和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

捨てましょう。

2008-04-13 | Weblog
窪田空穂全集第11巻を、図書館に返す前に、とにかく書き写しておける箇所は、書いておこうと思っているのですが、写していると取りこぼしのほうがおおくなってゆく感じがしております。
短文にも味わいがあり、捨てがたいのでした。森鴎外・折口信夫・正岡子規とどれも、短い作家紹介として短い文ながら鮮やかなのでした。ここには折口信夫を引用しておこうと思います。

それは「宮中御歌会での選者としての態度」と副題があります。
「(昭和)二十七年度の場合です。私にも、どうにも捨てかねると思われる歌がありましたが、その歌はいずれも他の選者の選には入っていないものでした。私は並んでいる折口さんに、『折口さん、どうでしょうこの歌は。私には良いものに思われるのですがね』折口さんは眼を凝らしてじっとその歌に見入っていた。そしてしばらくして、『そうですね、なおしゃ取れますかね。選者はそういう権利を与えられているものですからねえ』そう言って折口さんは、鉛筆で加筆をしました。その歌は一首一句の歌で、調子の柔らかい歌であって、全体には清新味がありました。私の心ひかれたのはその清新味だったのですが、加筆というようなことは思わせもしない歌でした。折口さんの加筆は、三、四句の言葉続きの上で、言葉の位置をちょっと変え、従って助詞の、多分二字くらいを変えたに過ぎないのでありましたが、一首全体として見ると、柔らかい調子に伴いやすい或る厭味が消えて、すっきりとした、品のあるものに変ったのでした。これは事の現われとしてはいささかなものですが、しかしその背後にある折口さんの感性の鋭さ、鑑賞力、表現技巧の鍛錬につらなっていることで、それらが相伴って働かない限り、決してできることではないのです。」
こうして余談を語ったあとに、次の二十八年度の入選歌選定の日のことを語るのでした。
「私が最後の予選にまで取った歌で、他の一選者から文法上の誤りがあると注意書きの添っているものがあたのです。これが問題となりました。折口さんはその歌を見ていましたが、断固とした口調で言いました。『捨てましょう。悪い歌じゃないが、なおさなきゃならない。なおし過ぎるのは作者に失礼だから』折口さんの妥協には限界があって、それは相当窮屈なもので、ある一線以上は、一分一厘も超えないことを示したものでした。当然なことではるが、根強い潔癖を思わせるものでした。・・・
すぐれた短歌作者も得がたいものですが、すぐれた短歌選者はさらに得がたいのです。折口さんという人はその得がたい選者であったと、今も思い出して敬服の念をあらたにしています。」(昭和31年「折口信夫全集」月報)(全集ではp337~338)


これくらいで、全集第11巻の引用は終わりにしましょう。
ああそうそう、この本には月報も糊付けされて挟み込まれておりまして読めるのでした。せっかくだから、その空穂談話Ⅱから、すこし引用しておきます。

記者が「『抒情詩』という、独歩、花袋たちの合同詩集がありましたね」と質問すると空穂氏は「・・だれが大将っていうことがなく、読んでみて一番うまかったのは柳田國男さん。不思議なものだ、島崎藤村の詩集が出てきて、読むと、藤村の詩の調子が柳田さんの詩にじつに酷似している。あの人はそういう人だ。とり入れることがじつに上手だ。それが詩の方面の話。・・・当時は、外国文学がじつにさかんで、文学といえばヨーロッパの文学、ことにイギリス文学が重んじられて、日本の文学をじつに軽く扱っていた時代だ。第一に、日本文学史のなかに、謡曲が入っていない。平家物語などはなにか文学でないように見られていた、そういった時代。」
「現在ほど歌が軽くみられる時代は、知っている範囲ではなかった。二十代からずっと見てきているわけだが、そのころは、歌というものは、もっと重く扱われてきていた。ところが、歌にはいまいった年代を超えるところがある。古い歌を読んでみておもしろい。万葉集の歌を見て、いまおもしろさを感ずる。それとおなじことで、いまのいい歌は将来になっても消えない。いまはやっている小説よりも、おそらくもっと生命は長い。(昭和39年8月、ききて、編集部 冨士田元彦)」
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千姿万態。

