気になる古本があったので買ってありました(1200円なり)。
揚暁捷著「鬼のいる光景」(角川選書・平成14年)。
副題が「『長谷雄草紙』に見る中世」とあります。
はい。本棚から取りだし序章をひらく。
うん。序章だけならとお気楽にひらく。
なんでも、『和漢朗詠集』にはいっている平安前期の
文章博士紀長谷雄(きのはせお)の詩が引用されはじまっております。
「長谷雄個人の文集や詩集はまとまった形では一巻も伝わらないなか、
この詩だけは、作詩の模範例として詩学書に収められ、
後世の人々に愛誦された。・・・」(p6)
そうして数ページあとに、こうあります。
「 一方では、朗詠とは、漢詩の一部分を取り出して吟唱し、
それをまとまりのある文学の世界から切り離すことを特徴とする。
人々に繰り返し唄われる佳句は、それが盛んに伝わるほどに、
句と最初に詠まれた詩との繫がりが忘れ去られ、そこからは
やがて独立した文学的イメージを作り出すことになる。
長谷雄の句も例外ではなかった。 」(p8)
「 この奇怪でどことなく愉快な、平安文人と鬼との話は、
ストーリー全体のプロットがそのままに一巻の絵巻となった。・・
絵巻という表現の形式を得て、長谷雄と鬼にまつわるこの説話は、
新たな精彩を放ち、文字だけによって記されるものでは及ばない
豊かな表現の世界を形作った。
朗詠集の注釈と絵巻の詞書と・・・・ 」(p12)
「 ともかく絵巻『長谷雄草紙』は、
注釈にも取り上げられた一つの説話にスポットを当て、
これを新たな表現手段によって再現したといえよう。
注釈と絵巻との間には、直線的な継承関係が認められないにせよ、
この両者にあり方に注目することにより、
漢詩、朗詠、そして絵巻という、多彩な表現の世界の
繫がりを感じ取ることができ・・・ 」
「 絵巻「長谷雄草紙」が制作されたころ、
この第一の鑑賞者だと想定される限られた階層の人々は、
このような文学・文化活動の成果をすべて共通した
教養として身に付けていたはずである。
この絵巻は、けっきょくのところそのような
鑑賞者を満足させることから出発した。
漢詩、朗詠、そして注釈といった表現の世界に精通し、
そのうえ、絵という表現形態でしかもたらしえない
新たな世界の創出にこそ、絵巻作者の本領があった。
その意味で、今日の読者としてこのような複数の
文学的世界を互いに参照させながら絵巻の読解に立ち向かえることは、
一つの素晴らしい文学体験になるはずである。 」(p14)
はい。今日は序章を読んで満腹。