和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

須田剋太を読む愉しさ。

2023-05-29 | 絵・言葉
須田剋太の挿絵『街道をゆく』を見ながら、
さて、これをどう読んだらよいものかと思う。

さいわいなことに、『司馬遼太郎が考えたこと』(新潮文庫)が身近にある。
まるで、須田画伯の言葉を、分かりやすく翻訳するようにして、
須田絵画を、司馬さんが嚙み砕いて言葉にかえてくれています。

『街道をゆく』の司馬さんは、取材で共に須田画伯と歩いてる。
身近で知る司馬さんが言葉を選び浮き彫りにする画伯絵画の姿。

『 十六、七年、私がこの人(須田画伯)を見つめつづけてきて
  驚かされるのは、影ほどの老いも見られないことである。 』

  ( p142 「司馬遼太郎が考えたこと 14」 )

「 ここでちょっと余談をはさむと、
  絵画は自然を説明するものなのか、それとも
  タブローから生み出される宇宙最初の――自然を超えた――
  形象なのかと問われれば、
  画伯は圧倒的に後者だと私は答える。

  ――富士山はこうなのです。
  というのが、多くの画家によって描かれてきた富士山の絵だが、

  須田画伯のはそうではなく、たとえ富士を描いても、
  それはたったいま生まれてきた何かであって、

  人が富士と呼べばそうであり、人が心といえばそうである。
  あるいは人が抽象的形象とみればそれでもよく、

  ともかくも、画伯によってはじめて出現するなにかである。
  おそらくこの絵画思想は、妙義山(注:)に籠もりたいというときには、
  すでにその萌芽があったにちがいない。  」

    ( p286~287 「司馬遼太郎が考えたこと 14」 )

 注:≪ おそらく二十そこそこに、故郷の妙義山に山籠もりしていた ≫

はい。須田画伯の挿絵『街道をゆく』を見ながら、
司馬さんの画伯への言及を読める醍醐味と楽しさ。
こんな箇所もありました。


「 ・・わが友では、須田剋太を好む。
  いずれも、地の霊が人に化したかと思われるような
  おそるべき魂をもちながら、

  その生き方はかぼそく、人には優しく、
  腫れあがった皮膚のように風にさえ傷みやすい。

  そのくせ画を創りあげるときには、
  造形を創るという匠気をいっさいわすれ、
  地と天の中に両手を突き入れて霊そのものの
  躍動をつかみあげることに夢中になる。

  しかしながら、鬼面人を驚かすような構成はまれにしかとらず、
  たいていは花や野の樹々といったおだやかな生命をみつめ、

  そのなかに天地を動かすような何事かを見究めつくそうとする。 」

  ( p194 「司馬遼太郎が考えたこと 9」  )


まだまだ、こぼれ落ちそうな司馬さんの須田画伯への言及を
鏡のようにして須田画伯の挿絵『街道をゆく』を見る楽しみ。


コメント (3)
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