからの歴史において解くことができるなどと信じてはいけないとも
 言われている。
 われわれが今生において見たものがすべてなのである。・・・だから、
 限られた今生の間に永遠は垣間見られると言った方がいいかも知れない。
 ・・・・   」

 (p77~78 田中美知太郎著「古典学徒の信条」文芸春秋・昭和47年)


う~ん。とりあえず、小高賢年譜にでてくる
安岡章太郎歴史文集『歴史の温もり』(講談社・2013年12月発行)を
古本で注文することにしてみました。



 
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茶道と非常時

2024-01-09 | 道しるべ
昨年読んで興味を持った臼井史朗の本を
数冊古本で買ってあり、そのままだった。

臼井史朗著「昭和の茶道 忘れ得ぬ人」(淡交社・平成5年)。
とりあえず、途中からパラリとひらくと

「昭和20年8月、日本全土が焦土と化し飢餓のどん底で敗戦。
 しかし、20年11月には『茶道月報』は復刊する。・・ 」(p26)

このあとに、昭和23年頃の手紙が引用されておりました。

「まったくの廃墟の中で、風雅の道を、ともにもとめる心境に、
 悲しいまで情感がにじみ出ている。

 ・・・名古屋の友人伊藤幸楽主人ハ今様ニ
 水ツケの焼ケ跡から茶器類をホリ出シ
 小生ニモ珍らしき事ナル旨通知ありたるニ
 蕨の絵をかき
   春山ニやけ太りたるわらびかな
 と申送り候処 それらを取繕ふて 木曽川町の仮寓で
 名古屋より疎開中の茶友を招き 一会致度由
 楽げニ茶会記を添へ申来りて候

 又左近君ハ爆風ニて散々ニ家ヲ崩サレナガラ
 之を自分にて幾分修理シ 道具類ヲ纏メツツアル旨申来り

 到処此喜劇のみ承わり居候
 茶道ニハ非常時無ク 平常心是道
 茲ニ御喜ヒ申上候           


・・・・これも年次はさだかでないが敗戦直後の、松永耳庵より、
三昧宛の書信と思われるものであるが、
『 茶道ニハ非常時は無く、平常心あるのみ 』とあるあたりに、
茶友の心情がうかがわれる。

松永耳庵からの手紙は、まだまだある。紙一枚が貴重な時代である。
まともな便箋など一枚もなく、細字で毛筆、句読点、改行の余裕などは
まったくない。飢餓時代であるが、茶を通じての心は、
筆跡ににじみ出て心なごむようである。  」(~p29)


はい。この数ページの箇所を読んで
私は満腹。先を読む気がしなくなる。


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狭くする。広くしてくれる。

2023-12-23 | 道しるべ
田中泰延著「読みたいことを、書けばいい」(ダイヤモンド社・2019年)。
以前に古本で購入してありました。うん。題名にしてからが、いきなり直球。
その題名にひかれて買った一冊でした。

田中泰延氏は、1969年大阪生まれで、24年間コピーライター・CMプランナー
として活躍とあります。どうりで小見出しも、弾けるほどに、生きがいい。
目次から、その小見出しだけでも引用したくなります。

〇 だれかがもう書いているなら読み手でいよう

〇 他人の人生を生きてはいけない

〇 物書きは『調べる』が9割9分5厘6毛

〇 書くことはたった一人のベンチャー起業


うん。全球直球勝負といったところ。
今回読み直していたら、それでも微妙に個性的変化を混ぜて投げてくる。
いままでの経験を全力投球しているような一冊。
本棚に置いては、ときに手にとりたくなる一冊。
全力投球ならば、この箇所など引用したくなる。

「 書けば書くほど、その人の世界は狭くなっていく。・・・

  しかし、恐れることはない。なぜなら、
  書くのはまず、自分のためだからだ。

  あなたが触れた事象は、あなただけが知っている。
  あなたが抱いた心象は、あなただけが憶えている。

  あなたは世界のどこかに、小さな穴を掘るように、
  小さな旗を立てるように、書けばいい。

  すると、だれかがいつか、そこを通る。

  書くことは世界を狭くすることだ。
  しかし、その小さななにかが、あくまで結果として、
  あなたの世界を広くしてくれる。        」( p224~225 )