2008-04-13 | Weblog
窪田空穂の「現代文の鑑賞と批評」のあとがきも引用しておきましょう。

「真実をねらひとして起つた口語体である。時代が要求してゐるほどのものはこの文体が満たし得べきである。口語体の文体は、説明には適してゐるが、抒情には適さなかつた。軽快はあつても荘重味は持たせられなかつた。強ひて持たせようとすると、不自然な、厭味なものになりがちであつた。又、明快はあつても、抒情には適さなかつた。これも、強ひてすると、不自然な、厭味なものになつた。自由詩といふ形を選んだ詩の作者の悩みは、そこにあつた。しかしこれらも、作者と読者とが、次第に馴れ、次第に歩み寄つて、今では、荘重味も抒情味も、或程度の自然は持ち得てゐるやうに見える。
又、現代の生活気分は急迫してゐる。急迫した雰囲気のなかに生活してゐると、人は急迫に馴れて、親しんで、文章も急迫してゐないと却つて不自然に感じるやうな趣が見える。口語体の文章は、この急迫した気分を、自然に安らかに現してゐる。これは文語体の文章と比較すると、明瞭に見えることである。
今日の文章の世界には、単に文章としての模範もまた法もない。高下をいふ標準があるとすると、その文章は、作者の現さうとした内容を、如何に直接に、如何にその侭に現し得てゐるかといふことが標準である。文章は内容の表現で、内容から遊離して存在するものではないからである。これは、言葉にしていへば当然のことであるが、この当然を当然とするには、多くの先覚者の努力と、相応な年月とを要したものである。事実を尊ぶ精神に導かれ、支へられたことであるのは、繰り返しいつたとほりである。

事実を尊ぶといふことは、文芸家の執つた態度であつた。ただ態度である。社会の要求するものをいち早く感じて、それを文芸を作成する上の態度として執つたのである。・・・・それは、文芸家が、自身に対して、人生に対して、天地に対して持つた熱意であるといへる。かくして孕まれた文芸品の種が、その育ち行く過程に於て、同時に文芸家の胸にある、真実を尊ぶ精神によつて養はれ、色づけられるといふに過ぎない。真実を尊ぶ精神によつて一様に貫かれつつも、文芸品が千姿万態を持つてゐるのは、この故である。その千姿万態の一つ一つの、如何なるものであるかは、作例について見る外はない。その方面は、極めて不十分ながら、前に挙げた例によつて見られたい。」

以上があとがきの最後の言葉でした。



もう一度読んでみたいのですが、この本を図書館へ返さなけりゃならないとは、残念。
この第11巻の解題は稲垣達郎氏が書いておりまして、「受容の次元に対する盲目から、これまでの文学史は、いろいろのとりこぼしをやってきた。」と指摘して、この第11巻の価値を語られておりました。こうもあります「近代の歌人とその代表的歌集が、これほどひろく、しかもていねいに論じられているのは、稀有であろう。」
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逍遥先生。

2008-04-13 | Weblog
窪田空穂全集第11巻は、坪内逍遥のことからはじまっておりました。
「坪内逍遥先生は、晩年、短歌を詠まれた。」とはじまっております。

