窪田空穂著「現代文の鑑賞と批評」に、国木田独歩の『牛肉と馬鈴薯』が登場しておりました。ここで、窪田氏は指摘しております。
「独歩の文章は特色の多いものだ。形の上から見ると、いはゆる文章の調子をぬいてゐること、独歩の文章の如きものは極めて稀れである。文章の調子は棄て難いものだ。調子のある文章は書くに書きやすい。読むにも読みやすい。そこには一種の甘美がある。それでゐてこの調子は、得ようとすれば容易に得られるものである。棄てるには余程の信念がないと棄てられない。独歩は棄ててゐるようだ。文章の調子を棄てた代りに何を得てゐるかといふに、心の調子を拾つてゐる。
独歩の文章ほど引きしまつた、そしてはつきりした文章はない。今一句一句について見ても、一音の無駄もない、出来るだけ引きしまつたものにしてゐる。同時に、はつきりと言ひ切つて、聊かの曖昧も、陰影も持たせてはゐない。句を連ねる上で、多くの人の愛用する接続詞さへ殆どない。その結果、文章は、強く鋭い。これが特色である。
この文体は、独歩の生み出したものと見える。さういへば独歩の文章には、古典の影響が認められない。西洋の小説の影響は受けてゐても、それは大体の上の事で、文章の上には、それも認めるに困難だ。思ふにこの文体が、独歩の気分であつたらう。真実を求めてやまない独歩は、文体を外に求めずして内に求めたと見える。もし調子といふ言葉でいへば、この言葉の調子のない、しかし強くはつきりとした文体が、独歩の心の調子だつたらうと思はれる。
次ぎに思はせられる事は、独歩の文章はいふがやうであるが、事件を発展させて行く上では、一本調子ではない。それどころではなく、むしろ変化に富んでゐる事である。これは心の視野(変な言葉だが)が広くて、余裕がある為と、頭脳が極めて明敏に働くが為だと思はれる。
次ぎに、独歩の文章には、ユーモアが伴つてゐる。をりをり笑はせられる。好い意味のユーモアで、強ひて説明すれば、余りにも心相を明確にいはれる為に、或る滑稽味が添つて来て、快くて笑はせられるともいふべきものである。これらが独歩の文章の魅力になつてゐる。・・」(p453)
窪田空穂全集第11巻「近代文学論」には、国木田独歩も登場しておりまして、こちらの方が、実際の独歩が浮び上がってくるので、興味深いものでした。そこには「独歩の文章」と題した文が載っております。こうはじまっておりました。
「国木田独歩という人は、好んで物を言う肌あいの人ではなかった。饒舌というのとは明らかに反対な人で、人なかにいる場合でも、独り書斎にいる時のように、沈痛な面持ちをして、何か考えているような様子をしている人であった。しかし何らかの刺激で口を開くと、すぐむきになって、いわゆる赤心を披瀝して物を言い出すのであった。熱をこめた簡潔な言葉は甚だ魅力的で、聞いた者には忘れられない印象を与えるところから、時とすると、『独歩の例の毒舌で』などと、さも饒舌家ででもあるかのように評されることもあった。そうした独歩の談片で、今なお私の記憶に残っている言葉が、ある程度ある。・・・独歩は言う。『文芸ってものは、人生って上からいうと、限界のある小さなものだよ。人生の真を表現するなんていうが、あれは人生ってものを知らない時にいうことで、実行すると失望するに決まっている。失望したらとっとと棄てて、むきになって人生と取っ組むんだね。それをしている中に、文芸ってものもまんざらな物じゃないと思い出して、もう一度拾いあげた時に、初めて文芸になってくるよ。大体そうしたものだね』
これが独歩の文芸に対する評価であった。言葉はちがっていようが、主旨はこのとおりであった。」(p71)
ちがうページでは、こうも書かれております。
「独歩の座談は実に魅力があった。言葉かずは多くはなく、また自然で、淡々と話相手をしているのであるが、その言うことはすべて真率で、つと調子づいてくると、警句が口を衝いて出てきて、そのまま消えゆかせるのはもったいない感のするものが多かった。」(p79)
この後に、独歩の金銭に対する処し方のエピソードが紹介されているのでした。
