「須田剋太『街道をゆく』とその周辺」(1990年)。
主催は、大阪府・大阪府文化振興財団・朝日新聞社。
はい。これも展覧会のカタログです。
大阪展・名古屋展・高松展・東京展と各地で展覧会をした際のカタログ。
ここに、司馬遼太郎さんが寄稿されております。
題して「 20年を共にして――須田剋太画伯のことども―― 」。
「私は、須田さんの永眠を、モンゴル高原の首都のホテルの一室でききました。」
というのが最初の一行です。
「街道をゆく」の原画にふれた箇所が印象深い。
「 装画はどうしましょう、という話のとき、・・
担当だった橋本申一さんに、どなたか候補のお名前をあげてください、
というと、須田剋太さんはどうでしょう、といわれたのです。
ああいいですね、と即座にきめました。 」
「 『原画は、こんなに大きいんです』
と最初の絵ができあがって早々、橋本申一さんがやってきて、
閉口した表情で言いました。
だいいち凸版として使う絵は、印刷されたときの面積とほぼ
同じ大きさで描くとうまくゆきます。伸縮の度合いがすくないからです。
また黒の濃淡で描くと、凸版効果がうまくゆきます。
というより、黒の濃淡ときまったものなのです。
ところが、須田さんの原画は、色で描かれているのです。
色は印刷には出ないのですから、色彩をつかうのは、いわばむだです。
しかしながら愚直なほどに自己に忠実なこの人は、
自分を納得させるために色面で構成したのです。
くりかえしますが、印刷ではモノクロームでしか出ないのです。
写真でいえば、カラーフィルムで撮って白黒で焼くようなものでした。
このやり方が、17年間、千数百点、すこしも変わりませんでした。
おどろくべきことでした。
『街道をゆく』の須田さんの絵は、そのようにして、
須田絵画のなかでもとくべつなものでした。
えのぐは、フランスでいうグワッシュ(gouache)
というものがつかわれています。
水とアラビアゴムと蜜などを加えた濃厚で不透明な水彩絵具です。
最初から最後までそうでした。
用紙は固く、ご自分でつくられたのかどうか、
ふつうのケント紙を三枚ほどあわせたくらいの厚紙です。
凸版でのできばえはまことにいい感じでした。・・・
一点ごと惚れぼれしましたし毎号雑誌をみるのが楽しみでした。
須田さんは旅をしているうちに、
『 しばさん、これ、やめないでおきましょう 』
と言いはじめたのです。
これとは、『街道をゆく』のことです。・・・・ 」
はい。須田画伯の装画をみながら、この文を読めるのは、
また、格別なものがありました。