六十を二つ越したる今年より敷島の道を踏まむとぞ思ふ

これについて空穂氏は、こう語っております。
「『敷島の道』といふ言葉は、平安朝末期頃に生れたもので、それまでは作歌は単なる遊びと目されてゐたのであるが、新たに、仏教に対立し得る宗教的のものだと意識され、その意識から生れたものである。先生のこの言はこの意味のものと解される。かうした言葉は、歌人から聞いたのでは何でもないが、六十二の先生から聞くと、私なぞ感が深い。先生の英文学研究は、我が文芸を高めて国際的なものにしようとの意図からのもので、その意図は当初からはつきりとしてゐられたとはいふが、しかしその生涯の一半は英文学研究の為に、一半は、小説、劇の改善の為に費されたのである。さうした経路を取つた人は、よしや、作歌したにしても、軽い心をもつて玩ぶのがせいぜいで、これを『敷島の道』として、六十二歳に至つて捉へ直すといふことは極めて稀有なことといはねばならぬ。先生はそれをされたのである。感なきを得ぬ次第である。」(p13)
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てまりの花。

2008-04-13 | Weblog
窪田空穂の「現代文の鑑賞と批評」で現代の短歌の最後に登場していたのが、与謝野晶子でした。その最後の歌と評とを引用しておきましょう。

 夕立にてまりの花の濡るる見てゆあままほしくなりにけるかな

「てまりの花」は、辞典を見ると、あぢさゐの花の異名だとある。
「ゆあままほしく」は、湯浴ままほしくで、湯を浴みたくである。
夕立に、てまりの花が、涼しく濡れてゐるのを見ると、自分も湯を浴みたくなったことだとの意である。いかにも感覚的で、直接で、そして単純だ。無雑作に見えるが、いはゆる垢ぬけのしたもので、洗練を持つてゐる。魅力を感じさせる。こうした歌も、氏の此頃の特色の一つである。」(p475)


ちなみに同じく全集第11巻に入っている「与謝野晶子小論」には、こんな言葉が拾えました。

「(与謝野)寛の感情は、文芸家として言うと対他的に動くかたむきが相応に強かった。一口に言うと、男子としての自矜心が強く、功名を慕う覇気が強かった。詩情は豊かな人であったが、この覇気がまじって来るために、一部には強く喜ばれると共に、一部にはうなずき難いとして厭われるところがあった。晶子は寛とは反対に、その心は内面的に動き、自身の詩的気分を絶対なものとし、これに陶酔して他をかえりみない風があった。晶子のこの歌風は、寛にあきたらないものを補ったのみならず、新詩社そのものの魅力となって来て、新詩社即晶子というが如き存在となったのである。新詩社の明治時代に遂げた和歌革新の功績の一半は、まさに晶子にあったのである。・・」(p135~136)
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それがある。

2008-04-13 | Weblog
窪田空穂全集第11巻の「現代文の鑑賞と批評」。その後半は「現代の短歌」とあります。そこにある尾上柴舟の歌から一首を引用しましょ。

 街路樹のあしたの雫肩うちて涼しくぬれし麻の夏服

その空穂氏の解説文はというと。
「これも心は明らかだ。夏の朝早く、東京の市中を歩いて、何処かへ行つた時の、途上での気分である。中心は、夏の朝の快さである。この歌の味ひは、一面は感覚的であるのに、同時に他の一面には、作者自身を全体として捉へてゐて、それとこれと微妙にも一つになつてゐるところにある。魅力の多い歌だといへる。」

以下真ん中をカットして最後の箇所を引用します。

「感覚といふうち、この歌のような快い感覚を主とした歌で、同時に、作者の全体を思はせる歌は、そう多くはないやうだ。快い感覚を扱つたものは、多くは、神経の末梢だけのものとなりがちだ。歌は、一首が一つの世界だから、感覚であると同時に、全体を思はせるところがなくてはならない。この歌にはそれがある。鋭い線が一首を貫いて、或安定を持つてゐる。その安定の感じが、大地に立つてゐる人を思はせる。全体といふのもその意味である。これは、それ以上には説き難い。」(p473)

