足立巻一による、竹中郁の年譜の最後には
昭和57年(1982)
・・・・・・・
3月7日午前5時40分、病状急変して脳内出血のために死去。
満77歳11か月。戒名、春光院詩仙郁道居士。
3月9日、神戸市兵庫区北逆瀬川町1、能福寺で告別式を営み、
4月23日、同寺竹中累代墓に葬られた。・・・
ちなみに、まとまったものとしては、
昭和58年3月7日初版発行『竹中郁全詩集』角川書店。そして、
平成16年(2004)6月25日『竹中郁詩集成』沖積舎が出版されております。
『竹中郁全詩集』は、監修が井上靖。編集は足立巻一・杉山平一。
『竹中郁詩集成』は、監修が杉山平一・安水稔和とあり
( 詩集成には、帯に「誕生百年記念出版」とあります )
どちらにも、杉山平一氏の名前がありました。
それでは、杉山平一氏は、竹中郁の詩をどのように理解していたのか?
思潮社の現代詩文庫1044「竹中郁詩集」に杉山平一氏の文があります。
「 竹中郁の詩は・・・一貫して、
きわめて清新、明快、平明の独自の詩境を展開している。
現代詩が、歌う詩から考える詩への道行きを示した中で、
竹中郁は、歌う詩すなわち音楽的要素から全く離脱した
ところから出発している。
歌わない詩にしても、一般ではなお、
ことばのおもしろさで書かれるのに、
竹中の場合は、全く新しいことばにより絵をかくという、
きわめて視覚的要素の強い作品が主流をなしている。・・ 」
はい。杉山平一氏の『竹中郁の詩』はこうしてはじまっておりました。
万事、天邪鬼(あまのじゃく)な私は、とてもじゃないけれど、
全詩集とか詩集成とかを、読み進められるわけもなくて、
それでも今回読み直し、ひとつ気になる個所があります。
それは、竹中郁少年詩集「子ども闘牛士」(理論社・1999年)の
最後にある、足立巻一「竹中先生について」のなかにありました。
「 先生は第八詩集を『そのほか』と題されました。
子どもの詩を読むことが第一で、自分の詩は
余分のことだという考えから名づけられたのです。 」(p163)
この直前に足立さんは、竹中さんの言葉を引用しております。
『 自分みずからの詩作品を書いてゆけることも
しあわせの一つにはちがいないが、
日本のあちこちから集まってくる子どもの声・・・
詩の数々を毎日読み、かつ選び出していく仕事は、
他の何にもまして充実した時間だった 』
私がさがしたかったのは、この『充実した時間』を
語っているところの竹中郁さんの文でした。
詩ではないので全詩集や詩集成に探せない。
それでは、どこに。
はい。なにやら、推理の迷路めいてきましたけれど、
竹中郁さんの、『 児童詩の指導 父兄、先生へ 』
という2ページの文を、私は最後に引用したかった。
ということで引用をはじめます。
「こどもの詩雑誌『きりん』をだしはじめて、わたしは
いろいろなことを、子どもから教えられた。
・・・先生が・・だと子どもは、すぐに
詩とは何であるかを解し、せい一杯の作品をさしだす。・・・
大人が親切と熱心とを示すと、子どもはたちどころに
効き目をあらわして、ぐんぐんとすすむ。
詩というものが、数学とか科学といったように
問題を設けて、子どもの力をためすものでなく、
子ども本人が丸うつしにでてくるものだから、その微妙な
成長や停頓は、まるで手にとるように、よんでわかるのである。」
はい。私はこの2ページ文を引用したいために書いております。
もうすこし我慢して(笑)、引用をつづけさせてください。
「 直接、わたしが、詩をかく子どもに話をして・・・
そのときの印象では、
子どもは詩をかくことが、ほとんどみな好きらしいということであった。
子どもは常からかきたいことをたくさん感じているのだ。
しかし、かく方法がめんどうだったり、たいくつだったりして、
かかないのだ。そう思った。だから、なるべく、
楽な気もちで、あきのこない程度の方法を与えてやるがよい。
それには詩なんだ。そう思った。そんな印象を得た。
詩はめんどうな約束はないし、長くかく必要もないし、
ほかの文学形式とくらべて、いちばん子どもに似合っている。
だから、詩をかく子どもに出あって、話をすると、
みなにこにこして楽しそうにわたしをみつめた。
わたしが詩をかく人間だと知って警戒しないのである。
仲間だと思うのである。わたしの方でも、子どもを
仲間だと思って、くだけてたのしく話をした。
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いずれ、忘れっぽいのがあたりまえの子どもは、
詩を作るのを忘れてしまうだろう。
十五六歳にもなればきっと忘れてしまう。それでかまわない。
子どものころに、感じる訓練と、それを述べる訓練
とを経ただけで、それは十分ねうちがある。
子どもよ、詩をかく子どもよ、すこやかなれ。 」
はい。この竹中氏の文が掲載された本は、
『 全日本児童詩集 1950 』(尾崎書房・1950年)でした。
短歌もそうで、基本的に何を詠っても良い、だれにも遠慮しなくていいから良いのでしょう。
詩や短歌に道徳を持ってくると、いっぺんにつまらなくなります。
子供たちはよくわかっています。
コメントありがとうございます。
「 詩をかく子どもよ、すこやかなれ 」
とは、竹中郁。
岸田衿子の詩に「 てがみ 」があります。
どういうわけか、一読忘れられない詩です。
どういうわけか、ここに引用したくなった。
てがみ 岸田衿子
どうしていますか
こちらは まひるの星が出ています
つかれましたか
もうじき 新しい椅子が届きますよ
いま 南に向いた岬では
さやえんどうの出荷です
午后は 雨です
なに色の傘さして でかけますか
夕かた 林の道の奥で
オーボエがなるのを聞くでしょう