読売新聞の毎週土曜連載に、
ドナルド・キーン氏の「私と20世紀クロニクル」があります。
その最新の9月2日では文章の最後をこうしめくくっておりました。
「私に霊感を与えたウェイリーの信じられないほど素晴らしい翻訳の先例がなかったなら、果たして私は日本文学の美しさを世界に伝えるという試みに自分の生涯を捧げていたかどうかわからない。」
ここをもうすこし詳しく引用してみます。
8月26日の連載の最後で
「私はアーサー・ウェイリーから手紙を受け取った。ウェイリーによれば、右腕を骨折したため、たぶん二度と原稿を書くことは出来ないということだった。この不運に加えて、ウェイリーはロンドン大学構内にある彼の家から追い出されようとしていた。大学が構内に、コンピュータ(当時は、極めて巨大だった)を設置することにしたからだった。しかも最悪なことには・・・」
そして、連載の9月2日につながります。
「ロンドンに到着したのは、1962年2月の暗く寒い朝だった。ウェイリーのアパートの階段を上りながら、彼のような年齢の人間には階段はさぞ難儀なことだろうと思った。ウェイリーは無表情のまま私を出迎え、すぐに上の階に行こうと言った。そこにべリル・デ・ゾーテがいて、死の床に就いているのだった。・・・
私たちは黙ったまま、階下へ下りた。ウェイリーは牛肉と小牛の腎臓を煮込んだ缶詰を開け、私たちの昼食用として温めた。・・・・
これがウェイリーに会った最後だった。
その後何度か手紙を書いたが、ウェイリーから返事は無かった。・・」
アーサー・ウェイリーご自身についての文学的な説明は省きますが、
たとえば、田代慶一郎著「謡曲を読む」のあとがきで、
田代氏は「私はウェイリー訳するところの英訳謡曲数篇には深い感銘を受けた。
特に英訳『景清』を読んだときの感動は今もあざやかに覚えている。『オイディプス王』や『リア王』を連想し、日本にもこんなに優れた劇文学があるのだと思って、ひとり昂奮した。私は舞台を見たわけでもなく、謡を聞いたわけでもないのだから、それは純粋に文学的な感動と呼ぶよりほかないものだった。シェイクスピアやラシーヌのような劇詩人についてなされるような文学的分析の対象としても、謡曲は充分それに応え得る内容を持っていると思った。」
田代慶一郎著「謡曲を読む」から
「その精緻な読み方から、私はたくさんのことを教えられました」と書くのは
先頃亡くなった山村修氏でした。
その遺著ともなった「花のほかには松ばかり」(檜書店)にはこんな箇所。
「夏目漱石の小説『行人』に、父と来客たちとが謡う『景清(かげきよ)』を家の者たちがそろって聴くシーンがあり、そこに漱石が謡曲を『読む』テクスト、つまり文芸としても考えていたことをうかがわせる一節が書かれています」
そして小説の引用をしておりました。
夏目漱石といえば「吾輩は猫である」ですね。
山村修というよりも、狐さんと読んだほうがわかりやすいのですが、
その山村修=狐さんの「水曜日は狐の書評」(ちくま文庫)で
めずらしく「知ったかぶり」と称して
岩波書店の「漱石全集 第一巻 吾輩は猫である」の注解における
ワキの甘さを指摘しておりました。
「まず苦沙弥先生が便所に入るたびに『是は平の宗盛にて候』と謡うところ。注には、『謡曲【熊野(ゆや)】の冒頭でワキの宗盛が名乗る最初の句』とあるが、これは正確でない。ワキ役が貴族や勅使など身分が高い場合は『~にて候』ではなく『~なり』と偉そうに名乗る。『~にて候』と、へりくだって名乗るのは坊さんや民間人など。権力者である宗盛は『これは平の宗盛なり』と名乗るのが正しく、謡曲文もそうなっている。それを漱石はわざと違えて書くことで、苦沙弥先生の半可通ぶりを表現しているのだ。右の注では漱石のせっかくのギャグが生きてこない。
その注ではさらに『【熊野】や【松風】は初心者の稽古曲』と続けているが、これも誤り。二つとも相当に高度な曲で、初心者などお呼びでない。昔から『熊野、松風は米のめし』といわれるほどの人気曲だが、おそらく、人気曲であることを初心者向けと思い誤っているのではないか。」