第11巻には、空穂氏による尾上柴舟論が近代文学論に含まれているのでした。
そのはじめのほうにこんな箇所があります。

「『日記の端より』は、悲みをもつて歌ひ始め、悲みをもつて歌ひ終つてゐる。総てが悲みである。そこにをりをり悲みならぬものの閃きも見えるが、それは丁度青く塗りつぶした画面の上に点じられた紅のやうで、その青によつて存在する紅である。自らを愛し、自らの完成を願ふ心をもつてゐる我々に、何うして悲みが無くてゐられよう。悲みとは願の又の名である。願ふ心の多ければ多い程悲みは深く強くなつて来る。悲みといふ言葉は、他の如何なる言葉にもまさつて、言葉それ自らが我々の胸に染みる力を持つてゐるまでに我々は悲みを感じさせられてゐる。
が、この悲みに対する態度は、その人によつて異つてゐる。或る人はこの悲みを悲みとして受取りつつも、強い心を振ひ起してその悲みを食つて行く。そして食ふ事によつて不思議にも力を得て、その悲みと戦ひつつ進んで行く。或る人はその悲みに圧しられ、驚いて悲みに眼を見張つてのみ居る。そしてその悲みの来る所を捜しもとめることによつて、その悲みを避けようとするがやうにする。氏が現在抱いてをられる悲みは、何ういふ悲みであらう。
 第一のわれてふものにまだ逢はず第二のわれは捨てて来しかど
事もなげに歌ひ捨ててある歌が私の眼についた。氏はいはゆる幻滅の日を後にしてゐる。・・・幻滅の日に続く陰鬱な心。その陰鬱は、そのままにして長く続くと、その人の心を腐らせ殺してしまふまでの力を持つてゐる。一旦そこに到達した人は、全力をこめてその境から脱しなければゐられない。その陰鬱の世界にはひる日は誰にもあるが、その世界を脱する日は誰にもあるとは言へない。否、強い心を持つた人のみが辛くも脱して行く。そしてその世界にあつて更に新たなる世界を思ひつつ、願望し、低回してゐる日は、長いものと思へる。『第一のわれてふものにまだ逢はず』と氏は歌つてゐる。氏は今幻滅の世界に住んでゐる。それは行き詰つた世界である。長くゐるに堪へないまでの世界である。・・・  
つけ捨てし野火の烟のあかあかと見えゆく頃ぞ山は悲しき 」(p141)


また、尾上柴舟氏を語りながら、空穂ご自身が登場するのも、興味深いのでした。
ちょっと印象にのこる箇所をついでに引用しておきましょう。
「時局を身につけるといふ上で、私も人後には落ちまいとするだけの覚悟はもつてゐる。しかし六十六といふ齢には悲しいところがあつて、心と行ひとの間には、皮一重のへだたりがあつて、たやすくは乗り切れないもどかしさがある。」(p154)
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俳句のファン。

2008-04-13 | Weblog
窪田空穂全集第11巻に含まれる「近代作家論」は、坪内逍遥からはじまり水原秋桜子で終っておりました。その秋桜子は2ページほどの短いものなのですが、印象深いのでした。

「私は秋桜子さんの俳句のファンで、目にする限り必ず読んでゐる。読めば必ずたのしく、一度も失望した記憶がない。何がたのしいのかと訊かれると、一言にぴたりとは云へないが、第一に挙げられるのは、一句一句のもつうるはしい声調である。太くして柔らかく、直線的に貫いてゐる声調は、一読直ちに胸に入るものをもつてゐる。内に緊張を含んだものでなければかうした感は起こさせない。第二には気品を持つた華麗さである。これが微妙に溶け合つてゐる。この二つは一体となり難いものに思はれるが、秋桜子さんの場合にはあやしくも一体となつてゐて、読むと共に眼前に一つの美しい幻影を浮べさせる。第三には、一句一句、全心を傾けての作で、作者自身に即しての意図ともいふべきものはいささかも混つてゐないと感じさせることである。これは私には何よりも重大に思はれることで、第一の声調、第二の気品と華麗といふ、現在にあつては何れも何らかの異議の挟まれそうなものを、あざやかに払拭して、唯たのしさを感じさせるのである。・・」(p411)
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作歌の標語。

