古本で展覧会カタログがあり買う。
「司馬遼太郎と歩いた25年『街道をゆく』展」(朝日新聞社・1997年)。
「ごあいさつ」の中に、こうありました。
「 この展覧会は、司馬さんと旅をした故・須田剋太さん、
桑原博利さん、安野光雅さんが描いた装画(挿絵)の
代表作310点と・・・関連する写真などで、司馬さんを追悼し、
壮大な歴史紀行『街道をゆく』シリーズを振り返るものです。 」
はい。司馬遼太郎の『街道をゆく』を数冊しか読んでいない私でも、
連載中の須田剋太氏の装画の印象は鮮やかでした。
いつか、それだけでも見ていたいと思っておりました。
古本でそのチャンス到来。といったところです。
安野光雅さんの文からはじまっていましたが、
ここには、須田剋太氏の昭和59年の文が再掲載されていたので、
そこから引用してみます。
司馬さんと旅して 須田剋太
「 ・・・旅をして体が丈夫になりました。
それになにより絵が変わりましたね。
いろんなヒントを得たし、絵にリアル感が出てきたと思います。
私にとって大変な収穫でした。それもこれも司馬さんのお陰で、
あの人が無名の私を世間に出してくれたんです。 」
「 司馬さんに出会えたということは、
私は本当にめぐまれていると思う。
道元に同事ヲ知ルトキ自他一如ナリ、
という言葉がありますけれど、いっしょに仕事をしておりますと、
心が深い所で響きあって、自他の区別がなくなる、そういう瞬間を、
おこがましいけど司馬さんにある時ふっと感じるんです。
司馬さんも、私がとにかく一所懸命に絵を描いていることだけは
認めてくれているんだと思います。そうでなくては
こんなに長く続かなかった、と考えているのですけれども。(談)」
はい。須田剋太のこのカタログの絵を見ていると、
そうだ、司馬さんは須田さんのことをどう語っていたのかと気になりました。
「 司馬遼太郎が考えたこと 14 」(新潮社・2002年)には
「 二十年を共にして 須田剋太画伯のことども 」がありました。
なかに『街道をゆく』をはじめた際の年齢にふれた箇所があります。
「 はじめたころ須田さんは65歳でした。
私は17歳も下で、まだ四十代でしたから、
須田さんがずいぶん年長に感じられました・・・ 」
司馬さんによる須田画伯の装画を語った箇所もありました。
「 『街道をゆく』の原画の構成は、どれもが求心的な
緊張感を感じさせるものでありました。・・・・
ただ声をひそめていうのですが、『街道をゆく』以後、
ふたたび精力的に再開された油彩の具象画には、
さほどには構成的緊張が
――あくまで私の勝手な印象ですが――
なかったように思います。 ・・・・ 」
ああ、そうか、と思い当ることがあります。
画集で須田剋太のものをひろげたことがあります。
なんだか、あきらかに『街道をゆく』の装画とは異なったイメージでした。
気になったのは、司馬さんの指摘する『求心的な緊張感』という言葉でした。
『街道をゆく』の須田画伯の装画をみていると、時に同じ箇所の写真が載って
いたりすると、その写真を見ただけで、なんだか気が緩んでしまうような。
週刊誌連載『街道をゆく』を、装画で毎週緊張感の磁場を発生させていた。
そんな画伯のことを思うのは、はたして私一人だけでしょうか?
司馬さん自身も、こう指摘しておられました。
「 以後、このひと(須田画伯のこと)と旅をし、
やがてそれが作品になってあらわれてくるという
二重の愉しみにひきずられるようにして、
旅をかさねるようになった。・・・
そのつど須田剋太という人格と作品に出会えるということのために、
山襞(やまひだ)に入りこんだり、谷間を押しわけたり、
寒村の軒のひさしの下に佇(たたず)んだりする旅をつづけてきた。
いま、朽木街道をこのひとと共に行ったとき、
自分がまだ47歳であったことにあらためておどろいている。 」
注:「画伯とはじめてお会いしたのは『街道をゆく』の最初の旅
(といっても日帰りであったが)で近江の朽木(くつき)街道に
同行したときであった。
「 司馬遼太郎が考えたこと 」のなかには、
須田剋太画伯への文が4~5回登場しておりました。
うん。最後にはこれを引用しとかなければ。
「 私にとっていつもそうだが、須田画伯と出会ったときの
瞬間のうれしさは、たとえようがない。
むこうから画伯がやってくると、
そこだけが空気が透きとおってくるのである。
この人はいつも画板を前に抱き、
いわば恭謙(きょうけん)な姿でいる・・・ 」
( 「 真の自在≪須田剋太展≫ 」司馬遼太郎が考えたこと14 )