徳川家康・明治天皇・道元と三人へ補助線をひきたくなりました。
まずは徳川家康。
1590年、豊臣秀吉の命令で家康は江戸に転封を命ぜられた。関が原の戦いがはじまる10年前のことであった。・・彼らが江戸に入ったときに眼にしたもの、それは何も育たない湿地帯が延々と続き、崩れかけた江戸城郭だけがぽつんとある荒涼とした風景であった。家康はこの粗末な江戸城郭に入ったが、城の大修復や新築には取り掛からなかった。江戸城の本格建築に着手するのは関が原の戦いの後であり、五層の天守閣の江戸城が完成するのは三題将軍家光の時代である。(昨日のブログからまた引用)
つぎは明治天皇。
これは鼎談「同時代を生きて」(岩波書店)から引用。
それは石川啄木についてドナルド・キーン氏が語っている箇所でした。
彼は、岩手県の山奥で育った人間ですが、どうしてかわかりませんが、そんな辺鄙なところの小学校を出たばかりなのにワーグナーの音楽を知っていたし、ワーグナーに歌を捧げています。また、イプセンも訳していました。すごい教育だったと思います。世界で、特に中心から遠いところであんな教育をしていたのは、日本だけだったかもしれません。アメリカは決してそうじゃなかったし、フランスもそうでなかったと思います。そういうところで、英語もけっこうできるようになっています。短いものだけですが、英語でものを書いています。文法の誤りはありますが、きわめて面白い、味のある英語です。その頃まで、日本の教育はたいへん進んだものでした。あらゆるところに小学校ができ、中学校ができ、特定のところに高等学校もできました。そして、一流の教育がなされました。日本の政府に、そんなにお金がなかった時代でしたけれども、外国人の教師を呼んでいます。
変な言い方ですが、それは投資として最高のものでした。そういうふうにお金を使ったことが、日本のためになったのです。もし、そのときに同じお金で、たとえば皇室が素晴らしい宮殿を造ったとすれば、ぜんぜん違っていたでしょう。しかし、明治天皇は新しい宮殿建造を断っています。皇居が火事で焼けたのですが、新しい皇居を造るという話が出るたびに、いつも断っていました。それは、ほかの国の歴史にちょっとないことです。また、明治天皇の立像がどこにもないとうのも偉いと思います。
ヨーロッパのどんな小さな国へ行っても、君主の立像とか、乗馬姿の像などが必ずありますが、明治天皇にはそれがまったくないんです。それはたいしたものだと思います。・・・なかったのはそうとうのものだと思います。(p180)
つぎは道元の「正法眼蔵随聞記」の5-10「楊岐山の会禅師」
水野弥穂子の現代語訳から
示に云く、楊岐山の会禅師、住持の時、寺院旧損してわづらひ有りし時に、知事申して云く、『修理有るべし。』
会云く、『堂閣やぶれたりとも露地樹下には勝れたるべし。一方やぶれてもらば一方のもらぬ所に居して座禅すべし。堂宇造作によって僧衆得悟すべく者、金玉をもてもつくるべし。悟りは居所の善悪によらず。ただ座禅の功の多少に有るべし。』と・・・
そして、こう云うのでした。
ただ仏道のみにあらず。政道も是のごとし。太宗は【居家】をつくらず。
ちなみに、「正法眼蔵随聞記」に唐の太宗が登場するのは
1-10 3-3 4-6 5-6 5-10 と数えられます。
この道元・家康・明治天皇という補助線の先には
どうやら「貞観政要」がある。
ということで、
渡部昇一・谷沢永一対談「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)
のはじまりを引用。
「この本は唐の太宗が諌議大夫(かんぎたいふ)や諌臣(かんしん)たちと交わした対話をまとめた本です。貞観というのは唐の太宗が在位していたときの年号ですね。・・・この『貞観政要』は遅くとも桓武天皇の時代には日本に入っていたようです。それが藤原南家と菅原家というふうに別に伝わってきて、当時の歴代天皇、あるいは北条、足利、徳川といった為政者たちがこの本を学んでいます。そのことからもわかるように、『貞観政要』には『皇帝・帝王とはどうあるべきか』あるいは『政治とはどうするべきか』が極めて具体的に記されているんです。」(p21)
この対談本には、徳川家康についても、語られておりますので、引用。
【渡部】それから徳川家康も読んでいたと。徳川時代は儒教の時代といいますが、本当は孔子よりも『貞観政要』のほうを重視していたような感じを受けますね。家康も『論語』を一生懸命勉強しましたが、本当に役に立つと思ったのは『貞観政要』のほうだったのではないかと。
【谷沢】家康の命令で慶長年間に木版の『貞観政要』が出ていますからね。駿河版と言いますが、それが出版された年は関ヶ原の戦いより前なんです。家康はすでにその時点で天下を治めるための心がけをちゃんと考えておったわけですね。
・・・・・・・・
【渡部】『論語』や『孟子』は家来が読んでもいいものですが、『貞観政要』は君子、殿様でないとあまり関係ないんですよ。だから、徳川家とか上杉鷹山とか、ああいう人たちは一生懸命読んだと思います。(p30~31)
