幸田文を読みたいと思いながら、読んでいない私です(笑)。
ということで、幸田文の気になる箇所。
篠田一士の言葉に(kawade夢ムック・総特集幸田文)p158
「幸田文の作品を読んで、はじめにだれしも経験するのは、日本語がこんな美しいものだったかというおどろきである。美しいといっては多少そらぞらしくきこえる。言葉のひとつひとつが、しかとした玉のごとき物体となって、読者の掌中のなかでずっしりした重さを感じさせるといった方が、まだしも正確な表現になるだろう。玉のまどやかな触感―――それははじめ冷やかではあるが、しばらくすると、掌のあたたかみを吸収して、情感にもにたぬくもりを逆に放射する。」
「日本語がこんなに美しい」という手ごたえが面白いですね。
幸田文には、どうやら、それがあるらしい。
その美しさをどう、私なら読むか。
これが、幸田文を読むよろこび。
そこいらが、気になるなあ。
たとえば、徳岡孝夫著「妻の肖像」にこんな箇所がありました。
「バンコクで思い出すことがある。町の名は忘れたが、支局のオフィスのあるラジャダムリ街の先に、台湾人のオバサンの営む瀬戸物屋があった。食器を買いに何度も行った。そのオバサンが、実に綺麗な日本語を話した。正しい敬語、正しい言葉遣い。若い日本人の奥さん方は、相手の言葉の美しさに押され、客なのに『ハッ、ハッ』と恐縮していた。私は聞いて、『あ、これは昭和二十年の日本語だ』と、すぐに判った。オバサンが日本統治の終了時に話していた日本語、それは彼女の記憶の中で昭和二十年のまま固定した。われわれも、当時は同じように美しく折り目正しい日本語を喋っていたのである。和子は『あそこでお茶碗買うの気持ちいいわ』と言って贔屓にしていた。」
幸田文のは、その美しさもあるのですが、それだけじゃない。
それは何なのか。
ちょうど、8月13日にブックオフで買った幸田文著「雀の手帖」(新潮文庫)の解説・出久根達郎の文を読んで、こういうイキイキした箇所もあると思えたのでした。出久根さんの文は「幸田さんの言葉」。雀の手帖が新聞連載された年に、出久根さんは東京へ出てきた。と書かれております。昭和34年の3月。では引用。
「私は15歳、古本屋の店員になった。いなかの少年だったので、方言と訛があからさまである。早速、これの矯正をされた。商人になるためには当然の教育なのである。しかし言葉遣いの注意を受けるくらい、屈辱的なことはない。劣っているもののように指摘されるから、いじけてしまう。私は軽いノイローゼにおちいった。そして人の言葉に過敏になった。・・・・そんな状態の折りに、私は幸田文さんの文章に出くわしたのである。・・・たちまち雲と散り霧と消えるのを覚えた。それは、こういうことだった。気取ることはない。飾ることはない。ごく普通にしゃべれば、それでいい。恥じたり、卑下する必要はない。おかしな点は、何もない。幸田さんの口調が、良い手本ではないか。私は何を勘違いしたのだろう。幸田さんは東京の方言を遣っている、と思ったのである。幸田さんの独特の言葉遣いを錯覚したのだった。無理もない。私がそれまで読んできた作家の文章とは、全く異質だったのだから。・・・方言を小説でなく、エッセイの文章に用いていることに、驚いたのである。エッセイというものは、端正な標準語で書くものだ、と信じていたのだった。方言や訛を恥じることはない。と私が言葉の劣等感から解放されたのは、幸田文さんの文章を読んでの上だ、と言うと、おかしいだろうか。実際の話である。少なくとも幸田さんの文章が、一集団就職少年の鬱屈を払拭したことは間違いない。・・・・」「私は幸田さんによって方言コンプレックスを解かれただけでなく、文章の自由を教えられた。どのような俗語を用いても、用い方一つで、美しい文章をつづれる、という教訓であった。・・・」
ということで、昭和20年の日本語と、幸田家の言葉遣いと、その興味でもって、幸田文の文章を読み進めればよいのだろうという方向性が見えてきました。感謝。