はい。あらためて読み直しても、それが、
コピーライター的用語なのかもしれないけれども、
鼻につかない。忘れなければ開こうと本棚へ戻す。



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『忘れる』花が咲く。

2023-11-21 | 道しるべ
ネットで本の注文が、習い性となってます。
以前もそうだったのですが、そうすると、
何かの関連で注文したはずの本の、
その関連の結びつきをすっかり忘れてしまってる。

本への興味も、私のことゆえ、すぐ飽きます。
興味にも引き潮があって、齢を重ねると、
そろそろ、この興味も終わり、次の興味へと移るころだと、
何となく分かるような気がしたりして。

すると、引き潮のあとに、残った本が、
これが、どうして買ったか分からない。
すでに、引き潮で興味が失われている。
要するに、すっかり忘れてしまている。

うん。こういう時のための備忘録。
それを書いてみることに。

津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)。
その最後の方に、「もうろくのレッスン」とある。そこに、
「ちくま文庫版の『老人力 全一冊』を購入」(p263)とある。
津野さんが、その文庫をひらくと

「 ふつうは歳をとったとか、モーロクしたとか、
  あいつもだいぶボケたとかいうんだけど、そういう言葉の代りに、

 『 あいつもかなり老人力がついてきたな 』

  というふうにいうのである。そうすると何だか、
  歳をとることに積極性が出てきてなかなかいい。

  歳をとって物忘れがだんだん増えてくるのは、
  自分にとっては未知の新しい領域に踏み込んでいくわけで、
  けっこう盛り上がるものがある。   」(p263)


ここで、そういえば、と
松田哲夫著「縁もたけなわ」をひらくことに。
「赤瀬川原平さん(その3)」の始まりのイラストは
老人力の本が描かれて、そのわきに
「ものわすれで、いつもからかっていた
 赤瀬川さんに追いついてしまった二人が思いついた・・」
とコメントがあり、
 下には、南伸坊と藤森照信のふたりのイラスト
藤森さんは、笑いながら『老人力ってのはどうか』といい。
伸坊さんは、『いいねエ』と。

はい。このページをめくってみると、こんな箇所。

「・・・そこで、『忘れる』談義に花が咲く。
 
『 若い時って、イヤなことをいつまでも覚えてつらかったこともあった 』
『 記憶力は頑張れば身につくけど、
  忘れるのは頑張ってできることじゃないね 』

 物忘れとか固有名詞が出てこないとかを、
 『 忘れる力がついた 』と裏返そうという
 赤瀬川さんらしい考え方が全面展開される。

 そこで藤森さんは、
『 老化ってマイナスイメージしかない。
  思いきって力強い表現にしちゃおう 』と

『 老人力 』という言葉を口にする。

 こうして、マイナスの価値観を裏返す赤瀬川的思考に
 藤森的パワフル・ネーミングが加わって、最強の言葉(概念)が誕生した。」

はい。「最強の言葉(概念)」の誕生の瞬間ですから、
ここは、繰り返しになったとして構わずに引用します。

「『 スポーツの力は筋トレなどでつけていく。
   でも、いざチャンス、いざピンチという時は、
   コーチや監督が【 肩の力を抜いていけ 】と言う。
   あれも同じじゃない 』

  名前がつくと、一同、俄然張り切って・・・
  老人力のあらたな解釈が積み重なっていく。・・ 」(p210)


もどって、津野海太郎さんの「もうろくのレッスン」は
赤瀬川さんのあとに、鶴見俊輔さんの『もうろく帖』へと
駒をすすめておりました。

はい。『老人力 全一冊』『もうろく帖』『百歳までの読書術』
この3冊で3馬力。老人力に拍車がかかります。


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命が延びる思い。

2023-11-18 | 道しるべ
岡倉覚三著「茶の本」(岩波文庫・村岡博訳)の
第一章は「人情の碗」でした。

「 茶道の要義は『不完全なもの』を崇拝するにある。
  いわゆる人生というこの不可解なもののうちに、
  何か可能なものを成就しようとするやさしい企てであるから。 」(p21)


はい。こんな風にはじまっておりました。
何だか腑に落ちたようでいて分からない。

そんな『?』のままでおりました。
最近になって生形貴重著「利休の逸話と徒然草」(河原書店・平成13年)
を買いました。はい。徒然草とあったので古本で買っておきました。

その第二章は「不完全と自然」と題されていたので、そこをひらく。
はじまりは「利休の言葉を記したといわれる『南方録(なんぽうろく)』の
引用があって
「『小座敷の道具は、よろず事たらぬがよし』という有名な言葉で始まる」
とあるのでした。

