鷲田清一著「京都の平熱」(講談社)。
古本(300円)で買ってあった(帯つき新刊なみ)。
読まないのに古本は買う。買うけど読まない。
ということで、未読の本棚をあらためて見る。
まるで、街でなにげにすれ違っていているのに、
ちっとも、気がつかないで過しているような(笑)。
う~ん。どうやら京都に住んでいる方も、
京都に気づかないでいるかもしれない。
ということに気づかせてくれる『京都の平熱』。
そのはじまりは、バス乗り場からはじまります。
「ずいぶん久しぶりの206番だ。
生まれてこのかた、ずっとこの路線沿いに住み、
生きてきたけれど、通学にしろ遊びにしろ、
いつもこの路線を横切るかたちで生きてきたので、
この206番、めったに乗ることがなかったのだ。
この路線沿いには、名高いお寺がぎゅうぎゅうづめに並んでいる。
しょっちゅう前を通るが、わずかをのぞいてあまり入ったことがない。
西本願寺は生まれ育った家から200メートルの距離にあり、その前の
大通りで野球をし、壁に傷をつけ、くたびれたら境内に入ってまず、
龍の姿をした『お手水』で頭を洗い、そのあと休憩所で冷たいお茶も
いただいたけれど、肝心の飛雲閣(ひうんかく)は40を過ぎてやっと
お目にかかることになる。この路線からちょっとはずれるが、
10年通った大学から15分もあれば歩いてゆけた銀閣寺、
これはまだ足を踏み入れたことがない。
庭がいいとさんざ聞かされた東福寺も入ったことはないし、
広隆寺の弥勒菩薩も美術の教科書でしか見たことがない。
南禅寺と高台寺は数年前、遠来の客人とともにはじめて訪れた。
金閣寺と龍安寺は30歳を過ぎてから。・・・」
はい。これが鷲田清一著「京都の平熱」のはじまり。
その数頁を読み、あとは足を踏みいれずに本棚へ。
うん。京都で、ちょいとすれ違った鷲田さんでした。
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