後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日中友好熱狂の1980から1983年、そして忘れられない友人達

2009年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム

1979年、フランスのベルサイユで鉄鋼技術の国際会議がありました。そこで中国の瀋陽にある東北大学の冀春林教授と北京科学技術大学の周栄章教授に会いました。集中講義に来てくれと言われ、1980年に両方の大学を訪問しました。それが中国を訪問する始めてでした。

終生忘れられない体験をしました。一つは熱狂的な日本人大歓迎の風潮です。中国の行く先々で日本人と分かると、歓迎の言葉を貰い、親切にして貰いました。それまで色々な外国へ行きました。しかし、日本人としてこれほど熱烈に歓迎された経験はありません。

もう一つ驚いた事がありました。街の雰囲気が殺伐として多くの建物が破壊され荒れていることです。公衆便所は使える状態ではありません。デパートへ行っても粗末な商品を奪い合うように多くの人々が行列をしています。北京の街路に面した家の前面には全て頑丈な鉄格子が嵌め込んであります。何か泥棒や強盗の多かった日本の終戦後の都会の雰囲気です。道路の路面には穴が多く開いていて、何時も土埃がたっています。人々は汚れた人民服を着て、疲れたような表情で街に溢れて、歩いています。その光景には胸が潰れる思いです。

その時こそ、まさに中国のある時代が終焉し、新しい改革開放の時代の始まる時期でした。

日本が太平洋戦争に敗れ、軍事国家から民主国家へ転換する時。その狂瀾怒濤の数年間にとても似ています。社会の大混乱と、新しい希望に燃える時期です。

中国では毛沢東が国民党との闘いで勝利し、共産主義国家として独立したのが1949年の10月。北京の天安門前の広場では独立を祝う人々が舞い踊っていたそうです。こんなに嬉しく、華々しい思いをしたことがありません。踊り狂ったある中国人から直接聞いたことがありました。しかし運命は暗転します。毛沢東の権力維持のための闘争で人々が辛酸を甞めさせられます。特に1966年から1976年の10年間続いた「文化大革命」という内戦では知識人が迫害され一般大衆も酷い生活を強いられました。1976年、毛沢東の死の直後に四人組が逮捕され、やっと内戦が終焉したのです。華国鋒が四人組を逮捕したのですが、その政治は毛沢東の延長でした。鄧小平が華国鋒を追いやり、やっと「改革開放」の政策が始まったのが1978年のころです。

鄧小平がそれまでの鎖国を止め、外国資本、先進技術を取り入れる方向に大きく舵を切ったのです。その時から、中国政府は日中友好政策をとり始めたのです。その頃の1980年に私が中国を訪問したのです。中国人は日本人に好意を示しました。私の歓迎ぶりは度を越していました。大学の公用車を運転手とともにつけてくれます。歓迎会は学長主催で北京の北海公園内の仿膳飯店で宮廷料理を出してくれました。家内もその料理の繊細さには感嘆していました。瀋陽でも東北大学の陸学長主催で歓迎会をしてくれたのです。そして陸学長は満州国の旅順工業大学を卒業したと言いながら日本人の教官を褒めてくれました。2つの大学だけでなく、中国科学院所属の金属物理化学研究所や非鉄金属研究所でも大歓迎を受けました。しかし一歩街に出ると荒れた道路や鉄格子付きの家々が土埃に汚れています。観光地へ案内されると紅衛兵に破壊されたお寺や廟がやたらに有ります。

私の理解を超えた大混乱が中国に有ったのです。何か正体のわからない驚愕に混乱しました。

1981年に訪問したときは、それほど歓迎されませんでした。社会も少し落ち着いてきたようです。1983年に訪問したときは普通の歓迎ぶりに変わっていました。街はまだ貧しげでしたがすっかり落ち着いています。

