1979年、フランスのベルサイユで鉄鋼技術の国際会議がありました。そこで中国の瀋陽にある東北大学の冀春林教授と北京科学技術大学の周栄章教授に会いました。集中講義に来てくれと言われ、1980年に両方の大学を訪問しました。それが中国を訪問する始めてでした。
終生忘れられない体験をしました。一つは熱狂的な日本人大歓迎の風潮です。中国の行く先々で日本人と分かると、歓迎の言葉を貰い、親切にして貰いました。それまで色々な外国へ行きました。しかし、日本人としてこれほど熱烈に歓迎された経験はありません。
もう一つ驚いた事がありました。街の雰囲気が殺伐として多くの建物が破壊され荒れていることです。公衆便所は使える状態ではありません。デパートへ行っても粗末な商品を奪い合うように多くの人々が行列をしています。北京の街路に面した家の前面には全て頑丈な鉄格子が嵌め込んであります。何か泥棒や強盗の多かった日本の終戦後の都会の雰囲気です。道路の路面には穴が多く開いていて、何時も土埃がたっています。人々は汚れた人民服を着て、疲れたような表情で街に溢れて、歩いています。その光景には胸が潰れる思いです。
その時こそ、まさに中国のある時代が終焉し、新しい改革開放の時代の始まる時期でした。
日本が太平洋戦争に敗れ、軍事国家から民主国家へ転換する時。その狂瀾怒濤の数年間にとても似ています。社会の大混乱と、新しい希望に燃える時期です。
中国では毛沢東が国民党との闘いで勝利し、共産主義国家として独立したのが1949年の10月。北京の天安門前の広場では独立を祝う人々が舞い踊っていたそうです。こんなに嬉しく、華々しい思いをしたことがありません。踊り狂ったある中国人から直接聞いたことがありました。しかし運命は暗転します。毛沢東の権力維持のための闘争で人々が辛酸を甞めさせられます。特に1966年から1976年の10年間続いた「文化大革命」という内戦では知識人が迫害され一般大衆も酷い生活を強いられました。1976年、毛沢東の死の直後に四人組が逮捕され、やっと内戦が終焉したのです。華国鋒が四人組を逮捕したのですが、その政治は毛沢東の延長でした。鄧小平が華国鋒を追いやり、やっと「改革開放」の政策が始まったのが1978年のころです。
鄧小平がそれまでの鎖国を止め、外国資本、先進技術を取り入れる方向に大きく舵を切ったのです。その時から、中国政府は日中友好政策をとり始めたのです。その頃の1980年に私が中国を訪問したのです。中国人は日本人に好意を示しました。私の歓迎ぶりは度を越していました。大学の公用車を運転手とともにつけてくれます。歓迎会は学長主催で北京の北海公園内の仿膳飯店で宮廷料理を出してくれました。家内もその料理の繊細さには感嘆していました。瀋陽でも東北大学の陸学長主催で歓迎会をしてくれたのです。そして陸学長は満州国の旅順工業大学を卒業したと言いながら日本人の教官を褒めてくれました。2つの大学だけでなく、中国科学院所属の金属物理化学研究所や非鉄金属研究所でも大歓迎を受けました。しかし一歩街に出ると荒れた道路や鉄格子付きの家々が土埃に汚れています。観光地へ案内されると紅衛兵に破壊されたお寺や廟がやたらに有ります。
私の理解を超えた大混乱が中国に有ったのです。何か正体のわからない驚愕に混乱しました。
1981年に訪問したときは、それほど歓迎されませんでした。社会も少し落ち着いてきたようです。1983年に訪問したときは普通の歓迎ぶりに変わっていました。街はまだ貧しげでしたがすっかり落ち着いています。
中国が日本の工場誘致に取り組むのはそれから何年かたってからです。しかし1989年の天安門事件までは鄧小平が実権を握っていましたので改革開放路線は続きます。
その後、江沢民が国家主席になってから靖国神社問題を取り上げる政策に変化したのです。この江沢民が権力を持った約10年間位は日中関係はギクシャクしました。中国を嫌う日本人が増えたのもこの時代です。現在の中国政府は現実的な政策をとっています。鄧小平の政策の延長のようで安心です。私は中国政府の政策が全て正しいと主張するつもりは毛頭ありません。しかし個人的に体験した中国社会の劇的な変化について個人的な感想を残して置きたいと記述したものです。いまは故人となられた、瀋陽の東北大学の冀春林教授と北京科学技術大学の周栄章教授のご冥福を祈り、生前のご厚情に何時までも感謝していることを申し上げます。(終わり)