和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

日章旗。

2008-04-08 | Weblog
電磁石というのは、電気が通じている時だけ磁石として機能します。私の興味も、電磁石のようなものだと思う時があります。あっというまに、電流が流れなくなると、興味という磁力が切れる。さしあたり、私のは微弱電磁石。
それでも、身近に砂鉄がついてきます。最近はありがたいことに、ネット上で、簡単に古本が購入できるようになり、吸い寄せられる本の範囲がぐんと広がりました。でもね、私のは、すぐに切れます(笑)。


司馬遼太郎著「街道をゆく 39」の「ニューヨーク散歩」に、角田柳作先生をとりあげた箇所があります。それにつられてドナルド・キーン著「日本との出会い」「日本を理解するまで」「日本文学のなかへ」と、角田先生が出てくる本を読んでみたことがあります。
ここでは司馬さんの「街道をゆく」から、角田先生を引用してみましょう。

「角田柳作先生は、ハドソン川に架かるジョージ・ワシントン橋のほとりにひとり住んでいた。太平洋戦争の開戦とともに抑留され、二、三カ月後に裁判をうけた。『あなたは、あの橋を爆破するつもりだったのか、それともそうではなかったのか』というたぐいの愚問を、裁判官が発したそうである。日本人はなにをするかわからないとおもわれていたのである。小柄な老明治人は、愚問に対し、永年住まわせてくれたアメリカへの義理を感じている旨のことを語った。またアメリカへの責任についても語った。おそらくその英語は、キーン学生がひそかに、〈詩的〉とおもっていた明治風の発音だったろう。裁判官は老人のふしぎなことばと誠意にうたれ、最後に、『あなたは詩人か』と問うたという。・・・戦後、キーンさんは大学にもどって、ふたたび角田先生の講義をきいた。」

ここで、話をかえます。
山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」に窪田空穂「現代文の鑑賞と批評」が紹介されておりました。これちょっと古本でも手に入らないので、図書館から窪田空穂全集第11巻をかりてきて読んだというわけです。その箇所も大変に参考になったのですが、この第11巻のほかの箇所が、私にはもっと興味深かったのです(まだ読んでいるところなのですが)。そこに佐々木指月(しげつ)という人が取り上げられておりました。

さてっと。
角田柳作は、明治10(1877)年生まれ。
窪田空穂も、明治10年生まれ。
佐々木指月は、明治15年生まれ。

角田柳作は、明治の東京専門学校(早稲田大学の前身)の出身だった。在学中、坪内逍遥の講義をきいた。と司馬さんは書いております。
早稲田大学といえば、窪田空穂はこう書いておりました「私は晩学の者で、再び学生生活をしようと思ひ立つた時はすでに数へ年二十四になつてゐた。学んだ所は私学早稲田で、早稲田大学と改称する一年前で、現在とは較ぶべきもない微力な時代であつた。中小教員の資格を得て学校は出たが、府下の中小学校では、特別の関係でもない限り、私学出の私などを雇はうとするところはなかつた・・・」(全集第11巻・p161)ちなみに、窪田空穂全集第11巻の、近代作家論は坪内逍遥からはじまっております。

その時代に窪田空穂は佐々木指月と会っておりました。
さて、窪田の文に、戦争中の佐々木の消息を書いた箇所がありました。

「私は久松潜一氏の筆になる一文を読んでゆくと、その中に佐々木指月の名を発見した。その文章の前後の関係から、彼の名がそこに現れた理由も経路も知ることを得た。アメリカ政府は、日本と戦争状態に入ると共に、かの地にいる日本人の全部をもれなく調査し、その一人一人を対象として、アメリカ政府に対して忠誠を誓うか否かを糾明した。その方法は、単に口頭だけのものではなく、日本の国旗を目標として発砲させたのである。佐々木指月も糾明されるうちにいた一人であった。彼は発砲目標となっている日章旗を目にしての糾明の場に立たされると、頑として査問をこばんだ。こばむことは敵意を抱いていることで、同時に捕虜とされることである。指月は鉄条網で囲んだ内の、監視兵の立っている営舎に移されたのである。」(全集11巻。p237)

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