その次のページにはこうあります。

「現在では、茶道具を取り合わせる場合、
 当然のこととしてバランスというものを考えます。

 あまりよい道具ばかりが並びますと、
 かえって道具の格同士がかち合ってしまい、
 印象が薄れてしまいます。・・・・

 このバランスの意識こそ、じつは『不完全美』
 というべき美意識で、利休が侘び茶の秘訣
 として強調したものなのでした。 」(p54)

このあとに、徒然草の第82段からの引用がありました。
その引用のさいごの方をとりだしてみます。

「『すべて、何も皆、事のととのほりたるは、あしき事なり。
 し残したるをさて打ち置きたるは、面白く、生き延ぶるわざなり。
 内裏(だいり)造らるるにも、必ず、作り果てぬ所を残す事なり』と、」

はい。この徒然草の段を次に訳してありました。

「そして、『何につけても、万事すべて完全に整っているのは
      悪いことだ。し残したものを、そのままにしているのは、
      趣向があり、命が延びる思いがする』と述べたのち・・・」(p55)

はい。こうして、茶道と徒然草の潜みへとわけいってゆくのでした。
はい。私はもうここで満腹。そういえばと思い浮かんだ言葉は

『 句集づくりのベテランにいわせると、
  名句ばかりを並べてもいい句集はできない。
  あいまにちょっと、ごく変哲のないのを入れておく・・』
                ( p189 「縁もたけなわ」 )
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『マチガイ主義』『マチガッテハイケナイ主義』

2023-11-13 | 道しるべ
津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)。
最後の方に、鶴見俊輔と赤瀬川原平のご両人が並んで登場する場面。
うん。ここを反芻する意味で引用しておくことに。

まずは、鶴見俊輔氏の「もうろく帖1」から引用している箇所(p266)

「  70に近くなって、私は、自分のもうろくに気がついた。
   これは、深まるばかりで、抜け出るときはない。せめて、
   自分の今のもうろく度を自分で知るおぼえをつけたいと思った。

 『もうろく帖1』は、1992年2月3日にはじまる。私は69歳8ヵ月だった。」

このあとに、津野さんは赤瀬川氏と比べておりました。

「鶴見さんのいう『生命力のおとろえの自覚からひらけてくる自由』を、
 赤瀬川式にいいかえると『老人力』になる。

 若いあいだはどうしても力んでしまって、うまく力が抜けない。
 したがって自由にふるまうのがむずかしい。でも心配することはない、

『老人になれば自然に老人力がついて力が抜ける』というのが赤瀬川論理。
 すなわち老人になると生命力がおちるのとひきかえに老人力がます――。

 老人力をばかにしてはいけない。

 力を抜くというのは、力をつけるよりも難しいのだ。力をつける
 のだったら何も考えずにトレーニングの足し算だけで、誰でも力はつく。
 問題はその力を発揮するとき、足し算以外に、引き算がいるんだけど、
 これが難しい。

 卓見である。ただし老人になったからといって、かならずしも、ただちに、
 かつ自然に老人力がつくわけではない。それにはやはりなにほどかの
 『引き算』の訓練が必要になる。

 鶴見さんの場合は、それが『もうろく帖』だった。そして
 赤瀬川さんにとっての『もうろく帖』が・・あの『老人力』だったのである。

 では、私の場合は?
 それとはまったく意識していなかったけれども、おそらくは
 この連載が私にとっての『もうろく帖』であり『老人力』ということになる 
 のだろう。・・・・   」(p267)


ちなみに、この津野さんの本のp80にですね。
鶴見俊輔さんの本を紹介し、『機会があったら読んでみてください』とある。
その箇所を引用しておくことに。

「・・人間はかならずまちがう、だから

『 われわれが思索に際して仮説を選ぶ場合には、
  それがマチガイであったなら最もやさしく論破
  できるような仮説をこそ採用すべきだ 』

  という『 マチガイ主義 』の考え方に衝撃をうけた。
  なにゆえのショックだったのか。それまでの私が
  結局は『 マチガッテハイケナイ主義 』の徒だったからだ

という話は、しばらくまえに鶴見の思想的自伝『期待と回想』(朝日文庫版)の解説でも書いたので、機会があったら読んでみてください。  」(p80)


