山本七平著「精神と世間と虚偽 混迷の時代に知っておきたい本」(さくら舎)
のページ最後にはこうありました。
「 本書は文藝春秋『諸君!』に連載の
『 山本七平の私の本棚から 』(1982年6月~1985年8月)
を再構成し、まとめたものです。・・・ 」
雑誌掲載ののち、さくら舎がはじめて単行本(2016年)化したことになる。
山本七平と本の間柄も、本の紹介(書評)の枕として、挿入されております。
たとえば、
「 趣味が読書だとすべてをまことに漫然と読みはじめる。
小林秀雄も確か武者小路実篤氏の『論語』を評したとき、
『 いつものやうに漫然と読みはじめ・・・ 』
といった言葉があったように記憶する。
私の記憶違いで、他の本の批評だったかもしれないが、
この『 いつものやうに漫然と・・ 』という言葉を
30年以上記憶しているところを見ると、
何か共感を感じたのであろう。漫然と読んでいると、
時々ふと読書をやめて他のことを考えている自分に気づく。 」(p33)
これは、京極純一著「日本の政治」をとりあげた文の導入部でした。
そのあとに、こうありました。
「 そしてまた我に返って読みはじめる。
私はこういう読み方が楽しいのだが、
『 日本の政治 』を読みはじめてすぐ感じたことは、
『 まてよ、京極先生、『 老子 』の愛読者じゃないのかなあ 』
ということであった。
もっともこれは私の勝手な連想で、そうでないのかもしれない。
だがそのような連想をしたのは、
『 其の鋭を挫き、其の紛を解く 』(「老子」四章)という言葉を
思い出したからである。この言葉はさまざまに解釈できるであろうが、
『 一刀両断、ずばりとものごとを割り切るような鋭さを挫き、
もつれた糸を根気よく解くほうがよい 』の意味、
諸橋轍次(もろはしてつじ)氏はこれを
『 世の中の文化や文明は、条理の整った一つの複雑さ 』を持つから、
根気よくこれを解いていくのがよいとした、と解説されている。
そして本書はまさに、西洋文明と中国文明と日本文化が
『 糸のもつれのような紛雑 』(諸橋氏の言葉)さでからみあっている
日本の政治に『 其の紛を解く 』という形で迫っているからである。」
(p34)
あとすこし、引用してみます。
「 ・・・『あとがき』には次のようにある。
この書物の目的は『日本の政治』のいくつかの側面について
記述し説明することであって、
日本の政治の現在について評論し、
日本の政治の将来について唱道(しょうどう:先に立って唱える)
することではない。
教室で授業を聞き、試験を受け、単位を取り、
卒業しなければならない立場にある学生・・に対して、
教師が一方的に評論と唱道を提供することは、
マックス・ウェーバーを俟(ま)つまでもなく、フェアでない。
しかし、人間交際のなかで、言葉が認知・評価・指令の三側面を
多少とも共存させ、表現が報道・解説・評論・唱道の四側面に
多少ともわたることは、避けがたい事実である。
この点を考え、この書物のなかでは評論、とくに唱道
にわたることを、気のつく限り、避けたつもりである。 」(p35)
この本の目次をひらくと、目次の見出数から判断して、
すくなくとも22冊の本が紹介されているようです。
これから、辻善之助著『日本文化史』を読みはじめようとする私には
この推薦本の並びは目の毒というもの。私は京極氏の本は読まない
だろうけれども、『 すべてはまことに漫然と 』読みはじめる
ということが、私にもけっしてないとは言えないので引用しました。
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