鴨長明「発心集」下巻(角川ソフィア文庫)をはじめて読んだのですが、
一読忘れがたい言葉になるのだろうなあ、そう感じる箇所がありました。
「全ての意味を理解し、一文毎に解釈せよといわれているのでもない。
理解力が乏しく学がなくても卑下すべきでない。
世間には師はたくさんいるので、長い年月お仕えせねば
教えてもらえないという難しさもあるとは思えない。
受持・読経・読誦・解説(げせつ)・書写の五種の
修行法はそれぞれあるわけで、その中からで、
好みに従って選べば良いのだ。
もしも一偈一句であっても御縁を結び申し上げるというのであれば、
それはやはり行い易い修行ではないか。
ただ、習って読もうとしなければ、読経するまでには到らない。
一偈一句を唱え申し上げるだけの人は信心が少なくて、
仏説を疑い、見聞くところは深くとも、修行はわずか、
ときっと、人目を恥じるに違いない。
しかし、これはとても愚かなことだ。
たった一文・一句であっても、
渇いた時に水を飲むように、
巡り会い難く聞き難い経だと思い、
法華経と縁を結び奉るべきなのである。 」(p239~240 現代語訳)
とりあえず、この箇所を原文はどうなっているかと
ページをめくってみることに。
「・・文々解釈(もんもんげしゃく)せよとも説かず。
鈍根無智なりとも卑下すべからず。
世に師多ければ、千歳仕ふる煩ひもあるまじ。
五種の行まちまちなり。
行も好みにしたがひて、もしくは一喝、一句なりとも、
縁を結び奉らんことは、さすがに易行(いぎょう)ぞかし。
されど、習ひ読まねば、読までぞある。
一偈を持(たも)ち奉る人は、これすなはち、信心は少なくて
仏説を疑ひ、見聞は深くて微小の行と、人目を恥づるなるべし。
これ、極めて愚かなることなり。
ただ一文、一句なりとも、飢ゑたるに水を飲むが如く、
遇(あ)ひがたく聞きがたき思ひをなして、縁を結び奉るべし。 」(p74)
ちなみに、p62にはこんな箇所もあるのでした。
「所行は宿執(しゅくじふ)によりて進む。
みづからつとめて、執して、他の行そしるべからず。
一華一香(いつけいつかう)、一文一句、
みな西方に廻向せば、同じく往生の業(ごう)となるべし。
水は溝をたづねて流る。さらに、草の露、木の汁を嫌ふことなし。
善は心にしたがひて趣く。いづれの行か、広大の願海に入らざらんや。」
( p62 )