はい。機会がありますので読んでみます。と古本を注文。

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ともあれ、めでたい。

2023-11-02 | 道しるべ
三年連用日記を注文しようと、ネット検索してたら、
『3年メモ』という商品があり、気楽そうな、そちらを注文。
はい。日記など続いたためしはないのですが、
何せ、すぐに忘れる自分を思うにつけ、
つづけられなければ、つづけられなくてもよしとして、
思いついたが吉日と、注文することに。


津野海太郎著「百歳までの読書術」(本の雑誌社・2015年)に
「もの忘れ日記」と題する箇所がありました。そのなかに、
母親のことがでております。

「一昨年、94歳で死んだ母が、昨年、アルツハイマーを病み、
 そうとわかってから、その日にあったことをこまかく
 その場でメモするようになった。

 年になんどか、それ用の赤い表紙のノートを買って届けていたっけ。
 こうした努力のせいもあってか、最後まで、息子の顔を見て
 『 あら、あなたはどなた? 』というようなところまで
 病状が進行することはなかった。

 今年、じぶんの日記をつけはじめて、あれあれ、
 おれもあのころの母さんとおなじじゃないか、と思いあたった。・・

 それならそれでしかたないけど、そのまえにもういちど、
 なんとか忘れずにいる努力ぐらいはしておこう。

 そう考えて・・ うまく思いだせない名詞は
 地図でも辞書でも名刺でも伝票でも、なんでもつかって
 その場で確認し、日記に書きつけておくことにした。

 そんな作業を三か月つづけたら、あぶない名詞類も
 多少は安定して思いだせるようになった。
 ともあれ、めでたいーー。  」(p134)


はい。『 ともあれ、めでたい 』といえるまで、
三か月つづけるのか、何とか三か月ならできそうな気がしてきた。
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読書の蓄積の細道

2023-10-31 | 道しるべ
津野海太郎の本のはじまりを引用。

「3年まえに70歳をこえた人間としていわせてもらうが、
 60代は、いま思うとホンの短い過渡期だったな。

 50代(中年後期)と70代(まぎれもない老年)のあいだに
 頼りなくかかった橋。つまり過渡期。
 どうもそれ以上のものではなかったような気がする。

 読書にそくしていうなら、50代の終わりから60代にかけて、
 読書好きの人間のおおくは、齢をとったらじぶんの性(しょう)に
 あった本だけ読んでのんびり暮らそうと、
 心のどこかで漠然とそう考えている。現にかつての私がそうだった。

 しかし65歳をすぎる頃になるとそんな幻想はうすれ、たちまち70歳。
 そのあたりから体力・気力・記憶力がすさまじい速度でおとろえはじめ、
 本物の、それこそハンパじゃない老年が向こうから
 バンバン押しよせてくる。あきれるほどの迫力である。

 のんびりだって?じぶんがこんな状態になるなんて、あんた、
 いまはただ考えてもいないだろうと、60歳の私をせせら笑いたくなるくらい。 」

      ( p7  津野海太郎著「百歳までの読書術」本の雑誌社 )


はい。最後まで読んでから、この本のはじまりの、
この言葉をあらためて噛みしめることになります。

うん。今まで津野海太郎さんの本は読めなかったのですが、
この本を、あらためてもう一度パラパラとめくってみます。

たとえば、『渡り歩き』にふれてから、津野さんはこう語ります。

「・・・・・『老人読書』とは・・・
 高齢者特有の発作的な読書パターンをさす。

 なぜ高齢者特有というのか。
 少年や青年、若い壮年の背後には、ざんねんながら、
 それから『何十年かの時間が経過した』といえるだけの
 時間の蓄積がないからだ。・・・   」(p172)

さて。この本で『老人読書』は、どのような道筋だったのかと、
再度ひっくり返し読みたくなります。これも年齢の通り道かも。
老人読書の細道。どっこい。よろけながら踏み固め照らします。
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整理は急がぬこと。

2023-10-13 | 道しるべ
香住春吾著『団地の整理学』(中央公論社・昭和46年)を
古本で購入(200円)してあったのに気づく。
著者の香住春吾(かすみ・しゅんご)氏は、1909年京都市生まれ。

はい。家の整理でもするかと思っていたら、
本棚に購入してあった、この本が目に入る。
とりあえず、家の整理はそっちのけで開く。
もちろん。パラパラ読みです。
「紙を切り抜く」という箇所にこうありました。

「 切り抜いたら、いちおう所定の箱に入れておきます。
  『整理』は急がぬことがコツですが、
  とくに切抜きにはそれが必要です。
  後日関連記事が出た場合の取りまとめに役立ちます。・・」(p210)


