震災に際して、その地区の死亡者数を確認する場合に、
どうしても、地元の地区の人が確認する。ことになるのでしょうか?
震災の被害の当事者でありながら、現場の震災状況を把握するのに、
地元の当事者としての確認が、必要不可欠となります。
被災者の当事者であり、同時に現状の把握者とならなければならない。
そんなことを、つい思ってしまいました。
さて、そういう視点から『 安房震災誌 』を紐解いてみます。
安房郡長大橋高四郎の、9月3日のことが記されております。
「3日になると、東京の大地震殊に火災の詳細な情報が到着した。
かくてはとても郡の外部の応援は望むべくもない、
1日の震後直ちに計画してゐたことも、
郡の外部に望を屬することはとても不可能である・・・
と郡長はかたく自分の肚を極めた。そこで・・・
・・4日の緊急町村会議は実に此の必要に基いた。・・・
したがって会議の目的は、各町村の震災の実況、
医薬、食料品の調査、青年団、軍人分会、其の他の応援が
主たる問題であったことはいふまでもない。・・・ 」(p277)
このすこしあとに『震災状況調査』とあります。そこを引用。
「 被害の状況が明白に調査されなければ、
救助計画も出来ない順序であるから、
被害調査は、第一着に手をつけたが、
調査の中枢機関たる町村役場が、何れも全潰または半潰の
悲惨な状態であるのと、道路も、交通機関も杜絶し、
その上町村吏員もまた均しく罹災者であるので、
その調査には大なる困難を感じた。
しかし、こうした状態の中にも、各町村は最大の努力で
時を移さず被害の状況をそれぞれ報告されたのである。
郡当局は、それを基調として対応策を決定することが出来た。
・・・・・・・・・・・ 」(p278~279)
『安房震災誌』には、第一編のはじまりに
「 『 震災状況調査表 』( 大正12年9月19日調 )安房郡 」
という一覧表があります。
一覧表の横は、各町村名が並び、縦は区別として、
総戸数・全潰戸数・半潰戸数・焼失戸数・流失戸数・・死亡数・負傷数・・
と区分けしてあります。
この『調査表』については、こうも記述されております。
「 だが一度調査したものを更らに精査したり、
又町村の応急施設指導の為めには、郡吏員は、
しばしば各町村に出張して、町村吏員を督励したりして、
調査の進捗を図ったのである。・・ 」(p279)
なるほど、南三原村の『調査表』(大正12年9月19日調)の数値は、
一年後の大正13年9月1日に建立された石碑『震災記念碑』に
記載され彫られている数値と同じでありました。
話しはかわりますが、
大正12年9月1日が、関東大震災。
令和6年1月1日は、能登大地震。
ここに、読売の古新聞をもらってきてありました。
うん。ところどころ欠けている日にちがあるのですが、
それは、もらって来た古新聞だからであります(笑)。
その古新聞をめくってみます。
1月3日読売新聞一面「能登震度7 死者48人」と見出し。
「1日午後4時10分頃、石川県能登地方を震源とする地震があり・・」
一面の、これが左上で、右上は「日航機 海保機と衝突」。
1月8日「能登地震圧死多数か」発生1週間「死者128人 避難2.8万人」
1月9日「能登積雪捜査阻む」「死者168人安否不明323人」
1月11日「雨で土砂災害警戒」「死者206人安否不明52人」
1月12日「感染症警戒2次避難急ぐ バスなど5700人分確保」
1月13日「中学集団避難200人超希望」
1月14日「避難者情報を一元化 県がシステム的確支援狙う」
1月15日「耐震遅れ圧死拡大」(能登地震現場報告)
1月16日「能登地震死者名を公表」
1月20日「能登地震 孤立集落『実質解消』」
ちなみに、20日の各市町の数値一覧を見ると合計で
『 死者232人(14)・避難者1万3934人・家屋被害2万9885棟 』
そして、カッコ内( )は災害関連死。となっておりました。
私は、『 安房郡の関東大震災 』という講習をするのですが、
安房震災誌に載る『震災状況調査表』(大正12年9月19日調べ)の
各町村からの合計数を最後に、ここに記しておきます。
総戸数 31,505
全潰戸数 10,808
半潰戸数 2,423
焼失戸数 424
流失戸数 71
死亡数 1,206
負傷数 2,954