2008-04-13 | Weblog
窪田空穂は佐々木信綱氏についても書いておりました。
「竹柏園主は己がじしということを作歌の標語とされ、一貫して現在に至っていられる。筆者からいえばこれは、作歌の方法論ではなくて態度論である。筆者は捜索は方法より生れるものではなく、態度より生れるものだと信じている。態度が定まれば、方法はその人その人の資質、傾向からおのずから定まって来るものだと思っている。己がじしという標語は、広くして同時に深さを含んだものである。己れの文芸的欲望を短歌形式によって遂げるということは、窮りない道であって、生命のある限り続きゆくべき道である。その意味では一つの宗教である。しかも何びとといえども、信念を抱いて就きうる道でもある。『心の花』七百号は、そうした信念を抱いて作歌した人の、その信念に咲かせた花の、おそらくその一部分の集積であろう。間接のつながりを持ち、花を咲かせようとの憧れをもって傾心した人の数は、三代の久しきに亘って何れ程であったろうか、これは無論数えられないものである。」(p111)


窪田空穂の「現代文の鑑賞と批評」でも佐佐木信綱の歌が数首引かれておりました。そのなかの一首。

 山の上にたてりて久し吾もまた一本の木の心地するかも

これを空穂氏は解説しております
「・・・この歌は、いかにも言葉が節約されてゐる。節約は、そうした場合の単純な心を、単純なままに現そうとしたところから来てゐる。即ち適当な形だ。言葉は単純であるが、いつたやうに、具象化はしてゐる。形は単純だが、含蓄を持つてゐるのは、具象化されてゐる為だ。状態を一、二句でいつて、言ひ切つて、三句以下で心持をいつてゐるのは、組立としても単純だ。『ひともと』と、いはゆる雅語にせず、『一本(いっぽん)』と口語風にいつてゐるのも、直接を欲する心からだ。『かな』といはず、『かも』と古い語を選んでゐるのは、重厚を欲した為である。作者には、いふところの宗教的情操を詠んだ歌が、相当に多い。この歌は、宗教的らしくなくて、最も宗教的なものといへる。」(p469)
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花袋の「するよ」。

2008-04-13 | Weblog
窪田空穂は田山花袋についても書いております。
その最後はこういうものでした。

「花袋氏の大患が一時全治したかのやうに見えた時があつた。その頃有志の者が、祝賀の心で、氏を日本橋の偕楽園に招待した事があつた。私は氏の頸部を気にする、衰への現れた顔を見ながらいつた。『これから、少し気楽にするんですね』氏は言下に首を振つた。『そうは行かない。川端(康成君)の朝日新聞の小説(浅草紅団)を読むと、好いとは思ふが、かうではないと思ふ所がある。やるよ』
私は感心して黙つてしまつた。その時私は、大震災直後、前田晁君から聞いた事を思ひ出した。その当時氏は、大震災に関しての見聞を貪るやうにして記録してゐた。その時には、印刷工場も出版書肆も全滅したかのやうに感じられ、新しい出版物などは何時出来るか見込みも立たないやうに思はれてゐた時であつた。前田君は、怪しみの意を以て、何うする積りで書いてゐるのかと尋ねた。すると氏は、何うもかうもない、かういふ未曾有な事件に遭遇したのだから、一文人として記録の出来るだけしないといふ事は嘘だ、それでするのだと答へられたそうだ。大患後の、第三者の眼には労作は無理だと思はれる時にも、氏はするよと力強くいつたが、これは大震災後に、単に義務として、当てなしに記録を取つてゐたのと同じ心の現れだと、私には感じられたのである。しかし、その『するよ』といつた労作は、つひにする事がなく逝かれてしまつたのである。」(p87)
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牛肉と馬鈴薯。

2008-04-13 | Weblog
窪田空穂著「現代文の鑑賞と批評」に、国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』が登場しておりました。ここで、窪田氏は指摘しております。