はい。パラパラ読みは、つぎに、あとがきを開きます。

「・・しかし、『整理』の結果に、
 『完全』を期待しないでください。
 『完全なる整理』は存在しないからです。

 わたしたちの暮しは、常に動いています。
 『整理』はその動きに応じて起る必要現象です。

 したがって、
 きょうの『整理』は、
 あすのための『準備』なのです。

 ・・・・・
 掃除、洗濯、炊事などは、毎日くり返される作業です。
 終点はありません。そして、そのことに、
 あなたはいささかの疑問も抱きません。

 『整理』もじつは、それらと同様の『家事』なのです。
 くり返しくり返し、いつまでも永遠につづく『家事』です。

 ちがうところは、炊事や洗濯のように、きょう、いま、
 やらなければならぬ『緊急性』がないだけのことです。

 手の空いたとき、気が向いたときに
 やればよい『弾力性』を有している点です。
 はてしないことにかわりはありません。
 はてしない作業だからこそ、
 それは『家事』といえるのです。・・・  」(p277~278)


はい。「『整理』は急がぬことがコツです・・」。
このコツを掲げ、ゆっくり整理をしてみることに。

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蒙古襲来と怨霊追善。

2023-06-24 | 道しるべ
産経新聞の2023年6月6日。平川祐弘氏の正論欄で紹介されていた
テレングト・アイトル著『超越への親密性――もう一つの日本文学の読み方』
をひらく、平川氏が指摘されていた論文は、その本の最後にありました。
はい。とりあえず、私はそのところだけでも読んでみる。

蒙古襲来からとりあげられているのですが、
「フビライの帝国は遊牧型、農耕型、海洋型の社会が融合するように
 して拡大し、大都を中核として大ユーラシア交易圏ができあがってゆく」
その大局的な見地で、「フビライの帝国は全南宋を無傷のままに接収」
する具体的な流れを指摘してゆきます。

そのあとに、鎌倉幕府と北条一族へ焦点を定めております。
1278年(弘安元年)7月、建長寺の開山である禅僧蘭渓道隆(1213~78)が
没し、北条時宗は傑出した禅僧を招くために、宋僧無学祖元を迎えます。

「・・南宋政権はこの時点で崩壊して消えて二年も経っていたが、
 それを知ってか知らずか北条時宗は、仇敵フビライ・ハーンの元朝の
 支配下に置かれ、民間貿易・交流が自由で盛んだった寧波へ二僧を
 派遣した・・・

 これはつまり、鎌倉幕府は、元朝軍の第一次『蒙古襲来』の被害に
 見舞われた4年後、同じく元朝支配下の寧波仏教界へ公式に二人を派遣し、
 元朝の仏教界において傑出した僧を招請するために自由に出入をし、
 かつ元朝の禅僧無学祖元を迎えることに成功したということになる。」
                          ( ~p449 )

このあとに、無学祖元への言及がはじまります。

「無学祖元は日本に上陸した後、まず建長寺の住寺として迎えられた。
 1281年、第二次『蒙古襲来』(弘安の役)が過ぎると、
 『祖元は元寇も片づいたので時宗に対して帰国の希望をもらしはじめた』
 という・・・   」(p452)

「北条時宗は無学祖元が帰国の希望をもらしたことに驚き・・・
 円覚寺がちょうど落成したので、1282年、無学祖元を開山始祖として
 プレゼントした。ねらいは慰留するためである。それに加えて

 『蒙古襲来』も片づいたので、御霊信仰に従い、
 北条時宗はさらに円覚寺の開山にあたって、
 『 亡くなった日本や元の兵士など、敵味方両方の戦没者を追悼する 』
 という悲願をも託したという。

 敵味方なく外国の戦没者の霊を平等に祭るという点において、
 おそらく円覚寺の創立は、近代を除き日本史上、最高の
 格式と最大の規模のものといえよう。  」(p453~454)

こうして開山の記念説法である祈祷文の現代語訳にして載せております。
「この開山祈祷文は無学祖元の「語録」の形で現在まで残っている。・・
 それは明らかに檀那の北条時宗によって依頼された祈祷文を念誦しており」

