後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

テレビの酒井法子さん事件報道のあり方を非難する

2009年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム

酒井法子さんという女優が覚せい剤を使っていた。逮捕され、取り調べが終わったので釈放された。謝罪会見をした。それだけの事です。

それなのに日本のマスコミ、特にテレビは連日のように酒井さんの知られたくない個人情報を微に入り、細に入り暴きだして得意顔で報道している。その上、コメンテーターという得体の知れない人々が何やら賢げな評論をしている

他人の個人情報なんか知りたくないのです。人間の低俗な感情を掻き立てるような報道ぶりに怒りすら感じます。もっとありていに言えば自分の心に巣くっている低俗な趣味を掻き立てないで下さい!と叫びたいのです。

先日、酒井法子さんの謝罪会見をこのブログの記事として掲載しました。色々なご意見を頂きました。本人が誤っているのだから許してやれ。他の若い人々覚せい剤を使うようになるから芸能人の犯罪は特に厳しく罰っするべきだ。などごく良識的なご意見を頂きました。その他にマスコミの馬鹿騒ぎを非難するご意見も多くありました。以下にPOOさんと言う方からのコメントを、ご本人の承諾を頂きましたので、掲載します。(終わり)

====POOさんからのコメント=============

いつも、芸能界で麻薬、覚せい剤事件が出てくるたびに、ワイドショーのコメンテーターという人物が出て来て、「この人(覚せい剤を使用した人々)は芸能界を引退すべきだ」、(厚化粧しているので、)「反省の色が全く見えない」などと言う。
しかし、カメラの前で、芸能に携わった人は、カメラの前で全く化粧しない顔を見せることはあり得ないはずであるし。カメラと言うフィルタを通して見ているうちは、当の本人が喜んでいるのか、悲しんでいるのか、分かりにくくなるのが普通です。
一層分かりにくくしているのが、言っているコメンテーターという人種。サラダの中に色々なドレッシングをごちゃ混ぜに入れて、さあ食べてみろと言っているようなものです。
自分たちは、見るものの代弁者として、ここにいるだと言うような顔をして、視聴率アップしか考えていない番組スタッフの顔色をうかがうのだったら、それこそあなたたちこそ芸能界辞めなさい、と言いたい。
それに覚せい剤所持などで逮捕になった芸能界の有名人はたくさんいます。コメントが欲しいならその人たちのコメントを取ってきてみたらいいとおもいます。どうせ、取れないでしょうけども。本人のことを本当に考えるならば、一番いい事は何も映さないことです

芸能界というのは、それ自体が、普通の世界と違うと思います
十代そこそこの女の子が何千人もの人の前で半裸で見られることを良しとする訳ですから
歳を重ねてもその他大勢に潜り込むことはできない、オンリーワンであることを続けなければならないプレッシャーはあると思います
もちろん、薬物を是とすることはできません。しかし、芸能界を引退するというのも難しい事だと言いたいのです。普通の会社なら懲戒免職だと誰かが言っていました。たしかにそうです。でも普通の人は、職業を変えれば済むことです(日本のモラルはそれすら許されない一面がありますが)
芸能界に足を踏み入れた人は、「引退」 というのがものすごく難しいのです。これは、世論もそうですが、マスコミそのものに問題があるとしか、言いようがありません。
その証拠が、戦後一世を風靡して姿を消した女優さん、数年に一度、週刊誌に都市伝説のように載りますね。山口百恵さんに至っては、言うまでも有りません。
マスコミは、大衆が見たいから取材していると誤解し、大衆も一部がその騒ぎに乗り、その悪循環が続いていく。

みんな、心から薬物を憎み、その一掃をはかろうとしているのでしょうか。薬物に手を出した人物の更生を願っているのでしょうか。私はみんながそうであってほしいと願ってやみません。(終わり)


善光さんが建てた善光寺、そして三つの善光寺の関係

2009年09月20日 | インポート

今から1400年ほど前、現在の飯田市郊外(信州麻績の里)に本多善光(よしみつ)さんという人が住んでいた。

ある時、善光さんが都へ帰る国司について行った。ところが難波の堀の中から一光三尊の像を見つけて、それを拾い上げ、持ち帰った。

自宅の臼の上に像を祀り、拝んでいたところ、台座の臼が光り輝いた。それで座光寺(善光寺)を作ったという(推古天皇10年)。

それから41年ほどして皇極天皇元年に勅命によりご本尊を長野へ移し、現在の長野、善光寺が出来た。

移転した善光寺のあとには以前のご本尊と同じ形の木像をつくり、座光寺を存続させた。そのような経緯から、座光寺は元善光寺とも呼ばれるようになった。長野へ引っ越したご本尊は毎月15日には飯田の元善光寺へ帰り、麻績の里人を守ると信じられている。

簡略に言えば、善光さんが偶然、難波の堀から拾ってきた仏像で座光寺を作った。人々はその寺を善光さんが作ったので善光寺と呼んだ。ところが41年後、勅命によって善光寺は長野へ引越ししてしまった。残った寺には以前と同じ形の木像を祀り、元善光寺と呼ぶようになった。(現在はその付近の地名を座光寺という)

さて甲府市にも立派な本堂を誇る善光寺がある。この三つ目の善光寺は長野の善光寺が出来てから、約800年位後に武田信玄が長野を攻略、占領したときに権力を用いて善光寺をご本尊とともに甲府に持ってきたものである。しかし、武田家の滅亡後、ご本尊や数々の寺宝は長野の善光寺へ返された。

甲府の善光寺誕生の経緯はあまり自慢に出来ないようなことではあったが、甲州の人々の仏様を信仰する篤い気持ちによって甲府の善光寺も立派に存続しています。三つの寺とも善光さんの木像が安置されていますが、珍しく思ったのはどれにも夫人の像が同じ大きさで並べられていることです。

三つの善光寺を廻り終わって、色々な感慨を持ちます。その一つは素朴な信仰心の美しさが三つの善光寺を支えてきたということです。善光寺は仏教のどの宗派にも属せず、人々の信仰だけで存続してきたのです。(終わり)

今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。   藤山杜人

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