和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

雨やどり。

2008-11-21 | Weblog
  沼波瓊音著「柳樽評釈」(彌生書房)をパラパラめくっていたら、こんな川柳。

  本降りになつて出て行く雨やどり

沼波氏の解説は、「夕立の雨やどり。直き晴れると思って、待つても待つても晴れぬ。だんだん落着いて、普通の雨になって来た。これじゃ、いつ迄待っても駄目だと、あきらめて出て行く所。」


ああ、そういえば、松井高志著「江戸に学ぶビジネスの極意」(アスペクト)のはじまりは、こんな和歌からだと思い出したのです。


  急がずば濡れざらましを旅人の後より晴るる野路の村雨

松井氏の解説は、
「太田道灌(江戸城を築いた武将)が作ったといわれる有名な歌。災難に遭ったりして、苦しい時に、ちょっと辛抱すれば状況が好転する(待っていればはげしいにわか雨もすぐにやんで晴れる)のに、旅人は先を急ぐあまり賭けだしていき、ずぶ濡れになってしまう。短気を戒め、辛抱の大事さをたとえる教訓和歌。困った時もまず慌てるな、という教え。・・・」

松井氏はこの教訓和歌の使い方も、つけ加えております。その例

 『部長、どうしましょう、エライことになりました』
 『慌てるな。急がずば濡れざらましを旅人の後より晴るる野路の村雨、だ。慌てれば事態はますます悪化するぞ』


さてさて、「慌てるな」と、いつまで言い聞かせてよいのやら。
ここが、辛抱と思案のしどころ。
そうそう、太田道灌といえば、「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」という無名の少女とのエピソードが思い浮かびます。

それでは、ここに、辛抱ということで、徳川家康にご登場願います。
竹村公太郎著「日本文明の謎を解く」(清流出版)の最初の方に、こんな箇所がありました。

「1590年、豊臣秀吉の命令で家康は江戸に転封を命ぜられた。関が原の戦いがはじまる10年前のことであった。・・・室町時代の1456年、上杉定正がこの地を制し、その家臣、太田道灌が江戸に城郭を築造した。そこは武蔵野台地の一番東の端の海に面した小高い丘の上であった。現在の皇居の場所である。そこは江戸湾の一番奥まった入江で波も穏やかであった。太田道灌はこの地が港に適していると目をつけたのだ。・・・・湿地に囲まれた江戸は歴史街道から外れた寒村であった。1590年、家康が江戸城に入ったといってもそれは荒れ果てた砦で、人家もまばらであった。・・江戸城郭から見渡す風景は凄まじいものであった。見渡す限りヨシ原が続く湿地帯であり、雨になれば一面水浸しになり人を寄せつけなかった。」

うん。太田道灌の歌にまつわるエピソードが生れた背景として、この湿地帯の雨を思い描かないと、どうやら、その重要性が見えてこないようです。
引用を続けます。

「彼らが江戸に入ったときに眼にしたもの、それは何も育たない湿地帯が延々と続き、崩れかけた江戸城郭だけがぽつんとある荒涼とした風景であった。家康はこの粗末な江戸城郭に入ったが、城の大修復や新築には取り掛からなかった。江戸城の本格建築に着手するのは関が原の戦いの後であり、五層の天守閣の江戸城が完成するのは三代将軍家光の時代である。また江戸の町づくりに本格的に着手するのも関が原の戦いの後である。では、1590年、江戸に入った家康はいったい江戸で何をやっていたのか?・・・今この地には利根川、荒川が流れ込み、水はけが悪く雨のたびに冠水してしまう。しかし、この川を遠くへバイパスさせ、水はけを良くさえすれば、類を見ない肥沃な水田地帯となる。・・・戦うべき新たな敵、それは利根川であった。・・・1594年、江戸から北へ60キロメートルも離れた田舎の川俣で人知れず着手されていた。それは『会の川締め切り』と呼ばれる河川工事であった。家康はこの工事をきわめて重要なものと認識していた。その証拠に、家康は四男・松平忠吉を工事責任者として今の行田市にあった忍城の城主に据え、利根川の治水と関東平野の新田開発に専念させる体制を構えた。・・湿原の関東を乾陸化する第一歩であった。」


雨やどりとは、ほど遠い、辛抱の始まり。
ここからはじまる「日本文明の謎を解く」が、これまた面白いのでした。
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