今朝、このブログへ20世紀の欧米人の大きな失敗の記事を掲載しました。キリスト教国がキリストの教えを忘れて、お互いに血みどろの世界大戦を2度もしたという記事です。更にドイツ人のカール・マルクスは宗教を否定する共産主義理論を創り、ロシアはその理論にもとづいて共産党独裁国家を70年間も維持してきたのです。そんな欧米人が日本へ持込んできたキリスト教を何故、私は現在でも信じているのでしょうか?
欧米人だけではありません。第二次大戦中に日本のプロテスタント諸団体は戦争推進団体の大政翼賛会へ入会し戦争へ協力したのです。その上、敗戦後も長い間反省しませんでした。
このブログで2008年の11月と12月の同じテーマで数回掲載した記事があります。戦争中にキリスト教徒だった吉備野禅三さんが戦後に棄教したいきさつを数回にわたって紹介した記事です。日本のキリスト教の教団はキリスト教の神の他に「現人神」も信仰させて、若者を戦場に送りだしたのです。靖国神社でまた会うといって送り出したのです。そんなキリスト教を信用して良いのでしょうか?
更に吉備野禅三さんは言います。「テニアン基地から原爆を積んで飛び立とうとしている爆撃機のエノラ・ゲイの乗組員を従軍牧師が祝福している写真を見ました。それで若かった私は棄教を決意しました。十字軍の昔から「殺し」を神の名において義とする詭弁を現在も続けるこの宗教とは何でしょう?」
吉備野禅三さんは元毎日新聞の記者、論説委員でした。ネットの上での私の友人です。
その棄教に至る心の葛藤を読むと感動します。誠実なお人柄だからこそ悩んで、悩み抜いて棄教に至るのです。
そして私はどうなるのでしょうか?キリスト教を放棄するでしょうか?棄教して宗教抜きの人生を送るのでしょうか?そんなことは私個人のことでどちらでも良いことです。他人に迷惑をかける問題では無いので気楽にどちらかに決めれば良いのです。
答えは簡単です。キリスト教を他人の行いで判断しないことにしています。「人に躓いて、イエス様が見えなくなる」ことはよくあることです。欧米人の蛮行や大政翼賛会に協力した日本のらキリスト教集団などは全て人間の行ったことです。それを見て棄教したなら、人に躓いて棄教したことになります。私は日曜日に時々イエス様と簡単な対話をするのを楽しみにしています。イエス様を呼び寄せてくれるのは、カトリック小金井教会の山本量太郎神父様です。今日の説教はイエス様が耳が聞こえず話も出来ない人へ「エッファタ」と言って直したという奇跡の話でした。エッファタとは「開け」という意味で、耳や口が自由に開き正常になるようにという掛声だったのです。普通の人も正しく聞き、正しく話をするようにという忠告の意味もあるそうです。このエッファタの話をしている間にイエス様が降りて来たのです。山本神父様が精神を集中して説教をしている間に時々起きる現象です。
イエス様と自分の間に他の人間が居ない状態を大切にしています。私のキリスト教とはそのようなものです。ですから人間が如何に大きな間違いをしても信仰が揺らぐことがないのです。
この様な状態になるようにと他の人々へ勧める気持ちはありません。信仰は個人の勝手です。無宗教でも立派な人々も一杯居ます。人間の人生は、人それぞれです。皆様は無宗教でしょうか?仏教を信じて居ますでしょうか?神社へよく参拝に行かれるでしょうか?
どちらでも良いのですが、今日は日曜日で教会のミサへ行きましたので、私のキリスト教のことを書いてみました。ご参考になれば嬉しく思います。(終わり)