まあ、その現代語訳を引用してみます。

「 わが日本国を助け、堅固な妙高山のように、
  わが軍の勇敢さは金剛力士のように、

  わが国が豊作で民の飢饉がないように、
  わが民が安楽して疾病がないように、
  わが国が永遠に続くように、・・・・

  古代から前年までの、わが軍と敵軍が戦死し、
  溺死した衆生の魂が帰するところなくさまよい、
  ひたすら速くそれらを救うようここで祈願し、
  
  皆苦界を超えるよう祈願します。
  仏界・法界において差がなく、
  怨親悉く平等でありますように(筆者訳)  」(p454)

このあとに、p457には、こうありました。

「 かくして日本史上最大の国難をもたらした宿敵、
  また無学祖元にとっても仇敵のモンゴルの怨霊が祭られることになる。

  そして元来、国内における敵味方なく
  怨親平等に怨霊が供養される祭祀は、
  
  今度外国の敵の怨霊をも内包するようになり、
  したがって『怨親平等』という死後の世界の平等は、
  被害側の日本と旧南宋の禅僧と元朝モンゴル帝国との
  現世の対立を超越することになる。

  元来の祟りや災いを避けるための信仰が、
  ここでは別の次元で受容され、揚棄され、
  普遍的な意味を具有するようになったといえよう。

  当時日本国内では、円覚寺の開山祭祀は
  宗教上最大のイベントであったばかりか、
  幕府のお抱えの禅僧無学祖元によって営まれたので、
  その祭祀によって、禅林の慈悲深さと寛大さが改めて明証され、
  怨霊鎮魂という伝統と信仰もより尊ばれたことであろう。

  実際、九州各地をはじめ日本の東北各地までモンゴル兵士の
  犠牲者の塚・追善の塔・板碑などが多く創られたのである。 」(p458)


はい。論文の内容は細部に詳しく、だいぶ端折りましたが、
私はこれだけでも、読めてよかったです。

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言うまでもなく。

2023-04-10 | 道しるべ
「四季終刊 丸山薫追悼号」(1975年)に掲載されていた
篠田一士の「打明け話」(p193~195)の最後は、こうでした。

「 一介のアンソロジストとして・・・
  なるべく早い時期に全詩集を読んでみたいと願っている。 」

ここに、ご自身を『一介のアンソロジスト』としておられる。
アンソロジストの紹介する本を片端から読んでみなくてもいいのかもしれない。
あらためて、そう思ってみるとだいぶ、気が楽になってきます(笑)。

ということで、幸田露伴を読まなくてもいいやと、
短絡的に判断しながら、気が楽になります。なんのこっちゃ。

それはそうと、詩とアンソロジーということで、
思い浮かぶ対談がありました。
丸谷才一対談集「古典それから現代」(構想社・1978年)
そのなかにある大岡信氏との対談「唱和と即興」の
しめくくりで、丸谷才一氏はこのように語るのでした。

丸谷】 それで思い出したけれど、
    アンソロジーがどういうものかわかってないのが、
    近代日本文学ですね。『新万葉集』とか『俳句三代集』とか
    いうアンソロジーがあったでしょう。あれ読んでみても、
    ちっとも面白くないね。ただ雑然と並んでいる。・・・・


はい。のちに、
丸谷才一氏は『新百人一首』を、
大岡信氏なら『折々のうた』を、発表するわけです。
そう思いながら、この丸谷さんの話を聞いてみたいのでした。
その話をつづけます。

   
    近代日本文学における詩の実状を手っとり早く示しているのが、
    いいアンソロジーが一つもなかったってことですね。

    つまり、文学と文明との間を結びつける靭帯がなかった。
    言うまでもなく、文学の中心は詩なんだし、

    その詩と普通の人間生活、あるいはそれをとりまく文明とを
    結びつけるのは、個人詩集じゃなくて詞華集・・・。

    だから、ある程度以上の歌人、俳人になると、
    年間十首とか、二十句とかいうのがあって、それで
    それに載ったといって喜んでる本があるでしょう。

    それは歌人、俳人の、歌壇的、俳壇的な位置のためには大事でしょう。
    しかし、現代日本文明にとって、
    そのアンソロジーは何の意味もないわけですよ。

    眠られないときに、日本人がみんな読む、
    そういう詩のアンソロジーはないんですよ。

    詩人の仕事が今の社会の言葉づかいに対して
    貢献するというようなことはないし、まして
    一社会の恋愛の仕方をきめるなどという、
    大それたことはやってないんだ。これではいけない。(笑)

