和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

近代美術の水先案内人。

2006-09-27 | Weblog
沼波瓊音著「柳樽評釈」を読んだのでした。
そこで、柳樽とは、いったいどんなものだとうという疑問にも答えが載っておりました。

「柳樽は柄の付きたる樽にて朱塗りなどにしたり。酒を人に贈る時に用ふ。もとは柳の木にて作りたる故この称あるなり。婚礼の結納の時これを贈る目録に家内喜多留(やなぎだる)と記す。今も目録に記すだけはこれを記す。」
これはある川柳の注として記してあります。
その川柳は
   家内喜多留小さい恋は蹴散らかし


ところで、沼波瓊音著「徒然草講話」を読んでいるのですが、こうして手ごたえがある本を前にすると私は、ソワソワしだして、なかなか先へと読み進めることができません。ああ、私は読書家じゃないタイプだなあと、つくづく思います。先へと読み進めない癖して、本を閉じると、気分が拡散して他の本へと気が散るのでした。
まあ、それはそれとして、徒然草に「久米(くめ)の仙人」が登場する箇所があります。
その評として沼波瓊音は、
「・・むだ話になるが、徒然草の中にある話は、柳樽に多く詠まれて居る。
この久米仙人も盛に材料にされてる。私の記憶してるらのの中では

    仙人さまアと濡手で抱きおこし

と云うのが最も面白いと思ふ。」
こんな風になにげなく「柳樽」が出てきたりします。

その柳樽にあった
  塩引(しおびき)の切残されて長閑(のどか)なり
これを「名句である」とする沼波瓊音の評釈は、この前に引用しました。
注としては「塩漬にした魚類をすべて云ふ語なれど、普通塩引とのみいへば塩引の鮭のことなり。ここも然り。」
とあります。ここから、そういえばというので
鮭の絵として知られる高橋由一を連想し
私は菊畑茂久馬著「絵かきが語る近代美術」(弦書房)を読んだのでした。
この菊畑の本は山村修著「狐が選んだ入門書」で紹介されておりました。
ちなみに、洲之内徹著「気まぐれ美術館」には「もうひとりの鮭の画家」という文がありました。

最近出版された青木茂著「書痴、戦時下の美術書を読む」(平凡社)を開いたら、
その菊畑さんの本を読んだ感想が書かれております。
「絵かきらしく事実と喰いちがっているところもあるが、菊畑氏の心情では歴史的事実なのである。事実だけを羅列して心情的事実を無視するから、美術史の叙述が面白くないのである。・・私は夕暮れに読みはじめ、考え考え読み通して倒れた。『日本美術の社会史』とともに近来の快著と思う。」(p148)

ちなみに、狐さんはどう評していたか、
「高橋由一の章や、この戦争画の章のほか、フェノロサをきびしく断罪してはばからない章などにも、菊畑茂久馬の身にひそむ思想のしぶとい力が、さながら皮膚の下に筋肉がグリグリと動くようにはっきりと見えます。力強い入門書です。」(p205)

ところで、青木茂氏の、その本の最初は「収書と散書」という4頁ほどの文でした。
そこに
「新本屋で本など買えない。発刊されて十年たって尚いくらか魅力のある図書だけが読む価値があると、三十ごろから思ってきたので、買うのはもっぱら古本である。」とありました。もっぱら新刊に目がいく自分が、場違いな雰囲気にもぐりこんだ気分になるのでした。

青木茂氏の本の最後の著者紹介はというと。

「1932年岐阜県生まれ。早稲田大学卒業。東京芸術大学図書館・学芸資料館、神奈川県立近代美術館、跡見学園女子大学、町田市立国際版画美術館館長を経て、現在、文星芸術大学教授。明治美術学会会長。高橋由一研究の第一人者。・・・」
とあります。


コメント (2)
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