沼波瓊音の本を読みたいと思っていたのです。もっとも、
いつも、思っていて「読みたい」だけで終る私です(笑)。
けれども、今回は違いました。ありがたいことに、
沼波瓊音著「柳樽評釈」のレビューを読むことができました。
伊藤正雄著「忘れ得ぬ国文学者たち」のレビューも読めた。
どちらも、さいわい本が手元にありました。
これは、いい機会だと思って「柳樽評釈」を、最後まで読んでみました。
途中まで線をひいてあるので、購入した時に、すこしチャレンジしてみた
形跡があります。それで歯が立たなくて、そのままになっていた本でした。
今度読み直したら、これが楽しい読書になったのです。
読み終わると、評釈の味わいがみごとなのです。
内容の紹介が主なので、でしゃばらない様な評釈なのですが、
読了すると、微妙なその感じが、的確に全体を包んでいるのがよく伝わります。
それは沼波瓊音の主張が、静かに基調音として聞き取れる魅力。
たとえば、こんな言葉が拾えます。
「をかしいと云へばをかしい、気の毒と思へば気の毒。かう云ふ句が名句である。
川柳と云ふもの決して冗談では無いのである。」(p35)
「川柳にある斯う云ふ動物の写生は、頗(すこぶ)る特色があつて面白い。」(P41)
「まことに詩である。風俗詩である。」(p52)
「よく云ひおほせ、よく写しおほせてある。」(p56)
「人口に膾炙してる句で、しかも名句である。」(p60)
「これがどこが面白い、と云ふ人のありそうな句で、そして妙句である。」(p62)
「これも命の無い机上作である。」
この机上の句というのが、悪い見本としての評価のようです。
「机上の句だなァ。」(p162)「一向力の無い詰まらぬ句。」(p174)
「云ひ方も低いし、作りつけたような句。」(p199)
その机上に対して
「実地の句で、面白い句である。」(p175)
「私は電車で芝を通る時、いつもこの句を思ひ出す。」(p246)
「非常に面白い句である。・・川柳を浅い可笑味とか諷刺とかに限るやうに思ふ人は、斯う云ふ句の味を知らないのである。」(p115)
すこしは、川柳の紹介もしておきましょう。
本の最初のほうに、ありました。
古郷(ふるさと)へ廻る六部は気の弱り
藤沢周平のエッセイ集に、
題して「ふるさとへ廻る六部は」(新潮文庫)というのがありました。
広辞林によれば、六部とは六十六部のことで
「六十六部の法華経を書写し、日本六十六か国を遍歴して、その霊場に各一部ずつを納めて歩く行脚僧」または「後世、鉦をたたき、鈴を振り、あるいは厨子入りの仏像を背負いなどして、米や銭を請い歩く巡礼。回国。六部。」とあります。
それでは、沼波瓊音の評釈をもってきます。
「なんだか心細くなつて、急に郷里恋しくなり、まだ予定の巡拝は仕舞へぬが、この追分から、連に別れて郷里を指す。自分で鳴らす鉦(かね)もいつもより哀れに、空うす暗く、烏黙つて飛ぶ。自宅(うち)の様子がありありと頭に浮ぶ。」(P13)
つぎに川柳をもう一つ。
投入(なげいれ)の干からびて居る間(あひ)の宿
この沼波瓊音の評釈は、というと
「今でも徒歩旅行して、小さい村を通ると、斯うした光景がある。
ひしやけたやうな家が並んでゐる。此の家のかげに六部がしやがんで休んでゐる。・・・奥の座敷が外からも見える。そこの床柱に竹の花筒がかかつて、それに野菊が投入れてあるが、いつ活けたのやら、バサバサに干からびて、花弁が粉薬(こぐすり)のやうにそこらに散らばつてゐる。」(p23)
ここから、私は田中冬二の詩を思い浮べるのでした。
そういえば、冬二氏も旅先での詩が多くあります。
たとえば、川柳にあった「投入れ」という言葉からの連想。
虹 田中冬二
夜半 雨をきいた朝
裏二階の窓をあけると
山の傾斜地の林檎園の上に
うつくしき虹
投げ入れへ夏蕎麦の花と芒と
台所の冷蔵庫の中
麦酒壜のレッテルは濡れておちてゐる
ちなみに
「投入れ・・・挿花の一法。一枝二枝無造作に挿したるを云う。」
と、沼波氏の注にあります。
今回。この本を読んで印象に残った川柳は
塩引(しほびき)の切残されて長閑(のどか)なり
これの評釈を読んでいたら、高橋由一の絵画「鮭」を思い浮べました。
では、評釈を引用します。
「歳暮に貰つた塩鮭が、台所にぶら下げてある。それを段々切つて食べた。もう残りが少うしになつて、頭のした五分程になつた。もうその頃は二月の末、春漸く闌(たけなわ)ならむとする時である。『切残されて』と云つて、もうあと少しに切残されて、と云ふ意を利かせてある。語そのものによりてのみ解かうと思ふと、わからなくなる。『長閑なり』と云つて、台所の春の景及び情になつてる所、名句である。」
ところで、日本美術史で、近代絵画として、明治に高橋由一の「鮭」というのが、よく絵入りで載っております。わきに黒田清輝の「読書」とか浅井忠とかの絵が並んでいたりします。ちょいと他の洋画と異質な感じをうける絵です。
縦長の長方形に鮭が縄を口から延ばして吊るしてある、生活のなかの画材を取り扱っております。
これについてのみごとな解説としては
菊畑茂久馬著「絵かきが語る近代美術」(弦書房)
副題が「高橋由一からフジタまで」という本の第1章を高橋由一に割いて、実地に絵を見て、深く理解が行き届いて、素敵な発見があるのでした。
