和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

『老の友』との遭遇。

2022-07-07 | 古典
谷沢永一と渡部昇一対談「平成徒然談義」(PHP研究所・2009年)。

その「結びにかえて」で谷沢さんは、
中村幸彦の「徒然草受容史」から引用しながら
こう指摘しておりました。


「 『徒然草』の魅力は、新しい感受性を受け、
   改めてこの時期に発見されたのである。

   執筆されてからほぼ百年後という推定は動かし難い。
   時代が『徒然草』を文化の正面に誘い出したと見做し得よう。

   画期的な功労者は連歌師の正徹(しょうてつ)であり、
   彼が永享3年に書写した本には、感ニ堪エズ、と記されている。
    ・・・
   細川幽斎は一子に写させて、老の友としたと伝える。
   これが享受の始源であり、期せずして評価の方向が定まった。」


この対談本を以前、読んでいたのですが、いまやっと、
この箇所の意味が了解できて、飲み込めた気がします。
ということで、もうすこし引用をつづけます。

「  近世の風潮を一語で要約するなら、
   それは表現意欲の幅広い高まりである。

   多くの人々が均し並みに自己表現へ赴いた。
   けれども、その根強い志向は必ずしも
   一筋道としては発現しない。思想性の重視という
   時代の制約が依然として力を発揮している。

   それが儒学および佛教という足枷となって機能した。
   『徒然草』もまた従来の固定観念が形成する磁場に
   引き寄せられて解釈される。

   それを許す一面が備わっている事情が
   『徒然草』ブームを誘発した基盤であろう。
   『徒然草』が古典としての地位を得たのには、
   過ぎ去り行く一時代前の常識をも許容する
   側面があったことも否定できない。

   しかし社会的制約は必ず移転していく。
   思想性の固執を撥ね返す要素が
   『徒然草』の内容にはしっかりと根を下ろしていた。

   それがすなわち物語性である。『徒然草』には
   骨格の強靭な短編小説が多く埋めこまれているではないか。
    ・・・・・・・

   『徒然草』の本質は物語なのである。・・・
   まだ小説とまでは評価できない段階にあるとはいえ、
   物語の成立に最も近い散文表現が提示されている。

   小説を小説たらしむる
   虚構の組み立てが足場として実現した。

   この点が『徒然草』の登場が問題となる要素であろう。」


この対談本で、いつか徒然草を通読したいと思いました。
その機会が、ようやくこうして、めぐってきております。

対談では、読むのにボタンの掛け違いを指摘する箇所があります。
うん。そこを引用してみます。

渡部】 ・・・・・我が身を振り返ると、端から見たら・・
    いい歳をして、受験参考書によく出てくる
    『徒然草』を種にしゃべっているのは浅ましいとか(笑)。

谷沢】 そうです。『あいつら、何がしたいのか』と端から
    思われることは十分覚悟しないといけませんね。

    いまは受験勉強が、学問することだという勘違いも多いですし、
   『徒然草』を読んだのは受験のためという人が多いでしょうからね。
       ・・・                ( p73 )


谷沢】 ・・・・そもそも近代以前の日本において、
    学問は人間の精神を養うためのものでした。

    つまり、人間学、社会学のテキストとして
    『論語』を筆頭に漢籍を読んだわけです。

    一方、チャイナで四書五経を学ぶのは、
    科挙に受かって高級官僚になるためでした。

    学ぶ姿勢が違うと、当然ながら
    同じ漢籍を読んでも、違う結論にいたります。

    たとえば、江戸時代の儒学者・伊藤仁斎の
   『童子問』は『譲りの精神』が説かれていますが、
    チャイナで『譲りの精神』は出てきません。   ( p74 )

はい。わたしは、この対談をすっかり忘れておりました。
いつかは徒然草を、きちんと読んでみようと思ったのは、
この対談を読んでからです。それがやっとめぐってきた。

『未知との遭遇』じゃないけれども、
『老の友』『感に堪えず』との遭遇。

   

コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« でなければ、あれほど。 | トップ | 吉田兼好の宗派? »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
おはようございます(^^♪ (のりぴー)
2022-07-07 09:05:16
これぞ目から鱗の徒然草論に寝ぼけ眼が開いた思いでおります。

『徒然草には骨格が強靭な短編小説が多く埋め込まれているではないか』・・・とは初めて聞くご意見。

そして・・・『近代以前の日本において、学問は人間の精神を養うためのものでした・・・』 『一方チャイナで四書五経を学ぶのは、科挙に受かって高級官僚になるためのものでした』

根底に譲りの精神がある(残っている?)日本がチャイナと渡り合うのは大変なことだ・・・などと妙に納得したりしています(^_-)
返信する
おはようございます。 (和田浦海岸)
2022-07-07 09:28:18
おはようございます。のりぴーさん。
コメントありがとうございます。

昨日、高速バスで出かけていたので、
バスの中で読もうと、この対談本を
入れといたのですがほとんど読まず
寝ておりました。

はい。「寝ぼけ眼が開いた」との指摘
ちょうど、昨日バスで寝ていたことを
思いうかべてしまいました。

うん。わたしゃよく寝ます。
この頃は、寝て起きてから、
ブログへ引用書きパターン。
返信する
因果律  (kei)
2022-07-07 11:56:46
「この対談を読んでから、いつかは徒然草を、きちんと読んでみようと思った」
巡ってきた今。この機会。
人生に「布置」された出会いなのでしょう。

思いを眠らせていた間にも様々なことを身に添わせ、今に。
旺盛な好奇心を感じさせていただいてます。
羨ましいほどです。
返信する
Unknown (和田浦海岸)
2022-07-08 03:50:56
おはようございます。keiさん。
昨日は二箇所にコメントありがとうございます。
こちらへの、コメントへのご返事でお礼に替え
させていただきます。

keiさん。keiさん。
keiさんのコメントで思い浮かぶ本がありました。

河合隼雄・長田弘対談「子どもの本の森へ」の
はじめのほうに、それはありました。

長田】 子どもの本というのは
『読まなきゃいけない』本というんじゃないですね

  そうじゃなくて『読みたい』と
  ずっと心にのこっている本。

  子どものときに読まなかった子どもの本が、
  記憶のなかにいっぱいのこってる。

  だけど、そうやって記憶のなかに
  ツンドク(積ん読)だけで読まなかった
  子どもの本というのを、大人が自分のなかに
  どれだけ持っているかが、じつは
  その大人の器量を決めるんじゃないかなあ。

               ( p5 )


はい。自分は自分なりなのですが、
『積ん読だけで読まなかった本』
というのがリアルでこりゃ誰にも
負けたくないなあと妙な空威張り。


うん。『読まなかった本』と
どう折り合いがつけられるか。
後は楽しみながらゆくことに。

さあ。島内裕子さんのガイドで
大雑把ながら最後まで完走です。

コメントいただきながら励まされ。
今回も、ありがとうございました。
返信する

コメントを投稿

古典」カテゴリの最新記事