中国が日本の工場誘致に取り組むのはそれから何年かたってからです。しかし1989年の天安門事件までは鄧小平が実権を握っていましたので改革開放路線は続きます。

その後、江沢民が国家主席になってから靖国神社問題を取り上げる政策に変化したのです。この江沢民が権力を持った約10年間位は日中関係はギクシャクしました。中国を嫌う日本人が増えたのもこの時代です。現在の中国政府は現実的な政策をとっています。鄧小平の政策の延長のようで安心です。私は中国政府の政策が全て正しいと主張するつもりは毛頭ありません。しかし個人的に体験した中国社会の劇的な変化について個人的な感想を残して置きたいと記述したものです。いまは故人となられた、瀋陽の東北大学の冀春林教授と北京科学技術大学の周栄章教授のご冥福を祈り、生前のご厚情に何時までも感謝していることを申し上げます。(終わり)


ネットの上の友人へのお詫びと、忘れ得ぬ人々への想い

2009年08月01日 | 日記・エッセイ・コラム

私は3つの社会ネットワーク・システム(SNS)の会員になっています。3つとは、みんなの足跡と、趣味人倶楽部と、BYOOLという名前のSNSです。その3つのSNSには「マイフレ」というネットの上の友人を作るシステムがあります。

会員のプロフィールや自己紹介を見て、興味のある人々へ「私と友になって下さい」と、お願いのメッセージを送ります。私は好奇心が強いほうです。マイフレが次第に増えて3つのSNSの中の「マイフレ」が合計で300人位になりました。

8月4日に手術の為に、このブログを一時中断します。中断にあたって心からお詫びをしたいことがあります。
それはマイフレさん達へ友達らしい交友が出来なかったことです。時々、マイフレさんのプロフィールや日記を拝見しましたが、多くの方々とは深いお付き合いも出来ずにこのブログを中断することになってしまいました。これは友人へ対する私の不誠実さのためです。快くマイフレになって頂いた方々へこの私の身勝手さを心からお詫び申し上げます。どうぞ寛大なお心でお許し頂ければ感謝申し上げます。

しかしその一方で何人かのマイフレさんとはお会いもし、大変深いお付き合いをして頂きました。

少し例を上げます。

「みんなの足跡」の会員の「狼皮のスイーツ」さんと「ゆき」さんです。このお二人のことは最近このブログでご紹介致しました。

「狼皮のスイーツ」さんは質の高いミステリー小説を書いています。このブログでは7月19日に、伯爵令嬢シナモン、「飛行船の殺人」をご紹介しました。http://r24eaonh.blog35.fc2.com/

ゆきさんについてはこのブログの7月24日にご紹介してあります。彼のブログのURLはhttp://fanblogs.jp/dryuki/ です。お二人に深い感謝を致します。

趣味人倶楽部では、甲州の甲斐駒の麓に別荘をお持ちの甲斐駒さんには別荘に招待して頂き大変お世話になりました。その上小生の質素な小屋まで見学に来て頂き、恐縮しています。国鉄の駅長さんの頃の色々な体験談はとても面白かったです。
その他で特筆すべきは、趣味人倶楽部のカズノコさんのご好意です。私がこの倶楽部へ入会したとき、日記の書き方や、プロフィールの書き方を御教え頂きました。毎日、好意的なコメントを頂きました。カズノコさんの水彩画を沢山楽しませて頂きました。カズノコさん、有難う御座いました。
その他、いつもコメントを下さいました、かみなりさん、やっくんさん、水木りょうさん、ヒラピンさん、yuyuさん、皆様、本当に有難うございました。

BYOOLというSNSでは、hanaさん、yokoさんとは赤坂で家内ともどもお会いし,Hiro-Tさんのジャズを一緒にお聴きしました。このお二人からは、私の日記に毎日のようにコメントを頂きました。有難う御座いました。そしてパステル画のVasenoirさん、音楽家で陶芸家のAmadeusさん、水墨画家のSEIKOさんの作品については私のこのブログへ掲載させて頂きました。有難うございました。
その他、Shionさん、Siomさん、masatoさんとはBYOOLの中で、お手紙を交換して深い印象を受けました。
それから、「めいこ」さんには実に楽しい童画のような絵画を何度も私のブログへ転載させて頂き、楽しい思い出になりました。

感謝の気持ちを込めて、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。 藤山杜人