「独歩の文章は特色の多いものだ。形の上から見ると、いはゆる文章の調子をぬいてゐること、独歩の文章の如きものは極めて稀れである。文章の調子は棄て難いものだ。調子のある文章は書くに書きやすい。読むにも読みやすい。そこには一種の甘美がある。それでゐてこの調子は、得ようとすれば容易に得られるものである。棄てるには余程の信念がないと棄てられない。独歩は棄ててゐるようだ。文章の調子を棄てた代りに何を得てゐるかといふに、心の調子を拾つてゐる。
独歩の文章ほど引きしまつた、そしてはつきりした文章はない。今一句一句について見ても、一音の無駄もない、出来るだけ引きしまつたものにしてゐる。同時に、はつきりと言ひ切つて、聊かの曖昧も、陰影も持たせてはゐない。句を連ねる上で、多くの人の愛用する接続詞さへ殆どない。その結果、文章は、強く鋭い。これが特色である。
この文体は、独歩の生み出したものと見える。さういへば独歩の文章には、古典の影響が認められない。西洋の小説の影響は受けてゐても、それは大体の上の事で、文章の上には、それも認めるに困難だ。思ふにこの文体が、独歩の気分であつたらう。真実を求めてやまない独歩は、文体を外に求めずして内に求めたと見える。もし調子といふ言葉でいへば、この言葉の調子のない、しかし強くはつきりとした文体が、独歩の心の調子だつたらうと思はれる。
次ぎに思はせられる事は、独歩の文章はいふがやうであるが、事件を発展させて行く上では、一本調子ではない。それどころではなく、むしろ変化に富んでゐる事である。これは心の視野(変な言葉だが)が広くて、余裕がある為と、頭脳が極めて明敏に働くが為だと思はれる。
次ぎに、独歩の文章には、ユーモアが伴つてゐる。をりをり笑はせられる。好い意味のユーモアで、強ひて説明すれば、余りにも心相を明確にいはれる為に、或る滑稽味が添つて来て、快くて笑はせられるともいふべきものである。これらが独歩の文章の魅力になつてゐる。・・」(p453)

窪田空穂全集第11巻「近代文学論」には、国木田独歩も登場しておりまして、こちらの方が、実際の独歩が浮び上がってくるので、興味深いものでした。そこには「独歩の文章」と題した文が載っております。こうはじまっておりました。

「国木田独歩という人は、好んで物を言う肌あいの人ではなかった。饒舌というのとは明らかに反対な人で、人なかにいる場合でも、独り書斎にいる時のように、沈痛な面持ちをして、何か考えているような様子をしている人であった。しかし何らかの刺激で口を開くと、すぐむきになって、いわゆる赤心を披瀝して物を言い出すのであった。熱をこめた簡潔な言葉は甚だ魅力的で、聞いた者には忘れられない印象を与えるところから、時とすると、『独歩の例の毒舌で』などと、さも饒舌家ででもあるかのように評されることもあった。そうした独歩の談片で、今なお私の記憶に残っている言葉が、ある程度ある。・・・独歩は言う。『文芸ってものは、人生って上からいうと、限界のある小さなものだよ。人生の真を表現するなんていうが、あれは人生ってものを知らない時にいうことで、実行すると失望するに決まっている。失望したらとっとと棄てて、むきになって人生と取っ組むんだね。それをしている中に、文芸ってものもまんざらな物じゃないと思い出して、もう一度拾いあげた時に、初めて文芸になってくるよ。大体そうしたものだね』
これが独歩の文芸に対する評価であった。言葉はちがっていようが、主旨はこのとおりであった。」(p71)

ちがうページでは、こうも書かれております。
「独歩の座談は実に魅力があった。言葉かずは多くはなく、また自然で、淡々と話相手をしているのであるが、その言うことはすべて真率で、つと調子づいてくると、警句が口を衝いて出てきて、そのまま消えゆかせるのはもったいない感のするものが多かった。」(p79)

この後に、独歩の金銭に対する処し方のエピソードが紹介されているのでした。
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