さて、ここでまたドナルド・キーンさんの連載へともどりましょう。
8月26日に
「能の舞台を見るだけではおさまらず、私は謡の稽古を受けることにした。・・先生は金春流の名人、桜間道雄だった。・・私が最初に稽古したのは、『橋弁慶』だった。この作が選ばれたのは、謡いやすい上に筋が単純だったからに違いない。稽古は楽しかったが、私はもっと文学的興味に富んだ演目を覚えたいと、いつも思っていた。ある日、桜間さんに、次は私のもっと好きな演目をやっていただけませんかと頼んでみた。彼は、どれですかと尋ね、私は『熊野です』と答えた。彼は大笑いして、それではまるで幼稚園から大学までいきなり飛び級するようなものですね、と言った。・・・」
岩波の漱石全集を評した狐さんの文が日刊ゲンダイに掲載されたのが2002年5月22日です。岩波の注ぐらいの謡理解がいまもつづいていると見てさしつかえないのでしょう。
もうすこしもどって、7月29日のドナルド・キーンさんの連載を拾ってみますと、
1957年に東京で開催された国際ペンクラブ大会のことが書かれております。
アメリカ代表にはジョン・スタインベック、ラルフ・エリソン、ジョン・ドス・パソス、ジョン・ハーシーがいた。そして英国代表には、スティーブン・スペンダー、アンガス・ウィルソン、カサリン・レイがいた。とあります。
「ペン大会は、私にとって作家の世界への正式な仲間入りだった。・・一緒に朝食を食べた。朝食の席で交わされた皆の会話には、がっかりした。ほとんどの代表にとってこれが初めての日本訪問であったにもかかわらず、前もって日本文化に親しむという準備を怠っていたようだった。彼らは、自分が理解出来ないものは嘲笑う傾向があった。
全員を感動させた唯一の文化的行事は、能の上演だった。ところが上演が終了するや、記者たちはそれぞれの代表を取り巻き、『さぞ、退屈なさったでしょう』と質問するのだった。自分たちにとって退屈極まる芸術が、まさか外国人にわかるなどとは想像も出来ないのだった。」
ドナルド・キーン氏の「私と20世紀クロニクル」があります。
その最新の9月2日では文章の最後をこうしめくくっておりました。
「私に霊感を与えたウェイリーの信じられないほど素晴らしい翻訳の先例がなかったなら、果たして私は日本文学の美しさを世界に伝えるという試みに自分の生涯を捧げていたかどうかわからない。」
ここをもうすこし詳しく引用してみます。
8月26日の連載の最後で
「私はアーサー・ウェイリーから手紙を受け取った。ウェイリーによれば、右腕を骨折したため、たぶん二度と原稿を書くことは出来ないということだった。この不運に加えて、ウェイリーはロンドン大学構内にある彼の家から追い出されようとしていた。大学が構内に、コンピュータ(当時は、極めて巨大だった)を設置することにしたからだった。しかも最悪なことには・・・」
そして、連載の9月2日につながります。
「ロンドンに到着したのは、1962年2月の暗く寒い朝だった。ウェイリーのアパートの階段を上りながら、彼のような年齢の人間には階段はさぞ難儀なことだろうと思った。ウェイリーは無表情のまま私を出迎え、すぐに上の階に行こうと言った。そこにべリル・デ・ゾーテがいて、死の床に就いているのだった。・・・
私たちは黙ったまま、階下へ下りた。ウェイリーは牛肉と小牛の腎臓を煮込んだ缶詰を開け、私たちの昼食用として温めた。・・・・
これがウェイリーに会った最後だった。
その後何度か手紙を書いたが、ウェイリーから返事は無かった。・・」
アーサー・ウェイリーご自身についての文学的な説明は省きますが、
たとえば、田代慶一郎著「謡曲を読む」のあとがきで、
田代氏は「私はウェイリー訳するところの英訳謡曲数篇には深い感銘を受けた。
特に英訳『景清』を読んだときの感動は今もあざやかに覚えている。『オイディプス王』や『リア王』を連想し、日本にもこんなに優れた劇文学があるのだと思って、ひとり昂奮した。私は舞台を見たわけでもなく、謡を聞いたわけでもないのだから、それは純粋に文学的な感動と呼ぶよりほかないものだった。シェイクスピアやラシーヌのような劇詩人についてなされるような文学的分析の対象としても、謡曲は充分それに応え得る内容を持っていると思った。」
