窪田空穂全集第11巻を、図書館に返す前に、とにかく書き写しておける箇所は、書いておこうと思っているのですが、写していると取りこぼしのほうがおおくなってゆく感じがしております。
短文にも味わいがあり、捨てがたいのでした。森鴎外・折口信夫・正岡子規とどれも、短い作家紹介として短い文ながら鮮やかなのでした。ここには折口信夫を引用しておこうと思います。
それは「宮中御歌会での選者としての態度」と副題があります。
「(昭和)二十七年度の場合です。私にも、どうにも捨てかねると思われる歌がありましたが、その歌はいずれも他の選者の選には入っていないものでした。私は並んでいる折口さんに、『折口さん、どうでしょうこの歌は。私には良いものに思われるのですがね』折口さんは眼を凝らしてじっとその歌に見入っていた。そしてしばらくして、『そうですね、なおしゃ取れますかね。選者はそういう権利を与えられているものですからねえ』そう言って折口さんは、鉛筆で加筆をしました。その歌は一首一句の歌で、調子の柔らかい歌であって、全体には清新味がありました。私の心ひかれたのはその清新味だったのですが、加筆というようなことは思わせもしない歌でした。折口さんの加筆は、三、四句の言葉続きの上で、言葉の位置をちょっと変え、従って助詞の、多分二字くらいを変えたに過ぎないのでありましたが、一首全体として見ると、柔らかい調子に伴いやすい或る厭味が消えて、すっきりとした、品のあるものに変ったのでした。これは事の現われとしてはいささかなものですが、しかしその背後にある折口さんの感性の鋭さ、鑑賞力、表現技巧の鍛錬につらなっていることで、それらが相伴って働かない限り、決してできることではないのです。」
こうして余談を語ったあとに、次の二十八年度の入選歌選定の日のことを語るのでした。
「私が最後の予選にまで取った歌で、他の一選者から文法上の誤りがあると注意書きの添っているものがあたのです。これが問題となりました。折口さんはその歌を見ていましたが、断固とした口調で言いました。『捨てましょう。悪い歌じゃないが、なおさなきゃならない。なおし過ぎるのは作者に失礼だから』折口さんの妥協には限界があって、それは相当窮屈なもので、ある一線以上は、一分一厘も超えないことを示したものでした。当然なことではるが、根強い潔癖を思わせるものでした。・・・
すぐれた短歌作者も得がたいものですが、すぐれた短歌選者はさらに得がたいのです。折口さんという人はその得がたい選者であったと、今も思い出して敬服の念をあらたにしています。」(昭和31年「折口信夫全集」月報)(全集ではp337~338)
これくらいで、全集第11巻の引用は終わりにしましょう。
ああそうそう、この本には月報も糊付けされて挟み込まれておりまして読めるのでした。せっかくだから、その空穂談話Ⅱから、すこし引用しておきます。
記者が「『抒情詩』という、独歩、花袋たちの合同詩集がありましたね」と質問すると空穂氏は「・・だれが大将っていうことがなく、読んでみて一番うまかったのは柳田國男さん。不思議なものだ、島崎藤村の詩集が出てきて、読むと、藤村の詩の調子が柳田さんの詩にじつに酷似している。あの人はそういう人だ。とり入れることがじつに上手だ。それが詩の方面の話。・・・当時は、外国文学がじつにさかんで、文学といえばヨーロッパの文学、ことにイギリス文学が重んじられて、日本の文学をじつに軽く扱っていた時代だ。第一に、日本文学史のなかに、謡曲が入っていない。平家物語などはなにか文学でないように見られていた、そういった時代。」
「現在ほど歌が軽くみられる時代は、知っている範囲ではなかった。二十代からずっと見てきているわけだが、そのころは、歌というものは、もっと重く扱われてきていた。ところが、歌にはいまいった年代を超えるところがある。古い歌を読んでみておもしろい。万葉集の歌を見て、いまおもしろさを感ずる。それとおなじことで、いまのいい歌は将来になっても消えない。いまはやっている小説よりも、おそらくもっと生命は長い。(昭和39年8月、ききて、編集部 冨士田元彦)」