いつも、思っていて「読みたい」だけで終る私です(笑)。
けれども、今回は違いました。ありがたいことに、
沼波瓊音著「柳樽評釈」のレビューを読むことができました。
伊藤正雄著「忘れ得ぬ国文学者たち」のレビューも読めた。
どちらも、さいわい本が手元にありました。
これは、いい機会だと思って「柳樽評釈」を、最後まで読んでみました。
途中まで線をひいてあるので、購入した時に、すこしチャレンジしてみた
形跡があります。それで歯が立たなくて、そのままになっていた本でした。
今度読み直したら、これが楽しい読書になったのです。
読み終わると、評釈の味わいがみごとなのです。
内容の紹介が主なので、でしゃばらない様な評釈なのですが、
読了すると、微妙なその感じが、的確に全体を包んでいるのがよく伝わります。
それは沼波瓊音の主張が、静かに基調音として聞き取れる魅力。
たとえば、こんな言葉が拾えます。
「をかしいと云へばをかしい、気の毒と思へば気の毒。かう云ふ句が名句である。
川柳と云ふもの決して冗談では無いのである。」(p35)
「川柳にある斯う云ふ動物の写生は、頗(すこぶ)る特色があつて面白い。」(P41)
「まことに詩である。風俗詩である。」(p52)
「よく云ひおほせ、よく写しおほせてある。」(p56)
「人口に膾炙してる句で、しかも名句である。」(p60)
「これがどこが面白い、と云ふ人のありそうな句で、そして妙句である。」(p62)
「これも命の無い机上作である。」
この机上の句というのが、悪い見本としての評価のようです。
「机上の句だなァ。」(p162)「一向力の無い詰まらぬ句。」(p174)
「云ひ方も低いし、作りつけたような句。」(p199)
その机上に対して
「実地の句で、面白い句である。」(p175)
「私は電車で芝を通る時、いつもこの句を思ひ出す。」(p246)
「非常に面白い句である。・・川柳を浅い可笑味とか諷刺とかに限るやうに思ふ人は、斯う云ふ句の味を知らないのである。」(p115)
すこしは、川柳の紹介もしておきましょう。
本の最初のほうに、ありました。
古郷(ふるさと)へ廻る六部は気の弱り
藤沢周平のエッセイ集に、
題して「ふるさとへ廻る六部は」(新潮文庫)というのがありました。
広辞林によれば、六部とは六十六部のことで
「六十六部の法華経を書写し、日本六十六か国を遍歴して、その霊場に各一部ずつを納めて歩く行脚僧」または「後世、鉦をたたき、鈴を振り、あるいは厨子入りの仏像を背負いなどして、米や銭を請い歩く巡礼。回国。六部。」とあります。
それでは、沼波瓊音の評釈をもってきます。
「なんだか心細くなつて、急に郷里恋しくなり、まだ予定の巡拝は仕舞へぬが、この追分から、連に別れて郷里を指す。自分で鳴らす鉦(かね)もいつもより哀れに、空うす暗く、烏黙つて飛ぶ。自宅(うち)の様子がありありと頭に浮ぶ。」(P13)
つぎに川柳をもう一つ。
投入(なげいれ)の干からびて居る間(あひ)の宿
この沼波瓊音の評釈は、というと
「今でも徒歩旅行して、小さい村を通ると、斯うした光景がある。
ひしやけたやうな家が並んでゐる。此の家のかげに六部がしやがんで休んでゐる。・・・奥の座敷が外からも見える。そこの床柱に竹の花筒がかかつて、それに野菊が投入れてあるが、いつ活けたのやら、バサバサに干からびて、花弁が粉薬(こぐすり)のやうにそこらに散らばつてゐる。」(p23)
ここから、私は田中冬二の詩を思い浮べるのでした。
そういえば、冬二氏も旅先での詩が多くあります。
たとえば、川柳にあった「投入れ」という言葉からの連想。
虹 田中冬二
夜半 雨をきいた朝
裏二階の窓をあけると
山の傾斜地の林檎園の上に
うつくしき虹
投げ入れへ夏蕎麦の花と芒と
台所の冷蔵庫の中
麦酒壜のレッテルは濡れておちてゐる
ちなみに
「投入れ・・・挿花の一法。一枝二枝無造作に挿したるを云う。」
と、沼波氏の注にあります。
今回。この本を読んで印象に残った川柳は
塩引(しほびき)の切残されて長閑(のどか)なり
これの評釈を読んでいたら、高橋由一の絵画「鮭」を思い浮べました。
では、評釈を引用します。
「歳暮に貰つた塩鮭が、台所にぶら下げてある。それを段々切つて食べた。もう残りが少うしになつて、頭のした五分程になつた。もうその頃は二月の末、春漸く闌(たけなわ)ならむとする時である。『切残されて』と云つて、もうあと少しに切残されて、と云ふ意を利かせてある。語そのものによりてのみ解かうと思ふと、わからなくなる。『長閑なり』と云つて、台所の春の景及び情になつてる所、名句である。」
ところで、日本美術史で、近代絵画として、明治に高橋由一の「鮭」というのが、よく絵入りで載っております。わきに黒田清輝の「読書」とか浅井忠とかの絵が並んでいたりします。ちょいと他の洋画と異質な感じをうける絵です。
縦長の長方形に鮭が縄を口から延ばして吊るしてある、生活のなかの画材を取り扱っております。
これについてのみごとな解説としては
菊畑茂久馬著「絵かきが語る近代美術」(弦書房)
副題が「高橋由一からフジタまで」という本の第1章を高橋由一に割いて、実地に絵を見て、深く理解が行き届いて、素敵な発見があるのでした。