大岡】 しかし、そういうものをつくれない時代なんだよね。

丸谷】 そうなんです。つらい話になってしまった。(笑)
    対談はこのへんでよして・・・
                        ( p120~121 )
   


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大村はまの『老いと若さ』

2023-03-25 | 道しるべ
大村はま著「新編教えるということ」(ちくま学芸文庫)をまたひらく。

最初の載っている講演「教えるということ」は、
「1970年8月富山県小学校新規採用教員研修会での講演」とあります。

大村はまは、明治39年(1906)生まれですから、
このときは、64歳でしょうか。新人教師への講演でした。

この講演での、『若さ』と『老い』を拾ってみることに。

大村先生は、こう語っておりました。

「 だれのためにもやっていません。自分が〇〇として老いないためです。」
 ( p31 注:〇〇のなかには教師が入りますが、
        ここには〇〇としておきたいのでした )

この研修会についても触れておられます。

「 若い時は集められて研修会がありますけれど、
  年をとってくれば、自分で自分を研修するのが一人前の〇〇です。 」
 ( p32)

『自分で自分・・』という箇所もありました。

「 一人前の人というのは、自分で自分のテーマを決め、
  自分で自分を鍛え、自分で自分の若さを保つ。   」(p33)

うん。大村はま先生の『研究』という言葉も忘れがたい。

「 『研究』ということから離れてしまった人というのは、
  私は、年が二十幾つであったとしても、もう年寄りだと思います。
   ・・・
  研究というのは、『伸びたい』という気持ちがたくさんあって、
  それに燃えないとできないことです。・・   」


こうして新人教師に語りかける大村はま先生を、
ちっとも読めない癖して少しでも聞いていたい。
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神戸の詩人さん。

2023-03-07 | 道しるべ
思潮社の現代詩文庫「竹中郁詩集」。
そこに載る杉山平一「竹中郁の詩」から引用。

「・・その資質もさることながら、彼が生まれ育ち、
 そこを一歩も離れることのなかった海港神戸という
 都市を抜きにすることはできない。

 海外貿易を主として成り立ったこの都市は
 早くから西洋風物が根を下ろしていた。・・・・

 白砂青松の白く明るい須磨という土地柄も
 彼の詩の明るさを育てたのではあるまいか。・・・・

 ・・美術学校への入学を反対され、関西学院の英文科に進み、
 福原清、山村順らの友人と、『海港詩人倶楽部』をつくり
 詩誌『羅針』を発行。・・・・・  」( p147~148 )


うん。これぐらいで、つぎに年譜から戦後の箇所を引用しておきます。

1945年(昭和20) 41歳
   3月17日、神戸空襲によって生家・実家ともに焼尽す。
   6月5日、朝の空襲で自家も消亡、蔵書四千冊を失う。
   12月、神戸市須磨区離宮前町77番地の家を得て入居。
   この家が終生の住居となる。

1946年(昭和21) 42歳
   4月、神港新聞社に入社。はじめて月給をもらう。
   8月、第三次「四季」再刊され参加。

1947年(昭和22) 43歳
   10月、神港新聞退社。文筆生活に入る。

1948年(昭和23) 44歳
   2月、児童詩誌「きりん」を尾崎書房から創刊して
   監修及び児童詩の選評にあたる。これが後半生の主要な仕事となる。
   7月、第七詩集「動物磁気」を尾崎書房から刊行。

1950年(昭和25) 46歳
   5月、「全日本児童詩集」を共編して尾崎書房から刊行。
   この年から大阪市立児童文化会館で「子ども詩の会」が
   毎月一回開かれ、坂本遼とともに詩の指導をおこなう。
   これは昭和55年2月まで30年間つづく。

1952年(昭和27) 48歳
   10月、「全日本児童詩集」第二集を共編してむさし書房から刊行。
                      ( p135~136 )


はい。年譜から、昭和20年~昭和27年の箇所を引用しました。
もどって、杉山平一氏の文の最後の方を引用しておわります。


「彼は校歌や社歌をかき、また井上靖、足立巻一とともに
 児童詩雑誌『きりん』を発刊し・・・

 その終始かわらぬ向日的で平明な詩風が、必然的に、
 児童に生活を見る目をひらかせる運動へおもむかせたのだ。

 『きりん』には多くのすぐれた子供の詩が掲載され、
 全国の児童詩運動に大きな成果をあげたが、

 生活に結びついた純真な子供の詩心を育てることも、
 彼の詩活動そのものであった。・・・        」(p150)
 
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