和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

でなければ、あれほど。

2022-07-06 | 古典
今日は、朝五時発の高速バスで東京へ買い出し。
汗だくになり、トイレで半袖肌着を着替える。
うん。午後にはそうそうに帰ってくる。

さてっと、徒然草。
第155段をひらくと、思い浮かんぶ本がありました。

小林秀雄著「考えるヒント」(昭和39年)。そこに、
「青年と老年」と題する4~5頁ほどの文。
この文には、堀江謙一の名が登場します。

そうそう、今年2022年6月4日に83歳でヨットで
無寄港太平洋単独横断を達成の記事がありました。
その堀江謙一の名が登場する「青年と老年」です。

うん。ここは小林秀雄のこの短文を紹介することに。
まず、この短文のはじまりは、こうでした。

「『つまらん』と言ふのが、亡くなった正宗さんの口癖であった。
『つまらん、つまらん』と言ひながら、何故、ああ小まめに、
飽きもせず、物を読んだり、物を見に出向いたりするのだろうと
いぶかる人があった。しかし、『つまらん』と言ふのは
『面白いものはないか』と問ふ事であろう。

正宗さんといふ人は、死ぬまでさう問ひつづけた人なので、
老いていよいよ『面白いもの』に関してぜいたくになった人なのである。」


うん。こうして引用してみると、何んだか、
徒然草のどこかを読んでる気分になります。

さてっと、小林秀雄は、そのつぎに徒然草の第152段の
ことに触れて、その内容をちょこと紹介してからでした

「 徒然草のことを言ったからついでに言ふと、
  兼好は、かういう事を言ってゐる。

  死は向こうからこちらへやって来るものと皆思ってゐるが、
  さうではない、実は背後からやって来る、

  沖の干潟にいつ潮が満ちるかと皆ながめてゐるが、
  実は潮は磯の方から満ちるものだ。   」

はい。これは随筆なので徒然草のどこにあるのかなんてことは
示してはおられなかったので、読後すっかり忘れておりました。
今回それが、徒然草第155段の最後にあるのだと了解しました。

せっかくですから、第155段の原文のはじまりとおわりとを引用。
はじまりは

「 世に従はん人は、先づ、機嫌を知るべし。 」

そして、おわりはというと

「 死期は、序(つい)でを待たず。
  死は、前よりしも来(きた)らず、
  予(かね)て、後ろに迫れり。

  人皆、死有る事を知りて、待つ事、
  しかも急ならざるに、覚えずして来る。

  沖の干潟、遥かなれども、
  磯より潮(しほ)の満つるが如し。  」


ちなみに、小林さんは、ここを『現代風に翻訳すると』
としてありますので、すこし端折って引用してみることに

「 死は向うから私をにらんで歩いて来るのではない。
  私のうちに怠りなく準備されてゐるものだ。

  私が進んでこの準備に協力しなければ、
  私の足は大地から離れるより他はあるまい。

  死は、私の生に反して他人ではない。
  やはり私の生の智慧であらう。

  兼好が考へてゐたところも、
  恐らくさういふ気味合ひの事だ。

  でなければ、あれほど世の無常を説きながら、
  現世を生きる味ひがよく出た文章が書けたはずもない。」


このあとに、昭和37年度の、文学的一事件に数えられた
堀江謙一『太平洋ひとりぼつち』を語ってゆくのでした。
こちらも紹介してしまうと、徒然草の簡潔さがなくなる。
ここまで。ちなみに『考えるヒント』は文庫で読めます。




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1 コメント

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「現世を生きる味ひ」 (kei)
2022-07-07 11:08:22
「あれほど世の無常を説きながら、
現世を生きる味ひがよく出た文章…」

無常の書でありながら、人生を豊かに生きるコツのようなものを学ばせてもらえます。
言ってることがぶれるような感じでも、
そこは何層にもなる思考の姿なのだろうととらえながら。

死は前からくるとは限らない、いつの間にかもう後ろに迫っている。
ドキッとさせられるのです。
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