和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

講座参考本⑫

2024-07-26 | 安房
千葉県立安房高等学校の
「創立八十年史」(昭和58年3月発行)と
「創立百年史」(平成14年11月発行)の
2冊に載っている関東大震災の回想。

まずは、創立百年史に載る和田金次氏の回想に
関東大震災の館山の隆起を物語る箇所があります。

「私が安房中学(当時の)に入学したのは、
 大正11年であった。翌12年・・関東大震災があった。
 木造の校舎は、講堂などまで全倒壊。・・・・

 ・・北条海岸に出て見て驚いた。昔の安房中学では、
 たしか5月だったと思うが、創立記念日の行事として、
 海での学年毎のクラス対抗の7人乗りのボートレースが
 行われたが、そのボートを保管しておく艇庫(ボートをしまっておく倉庫)
 があった。それが何と、はるか丘の上の方に飛び上がっている
 ように見えるではないか。もちろん
 艇庫自体が飛び上がる筈はない。・・・・

 館山湾の遥かかなたの沖合にあり、我々は水泳の三級(白帽)を
 もらうべく、頑張って沖の島往復をやったが、
 その時代の鷹島は四囲深い海であったのが、
 殆ど歩いて渡れる陸続きと化してしまったのも半島隆起のためである。」
                    ( p592 「創立百年史」 )

ちなみに、君塚文雄編の「写真集 館山」(国書刊行会・昭和56年)に
館山公園から望む鷹ノ島の写真が載っております。そこに添えられた
君塚氏の文章も、引用しておきます。

「房総里見氏の居城であった城山の北にあった小丘が、
 いわゆる北下台で、鏡ケ浦の岸辺にある景勝の地であったので、
 館山公園と呼ばれる公園となっていた。
 写真は関東大震災前の、館山公園からの鷹ノ島の眺望で、
 島の東側の海面が、現在と同様、船舶の碇泊地であった。
 鷹ノ島が、房州名物の西風を遮ったからであろう。
 関東大震災で約1メートル半隆起する前は、
 公園のすぐ下まで海であった。  」

    ( p72 「ふるさとの想い出写真集 明治大正昭和 館山」 )


「創立八十年史」には、当時の一年生清水巌(北条)の作文が
掲載されておりました。そこから一部を引用。

「・・・学校から家へ帰って食事を済し、むし暑かったので
 裸で新聞を読んでゐたその時、あの地震が来たのです。

 最初家がどんとはね上ったやうな音がしたと思ふと、
 急に揺れたので、バネにはじかれたやうに立ち上がって
 外へ出ようとしたが、狼狽しまいと玄関の敷居に乗って
 鴨居につかまってゐた。

 その時隣家の叔父さんが、算盤を右手に持って
 真青な顔をして飛び出したので、私も無意識に外へ飛び出した。

 とその時、二三軒先でドンと大きな音がしたと思った時、
 ぱっと砂煙りが上った。これはと思って無意識に田圃の方へ駆け出した。

 もう方々で、ドンドンと家が倒れると同時に砂煙りがぱーっと上る。
 と思ふと、女子供の泣き叫ぶ声が手にとる如く聞えた。
 暫くすると、音も止み地震も静まった。

 町を見渡すと、どこの家もあらまし倒れてゐた。
 全くぴしゃり潰れてしまったのや、
 一方が地に落ちて一方が持ち上がってゐたり、色々様々である。

 その間を人々が右往左往し、親は子を尋ね、子は親を呼んだり、
 阿鼻叫喚とはかういふものだろうと思った。

 ・・・・地震後、学校で誰かが生きてゐるのは自分一人と思った
 と言ったが、全くその通りであった。   」
                 ( p199 「創立八十年史」 )


はい。当時の北條町の震災が実感を交えて記録されておりました。




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