窪田空穂(うつぼ)を知ったので、それへの道筋を書き込んでおこうと思います。
最初は、山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)で
窪田空穂著「現代文の鑑賞と批評」を取り上げておりました。
それは窪田空穂全集第11巻にあると書目一覧に指摘してありましたので、
図書館でかりて読みました。私のことですから、ぎりぎりになって
返却がせまってから読み始めたのですが、第11巻の全体がとても面白かったのです。
図書を返却してから、その面白さを、どなたか丁寧に指摘されている方がいるんじゃないかと、思ったわけです。私としては、窪田空穂へのほめ言葉を聞きたかったのでした。最初に思いついたのは岩波文庫でした。現在3冊。窪田空穂歌集・わが文学体験・窪田空穂随筆集と出ておりまして。どれも大岡信氏が解説を書いております。ちなみに窪田空穂随筆集は、私にはどうして、これが岩波文庫に入るのか疑問に思うような気がするのですが、解説の大岡信氏の文は、よいものでした。なんというか、窪田空穂全集第11巻を、薦めてくれた山村修氏に感謝したいのでした。最初に窪田空穂随筆集を読んいたら、私は、きっと窪田空穂に見向きもしなかっただろうなあと思えるのです。
まあ、それはさておき、大岡信には「窪田空穂論」があります。
そして大岡信著「しのび草 わが師わが友」(世界文化社)には、
大岡氏の父親と、窪田空穂氏とが交互に登場しておりました。
ちょいと読みたいと思っているのに、講談社文芸文庫に窪田空穂が登場しております。こちらも機会があったら読んでみたいと思います。
大岡信著「日本の古典詩歌5 詩人たちの近代」(岩波書店)のあとがきで、大岡信氏は、こう書いておりました。
「実際には、私は旧制高校のころ以来、少なくとも日本の詩歌文芸の読み方に関する限り、ほとんど決定的な影響を空穂の著作から得たのである。『古今集』とか『新古今集』、また紀貫之や西行や藤原俊成や江戸時代の歌人たちの世界に入ってゆくための、最も確実で強力な信頼すべき鍵は、私の場合、つねに窪田空穂の著作にあた。『紀貫之』、『うたげと孤心』、『折々のうた』その他、私が書くことのできたいくつかの日本詩歌に関する小著類は、空穂の本から得た測り知れない恩恵を除いては存在しえなかったと言っても過言ではないと思っている。空穂は古典に対する時、いささかも古典拝跪やmystificationの趣味に堕すことがなく、その説くところは対象の実態実情に即して十分に納得しうる合理性をもっていて、それらの背景に厳として存在している空穂自身の文学的思想的閲歴に対する畏敬の念を、おのずとよびおこさずにはおかないのである。」(p625)
ところで、私は「〈狐〉が選んだ入門書」で、とてつもない人物に紹介されたような気分でいるわけです。紹介された窪田空穂の玄関で、これから上がり込んでお話を伺ってゆくべきなのか。それとも簡単な挨拶をして、次の山村修氏が紹介する入門書へとうつってゆくべきなのか。ちょいと思ってしまうわけです。まあ、そうしたとまどいを感じるほどに窪田空穂体験は魅力がありました。万事飽きっぽい私のことですから、ここまでなのでしょうけれど、それはわかっているのですけれどもね。
ということを記しておきます。
最初は、山村修著「〈狐〉が選んだ入門書」(ちくま新書)で
窪田空穂著「現代文の鑑賞と批評」を取り上げておりました。
それは窪田空穂全集第11巻にあると書目一覧に指摘してありましたので、
図書館でかりて読みました。私のことですから、ぎりぎりになって
返却がせまってから読み始めたのですが、第11巻の全体がとても面白かったのです。
図書を返却してから、その面白さを、どなたか丁寧に指摘されている方がいるんじゃないかと、思ったわけです。私としては、窪田空穂へのほめ言葉を聞きたかったのでした。最初に思いついたのは岩波文庫でした。現在3冊。窪田空穂歌集・わが文学体験・窪田空穂随筆集と出ておりまして。どれも大岡信氏が解説を書いております。ちなみに窪田空穂随筆集は、私にはどうして、これが岩波文庫に入るのか疑問に思うような気がするのですが、解説の大岡信氏の文は、よいものでした。なんというか、窪田空穂全集第11巻を、薦めてくれた山村修氏に感謝したいのでした。最初に窪田空穂随筆集を読んいたら、私は、きっと窪田空穂に見向きもしなかっただろうなあと思えるのです。
まあ、それはさておき、大岡信には「窪田空穂論」があります。
そして大岡信著「しのび草 わが師わが友」(世界文化社)には、
大岡氏の父親と、窪田空穂氏とが交互に登場しておりました。
ちょいと読みたいと思っているのに、講談社文芸文庫に窪田空穂が登場しております。こちらも機会があったら読んでみたいと思います。
大岡信著「日本の古典詩歌5 詩人たちの近代」(岩波書店)のあとがきで、大岡信氏は、こう書いておりました。
「実際には、私は旧制高校のころ以来、少なくとも日本の詩歌文芸の読み方に関する限り、ほとんど決定的な影響を空穂の著作から得たのである。『古今集』とか『新古今集』、また紀貫之や西行や藤原俊成や江戸時代の歌人たちの世界に入ってゆくための、最も確実で強力な信頼すべき鍵は、私の場合、つねに窪田空穂の著作にあた。『紀貫之』、『うたげと孤心』、『折々のうた』その他、私が書くことのできたいくつかの日本詩歌に関する小著類は、空穂の本から得た測り知れない恩恵を除いては存在しえなかったと言っても過言ではないと思っている。空穂は古典に対する時、いささかも古典拝跪やmystificationの趣味に堕すことがなく、その説くところは対象の実態実情に即して十分に納得しうる合理性をもっていて、それらの背景に厳として存在している空穂自身の文学的思想的閲歴に対する畏敬の念を、おのずとよびおこさずにはおかないのである。」(p625)
ところで、私は「〈狐〉が選んだ入門書」で、とてつもない人物に紹介されたような気分でいるわけです。紹介された窪田空穂の玄関で、これから上がり込んでお話を伺ってゆくべきなのか。それとも簡単な挨拶をして、次の山村修氏が紹介する入門書へとうつってゆくべきなのか。ちょいと思ってしまうわけです。まあ、そうしたとまどいを感じるほどに窪田空穂体験は魅力がありました。万事飽きっぽい私のことですから、ここまでなのでしょうけれど、それはわかっているのですけれどもね。
ということを記しておきます。