「独歩の文章は特色の多いものだ。形の上から見ると、いはゆる文章の調子をぬいてゐること、独歩の文章の如きものは極めて稀れである。文章の調子は棄て難いものだ。調子のある文章は書くに書きやすい。読むにも読みやすい。そこには一種の甘美がある。それでゐてこの調子は、得ようとすれば容易に得られるものである。棄てるには余程の信念がないと棄てられない。独歩は棄ててゐるようだ。文章の調子を棄てた代りに何を得てゐるかといふに、心の調子を拾つてゐる。
独歩の文章ほど引きしまつた、そしてはつきりした文章はない。今一句一句について見ても、一音の無駄もない、出来るだけ引きしまつたものにしてゐる。同時に、はつきりと言ひ切つて、聊かの曖昧も、陰影も持たせてはゐない。句を連ねる上で、多くの人の愛用する接続詞さへ殆どない。その結果、文章は、強く鋭い。これが特色である。
この文体は、独歩の生み出したものと見える。さういへば独歩の文章には、古典の影響が認められない。西洋の小説の影響は受けてゐても、それは大体の上の事で、文章の上には、それも認めるに困難だ。思ふにこの文体が、独歩の気分であつたらう。真実を求めてやまない独歩は、文体を外に求めずして内に求めたと見える。もし調子といふ言葉でいへば、この言葉の調子のない、しかし強くはつきりとした文体が、独歩の心の調子だつたらうと思はれる。
次ぎに思はせられる事は、独歩の文章はいふがやうであるが、事件を発展させて行く上では、一本調子ではない。それどころではなく、むしろ変化に富んでゐる事である。これは心の視野(変な言葉だが)が広くて、余裕がある為と、頭脳が極めて明敏に働くが為だと思はれる。
次ぎに、独歩の文章には、ユーモアが伴つてゐる。をりをり笑はせられる。好い意味のユーモアで、強ひて説明すれば、余りにも心相を明確にいはれる為に、或る滑稽味が添つて来て、快くて笑はせられるともいふべきものである。これらが独歩の文章の魅力になつてゐる。・・」(p453)
窪田空穂全集第11巻「近代文学論」には、国木田独歩も登場しておりまして、こちらの方が、実際の独歩が浮び上がってくるので、興味深いものでした。そこには「独歩の文章」と題した文が載っております。こうはじまっておりました。
「国木田独歩という人は、好んで物を言う肌あいの人ではなかった。饒舌というのとは明らかに反対な人で、人なかにいる場合でも、独り書斎にいる時のように、沈痛な面持ちをして、何か考えているような様子をしている人であった。しかし何らかの刺激で口を開くと、すぐむきになって、いわゆる赤心を披瀝して物を言い出すのであった。熱をこめた簡潔な言葉は甚だ魅力的で、聞いた者には忘れられない印象を与えるところから、時とすると、『独歩の例の毒舌で』などと、さも饒舌家ででもあるかのように評されることもあった。そうした独歩の談片で、今なお私の記憶に残っている言葉が、ある程度ある。・・・独歩は言う。『文芸ってものは、人生って上からいうと、限界のある小さなものだよ。人生の真を表現するなんていうが、あれは人生ってものを知らない時にいうことで、実行すると失望するに決まっている。失望したらとっとと棄てて、むきになって人生と取っ組むんだね。それをしている中に、文芸ってものもまんざらな物じゃないと思い出して、もう一度拾いあげた時に、初めて文芸になってくるよ。大体そうしたものだね』
これが独歩の文芸に対する評価であった。言葉はちがっていようが、主旨はこのとおりであった。」(p71)
ちがうページでは、こうも書かれております。
「独歩の座談は実に魅力があった。言葉かずは多くはなく、また自然で、淡々と話相手をしているのであるが、その言うことはすべて真率で、つと調子づいてくると、警句が口を衝いて出てきて、そのまま消えゆかせるのはもったいない感のするものが多かった。」(p79)
この後に、独歩の金銭に対する処し方のエピソードが紹介されているのでした。
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