短文にも味わいがあり、捨てがたいのでした。森鴎外・折口信夫・正岡子規とどれも、短い作家紹介として短い文ながら鮮やかなのでした。ここには折口信夫を引用しておこうと思います。
それは「宮中御歌会での選者としての態度」と副題があります。
「(昭和)二十七年度の場合です。私にも、どうにも捨てかねると思われる歌がありましたが、その歌はいずれも他の選者の選には入っていないものでした。私は並んでいる折口さんに、『折口さん、どうでしょうこの歌は。私には良いものに思われるのですがね』折口さんは眼を凝らしてじっとその歌に見入っていた。そしてしばらくして、『そうですね、なおしゃ取れますかね。選者はそういう権利を与えられているものですからねえ』そう言って折口さんは、鉛筆で加筆をしました。その歌は一首一句の歌で、調子の柔らかい歌であって、全体には清新味がありました。私の心ひかれたのはその清新味だったのですが、加筆というようなことは思わせもしない歌でした。折口さんの加筆は、三、四句の言葉続きの上で、言葉の位置をちょっと変え、従って助詞の、多分二字くらいを変えたに過ぎないのでありましたが、一首全体として見ると、柔らかい調子に伴いやすい或る厭味が消えて、すっきりとした、品のあるものに変ったのでした。これは事の現われとしてはいささかなものですが、しかしその背後にある折口さんの感性の鋭さ、鑑賞力、表現技巧の鍛錬につらなっていることで、それらが相伴って働かない限り、決してできることではないのです。」
こうして余談を語ったあとに、次の二十八年度の入選歌選定の日のことを語るのでした。
「私が最後の予選にまで取った歌で、他の一選者から文法上の誤りがあると注意書きの添っているものがあたのです。これが問題となりました。折口さんはその歌を見ていましたが、断固とした口調で言いました。『捨てましょう。悪い歌じゃないが、なおさなきゃならない。なおし過ぎるのは作者に失礼だから』折口さんの妥協には限界があって、それは相当窮屈なもので、ある一線以上は、一分一厘も超えないことを示したものでした。当然なことではるが、根強い潔癖を思わせるものでした。・・・
すぐれた短歌作者も得がたいものですが、すぐれた短歌選者はさらに得がたいのです。折口さんという人はその得がたい選者であったと、今も思い出して敬服の念をあらたにしています。」(昭和31年「折口信夫全集」月報)(全集ではp337~338)
これくらいで、全集第11巻の引用は終わりにしましょう。
ああそうそう、この本には月報も糊付けされて挟み込まれておりまして読めるのでした。せっかくだから、その空穂談話Ⅱから、すこし引用しておきます。
記者が「『抒情詩』という、独歩、花袋たちの合同詩集がありましたね」と質問すると空穂氏は「・・だれが大将っていうことがなく、読んでみて一番うまかったのは柳田國男さん。不思議なものだ、島崎藤村の詩集が出てきて、読むと、藤村の詩の調子が柳田さんの詩にじつに酷似している。あの人はそういう人だ。とり入れることがじつに上手だ。それが詩の方面の話。・・・当時は、外国文学がじつにさかんで、文学といえばヨーロッパの文学、ことにイギリス文学が重んじられて、日本の文学をじつに軽く扱っていた時代だ。第一に、日本文学史のなかに、謡曲が入っていない。平家物語などはなにか文学でないように見られていた、そういった時代。」
「現在ほど歌が軽くみられる時代は、知っている範囲ではなかった。二十代からずっと見てきているわけだが、そのころは、歌というものは、もっと重く扱われてきていた。ところが、歌にはいまいった年代を超えるところがある。古い歌を読んでみておもしろい。万葉集の歌を見て、いまおもしろさを感ずる。それとおなじことで、いまのいい歌は将来になっても消えない。いまはやっている小説よりも、おそらくもっと生命は長い。(昭和39年8月、ききて、編集部 冨士田元彦)」