ということで、幸田文の気になる箇所。
篠田一士の言葉に(kawade夢ムック・総特集幸田文)p158
「幸田文の作品を読んで、はじめにだれしも経験するのは、日本語がこんな美しいものだったかというおどろきである。美しいといっては多少そらぞらしくきこえる。言葉のひとつひとつが、しかとした玉のごとき物体となって、読者の掌中のなかでずっしりした重さを感じさせるといった方が、まだしも正確な表現になるだろう。玉のまどやかな触感―――それははじめ冷やかではあるが、しばらくすると、掌のあたたかみを吸収して、情感にもにたぬくもりを逆に放射する。」
「日本語がこんなに美しい」という手ごたえが面白いですね。
幸田文には、どうやら、それがあるらしい。
その美しさをどう、私なら読むか。
これが、幸田文を読むよろこび。
そこいらが、気になるなあ。
たとえば、徳岡孝夫著「妻の肖像」にこんな箇所がありました。
「バンコクで思い出すことがある。町の名は忘れたが、支局のオフィスのあるラジャダムリ街の先に、台湾人のオバサンの営む瀬戸物屋があった。食器を買いに何度も行った。そのオバサンが、実に綺麗な日本語を話した。正しい敬語、正しい言葉遣い。若い日本人の奥さん方は、相手の言葉の美しさに押され、客なのに『ハッ、ハッ』と恐縮していた。私は聞いて、『あ、これは昭和二十年の日本語だ』と、すぐに判った。オバサンが日本統治の終了時に話していた日本語、それは彼女の記憶の中で昭和二十年のまま固定した。われわれも、当時は同じように美しく折り目正しい日本語を喋っていたのである。和子は『あそこでお茶碗買うの気持ちいいわ』と言って贔屓にしていた。」
幸田文のは、その美しさもあるのですが、それだけじゃない。
それは何なのか。
ちょうど、8月13日にブックオフで買った幸田文著「雀の手帖」(新潮文庫)の解説・出久根達郎の文を読んで、こういうイキイキした箇所もあると思えたのでした。出久根さんの文は「幸田さんの言葉」。雀の手帖が新聞連載された年に、出久根さんは東京へ出てきた。と書かれております。昭和34年の3月。では引用。
「私は15歳、古本屋の店員になった。いなかの少年だったので、方言と訛があからさまである。早速、これの矯正をされた。商人になるためには当然の教育なのである。しかし言葉遣いの注意を受けるくらい、屈辱的なことはない。劣っているもののように指摘されるから、いじけてしまう。私は軽いノイローゼにおちいった。そして人の言葉に過敏になった。・・・・そんな状態の折りに、私は幸田文さんの文章に出くわしたのである。・・・たちまち雲と散り霧と消えるのを覚えた。それは、こういうことだった。気取ることはない。飾ることはない。ごく普通にしゃべれば、それでいい。恥じたり、卑下する必要はない。おかしな点は、何もない。幸田さんの口調が、良い手本ではないか。私は何を勘違いしたのだろう。幸田さんは東京の方言を遣っている、と思ったのである。幸田さんの独特の言葉遣いを錯覚したのだった。無理もない。私がそれまで読んできた作家の文章とは、全く異質だったのだから。・・・方言を小説でなく、エッセイの文章に用いていることに、驚いたのである。エッセイというものは、端正な標準語で書くものだ、と信じていたのだった。方言や訛を恥じることはない。と私が言葉の劣等感から解放されたのは、幸田文さんの文章を読んでの上だ、と言うと、おかしいだろうか。実際の話である。少なくとも幸田さんの文章が、一集団就職少年の鬱屈を払拭したことは間違いない。・・・・」「私は幸田さんによって方言コンプレックスを解かれただけでなく、文章の自由を教えられた。どのような俗語を用いても、用い方一つで、美しい文章をつづれる、という教訓であった。・・・」
ということで、昭和20年の日本語と、幸田家の言葉遣いと、その興味でもって、幸田文の文章を読み進めればよいのだろうという方向性が見えてきました。感謝。