和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

昭和20年の日本語。

2009-08-17 | 幸田文
幸田文を読みたいと思いながら、読んでいない私です(笑)。
ということで、幸田文の気になる箇所。
篠田一士の言葉に(kawade夢ムック・総特集幸田文)p158

「幸田文の作品を読んで、はじめにだれしも経験するのは、日本語がこんな美しいものだったかというおどろきである。美しいといっては多少そらぞらしくきこえる。言葉のひとつひとつが、しかとした玉のごとき物体となって、読者の掌中のなかでずっしりした重さを感じさせるといった方が、まだしも正確な表現になるだろう。玉のまどやかな触感―――それははじめ冷やかではあるが、しばらくすると、掌のあたたかみを吸収して、情感にもにたぬくもりを逆に放射する。」

「日本語がこんなに美しい」という手ごたえが面白いですね。
幸田文には、どうやら、それがあるらしい。
その美しさをどう、私なら読むか。
これが、幸田文を読むよろこび。
そこいらが、気になるなあ。

たとえば、徳岡孝夫著「妻の肖像」にこんな箇所がありました。

「バンコクで思い出すことがある。町の名は忘れたが、支局のオフィスのあるラジャダムリ街の先に、台湾人のオバサンの営む瀬戸物屋があった。食器を買いに何度も行った。そのオバサンが、実に綺麗な日本語を話した。正しい敬語、正しい言葉遣い。若い日本人の奥さん方は、相手の言葉の美しさに押され、客なのに『ハッ、ハッ』と恐縮していた。私は聞いて、『あ、これは昭和二十年の日本語だ』と、すぐに判った。オバサンが日本統治の終了時に話していた日本語、それは彼女の記憶の中で昭和二十年のまま固定した。われわれも、当時は同じように美しく折り目正しい日本語を喋っていたのである。和子は『あそこでお茶碗買うの気持ちいいわ』と言って贔屓にしていた。」

幸田文のは、その美しさもあるのですが、それだけじゃない。
それは何なのか。
ちょうど、8月13日にブックオフで買った幸田文著「雀の手帖」(新潮文庫)の解説・出久根達郎の文を読んで、こういうイキイキした箇所もあると思えたのでした。出久根さんの文は「幸田さんの言葉」。雀の手帖が新聞連載された年に、出久根さんは東京へ出てきた。と書かれております。昭和34年の3月。では引用。

「私は15歳、古本屋の店員になった。いなかの少年だったので、方言と訛があからさまである。早速、これの矯正をされた。商人になるためには当然の教育なのである。しかし言葉遣いの注意を受けるくらい、屈辱的なことはない。劣っているもののように指摘されるから、いじけてしまう。私は軽いノイローゼにおちいった。そして人の言葉に過敏になった。・・・・そんな状態の折りに、私は幸田文さんの文章に出くわしたのである。・・・たちまち雲と散り霧と消えるのを覚えた。それは、こういうことだった。気取ることはない。飾ることはない。ごく普通にしゃべれば、それでいい。恥じたり、卑下する必要はない。おかしな点は、何もない。幸田さんの口調が、良い手本ではないか。私は何を勘違いしたのだろう。幸田さんは東京の方言を遣っている、と思ったのである。幸田さんの独特の言葉遣いを錯覚したのだった。無理もない。私がそれまで読んできた作家の文章とは、全く異質だったのだから。・・・方言を小説でなく、エッセイの文章に用いていることに、驚いたのである。エッセイというものは、端正な標準語で書くものだ、と信じていたのだった。方言や訛を恥じることはない。と私が言葉の劣等感から解放されたのは、幸田文さんの文章を読んでの上だ、と言うと、おかしいだろうか。実際の話である。少なくとも幸田さんの文章が、一集団就職少年の鬱屈を払拭したことは間違いない。・・・・」「私は幸田さんによって方言コンプレックスを解かれただけでなく、文章の自由を教えられた。どのような俗語を用いても、用い方一つで、美しい文章をつづれる、という教訓であった。・・・」

ということで、昭和20年の日本語と、幸田家の言葉遣いと、その興味でもって、幸田文の文章を読み進めればよいのだろうという方向性が見えてきました。感謝。
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折目正し。

2009-08-17 | Weblog
徳岡孝夫著「妻の肖像」が文庫に入ったそうです。
徳岡孝夫氏が雑誌「諸君!」の匿名巻頭コラム「紳士と淑女」の著者だと、
わたしが知ったのは、おそまきながら「諸君!」の最終号でした。
さて、「妻の肖像」は、徳岡氏を残して妻・和子さんが先立つ顛末が書かれております。妻が病院に入っている間のことが、こうかかれておりました。
「その間にも、毎月の決まり物の〆切りが次々に来る。朝の四時半まで書き、八時に起きてゲラ直しをしたが、何のために仕事をしているのか何を書いているのか、自分でも判らなくなる。そのうちに食事の時間が来る。布団の上げ下ろしもある。近くのファミレスや冷凍食品で誤魔化すが、妻を病院に取られた私は全き無能力者である。午後は和子のベッド脇に座って、息子たちのことを話ながら、二人で深い溜め息をつく。それでも長男が帰ってきたので、少し元気が出た。家族全員が集まったのだ。」
「毎月の決まり物の原稿を書く時期になった。逃げることのできない、責任ある仕事である。」「モルヒネを二錠増やしたとのこと。それから夜まで、病院のベッドの脇で妻と長々と話す。和子、珍しく私の性格の欠点を指摘する。すぐ弱音を吐くところだと言う。やっぱりそうか。自覚はしていたが、改めて妻の口からそれを聞くと、自分という人間のツマラナサが見える。家に帰り、今度は長男の洋介と再び長々と物語する。」
    以上は「別れの始まり」より。

また、「二度のお産」という文の最後は、こう締めくくっておりました。

「人間は、この世に生きて何をするか?私はまだ終わりきらない自己の人生を顧み、『死者を悼むこと。子を産むこと。それ以外は何も大切なことはない』と感じる。課長で終るのと課長補佐で終るのと、人生の価値になにほどの差があろう。私は時代の要所に立った人を何人も取材し、記事を書き本を書いてきた。だが和子の二度のお産に比べると、私のしたことはハリウッドの二流映画をなぞる程度のものでしかなかった。」


私は、徳岡氏がコラムの著者でなかったならば、この言葉をまともに聞いてしまったかもしれず。まして、この本自体を読まなかっただろうなあと思われます。匿名コラムにある個人を特定できる話題を避けていたコラムニストが、ここでは妻とご自身の細部までを、静かに語って、自然と、こちらの居住まいが正されている。

何げない、夫婦の些事を丁寧に拾い上げて、ああ、あれもあったというぐあいに書き込まれておりながら非凡なのです。この本のはじまりの方で、こんな言葉がありました。
「自分がこれまでに書いた本や仕事のことには、全く触れなかった。著作は身すぎ世すぎであり、文章は書けば書くほど、説明すればするほど真実を裏切る。満足のいくものは一冊も書いてない。・・・」。

徳岡氏の「身すぎ世すぎ」本を読もうと思うのでした。
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