まずは徳川家康。
1590年、豊臣秀吉の命令で家康は江戸に転封を命ぜられた。関が原の戦いがはじまる10年前のことであった。・・彼らが江戸に入ったときに眼にしたもの、それは何も育たない湿地帯が延々と続き、崩れかけた江戸城郭だけがぽつんとある荒涼とした風景であった。家康はこの粗末な江戸城郭に入ったが、城の大修復や新築には取り掛からなかった。江戸城の本格建築に着手するのは関が原の戦いの後であり、五層の天守閣の江戸城が完成するのは三題将軍家光の時代である。(昨日のブログからまた引用)
つぎは明治天皇。
これは鼎談「同時代を生きて」(岩波書店)から引用。
それは石川啄木についてドナルド・キーン氏が語っている箇所でした。
彼は、岩手県の山奥で育った人間ですが、どうしてかわかりませんが、そんな辺鄙なところの小学校を出たばかりなのにワーグナーの音楽を知っていたし、ワーグナーに歌を捧げています。また、イプセンも訳していました。すごい教育だったと思います。世界で、特に中心から遠いところであんな教育をしていたのは、日本だけだったかもしれません。アメリカは決してそうじゃなかったし、フランスもそうでなかったと思います。そういうところで、英語もけっこうできるようになっています。短いものだけですが、英語でものを書いています。文法の誤りはありますが、きわめて面白い、味のある英語です。その頃まで、日本の教育はたいへん進んだものでした。あらゆるところに小学校ができ、中学校ができ、特定のところに高等学校もできました。そして、一流の教育がなされました。日本の政府に、そんなにお金がなかった時代でしたけれども、外国人の教師を呼んでいます。
変な言い方ですが、それは投資として最高のものでした。そういうふうにお金を使ったことが、日本のためになったのです。もし、そのときに同じお金で、たとえば皇室が素晴らしい宮殿を造ったとすれば、ぜんぜん違っていたでしょう。しかし、明治天皇は新しい宮殿建造を断っています。皇居が火事で焼けたのですが、新しい皇居を造るという話が出るたびに、いつも断っていました。それは、ほかの国の歴史にちょっとないことです。また、明治天皇の立像がどこにもないとうのも偉いと思います。
ヨーロッパのどんな小さな国へ行っても、君主の立像とか、乗馬姿の像などが必ずありますが、明治天皇にはそれがまったくないんです。それはたいしたものだと思います。・・・なかったのはそうとうのものだと思います。(p180)
つぎは道元の「正法眼蔵随聞記」の5-10「楊岐山の会禅師」
水野弥穂子の現代語訳から
示に云く、楊岐山の会禅師、住持の時、寺院旧損してわづらひ有りし時に、知事申して云く、『修理有るべし。』
会云く、『堂閣やぶれたりとも露地樹下には勝れたるべし。一方やぶれてもらば一方のもらぬ所に居して座禅すべし。堂宇造作によって僧衆得悟すべく者、金玉をもてもつくるべし。悟りは居所の善悪によらず。ただ座禅の功の多少に有るべし。』と・・・
そして、こう云うのでした。
ただ仏道のみにあらず。政道も是のごとし。太宗は【居家】をつくらず。
ちなみに、「正法眼蔵随聞記」に唐の太宗が登場するのは
1-10 3-3 4-6 5-6 5-10 と数えられます。
この道元・家康・明治天皇という補助線の先には
どうやら「貞観政要」がある。
ということで、
渡部昇一・谷沢永一対談「『貞観政要』に学ぶ 上に立つ者の心得」(到知出版社)
のはじまりを引用。
「この本は唐の太宗が諌議大夫(かんぎたいふ)や諌臣(かんしん)たちと交わした対話をまとめた本です。貞観というのは唐の太宗が在位していたときの年号ですね。・・・この『貞観政要』は遅くとも桓武天皇の時代には日本に入っていたようです。それが藤原南家と菅原家というふうに別に伝わってきて、当時の歴代天皇、あるいは北条、足利、徳川といった為政者たちがこの本を学んでいます。そのことからもわかるように、『貞観政要』には『皇帝・帝王とはどうあるべきか』あるいは『政治とはどうするべきか』が極めて具体的に記されているんです。」(p21)
この対談本には、徳川家康についても、語られておりますので、引用。
【渡部】それから徳川家康も読んでいたと。徳川時代は儒教の時代といいますが、本当は孔子よりも『貞観政要』のほうを重視していたような感じを受けますね。家康も『論語』を一生懸命勉強しましたが、本当に役に立つと思ったのは『貞観政要』のほうだったのではないかと。
【谷沢】家康の命令で慶長年間に木版の『貞観政要』が出ていますからね。駿河版と言いますが、それが出版された年は関ヶ原の戦いより前なんです。家康はすでにその時点で天下を治めるための心がけをちゃんと考えておったわけですね。
・・・・・・・・
【渡部】『論語』や『孟子』は家来が読んでもいいものですが、『貞観政要』は君子、殿様でないとあまり関係ないんですよ。だから、徳川家とか上杉鷹山とか、ああいう人たちは一生懸命読んだと思います。(p30~31)
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