田代慶一郎著「謡曲を読む」から
「その精緻な読み方から、私はたくさんのことを教えられました」と書くのは
先頃亡くなった山村修氏でした。
その遺著ともなった「花のほかには松ばかり」(檜書店)にはこんな箇所。
「夏目漱石の小説『行人』に、父と来客たちとが謡う『景清(かげきよ)』を家の者たちがそろって聴くシーンがあり、そこに漱石が謡曲を『読む』テクスト、つまり文芸としても考えていたことをうかがわせる一節が書かれています」
そして小説の引用をしておりました。
夏目漱石といえば「吾輩は猫である」ですね。
山村修というよりも、狐さんと読んだほうがわかりやすいのですが、
その山村修=狐さんの「水曜日は狐の書評」(ちくま文庫)で
めずらしく「知ったかぶり」と称して
岩波書店の「漱石全集 第一巻 吾輩は猫である」の注解における
ワキの甘さを指摘しておりました。
「まず苦沙弥先生が便所に入るたびに『是は平の宗盛にて候』と謡うところ。注には、『謡曲【熊野(ゆや)】の冒頭でワキの宗盛が名乗る最初の句』とあるが、これは正確でない。ワキ役が貴族や勅使など身分が高い場合は『~にて候』ではなく『~なり』と偉そうに名乗る。『~にて候』と、へりくだって名乗るのは坊さんや民間人など。権力者である宗盛は『これは平の宗盛なり』と名乗るのが正しく、謡曲文もそうなっている。それを漱石はわざと違えて書くことで、苦沙弥先生の半可通ぶりを表現しているのだ。右の注では漱石のせっかくのギャグが生きてこない。
その注ではさらに『【熊野】や【松風】は初心者の稽古曲』と続けているが、これも誤り。二つとも相当に高度な曲で、初心者などお呼びでない。昔から『熊野、松風は米のめし』といわれるほどの人気曲だが、おそらく、人気曲であることを初心者向けと思い誤っているのではないか。」
さて、ここでまたドナルド・キーンさんの連載へともどりましょう。
8月26日に
「能の舞台を見るだけではおさまらず、私は謡の稽古を受けることにした。・・先生は金春流の名人、桜間道雄だった。・・私が最初に稽古したのは、『橋弁慶』だった。この作が選ばれたのは、謡いやすい上に筋が単純だったからに違いない。稽古は楽しかったが、私はもっと文学的興味に富んだ演目を覚えたいと、いつも思っていた。ある日、桜間さんに、次は私のもっと好きな演目をやっていただけませんかと頼んでみた。彼は、どれですかと尋ね、私は『熊野です』と答えた。彼は大笑いして、それではまるで幼稚園から大学までいきなり飛び級するようなものですね、と言った。・・・」
岩波の漱石全集を評した狐さんの文が日刊ゲンダイに掲載されたのが2002年5月22日です。岩波の注ぐらいの謡理解がいまもつづいていると見てさしつかえないのでしょう。
もうすこしもどって、7月29日のドナルド・キーンさんの連載を拾ってみますと、
1957年に東京で開催された国際ペンクラブ大会のことが書かれております。
アメリカ代表にはジョン・スタインベック、ラルフ・エリソン、ジョン・ドス・パソス、ジョン・ハーシーがいた。そして英国代表には、スティーブン・スペンダー、アンガス・ウィルソン、カサリン・レイがいた。とあります。
「ペン大会は、私にとって作家の世界への正式な仲間入りだった。・・一緒に朝食を食べた。朝食の席で交わされた皆の会話には、がっかりした。ほとんどの代表にとってこれが初めての日本訪問であったにもかかわらず、前もって日本文化に親しむという準備を怠っていたようだった。彼らは、自分が理解出来ないものは嘲笑う傾向があった。
全員を感動させた唯一の文化的行事は、能の上演だった。ところが上演が終了するや、記者たちはそれぞれの代表を取り巻き、『さぞ、退屈なさったでしょう』と質問するのだった。自分たちにとって退屈極まる芸術が、まさか外国人にわかるなどとは想像も出来ないのだった。」