後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本人として玄奘三蔵法師の分骨が埼玉の慈恩寺に有ることに驚きました

2009年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム

Image11 日本人の多くは玄奘三蔵法師を尊敬していると思います。西暦650年頃、唐の都を密出国し遠くインドに経典を求める旅に出ました。生れつきの人徳も豊かだったらしく行く先々で歓迎され、大切にされました。現在、日本で広く使われているお経はほとんど全て三蔵法師がインドから持ち帰り、漢文に翻訳されたものです。

私はカトリックではありますが、昔から三蔵法師を尊敬し、色々な本を読んできました。ところが今日、偶然にもその遺骨が日本のお寺にも分骨されて信仰を集めていることを知りました。埼玉県の岩槻市にある慈恩寺の13重の塔の下に遺骨が眠っています。左の写真は慈恩寺本堂です。

現在の住職様の大嶋見順様が中国の南京から分骨されて慈恩寺へ伝わった経緯を具体的かつ克明に書いています。慈恩寺の HP:http://www.jionji.com/ を開け、左サイドバーの三蔵法師の項目をクリックするとその経緯が克明に書いてあります。

簡略に言いますと、昭和17年日本軍が南京で偶然、三蔵法師の遺骨を発見します。そのご日本政府のつくった傀儡政権の南京政府が一大法要をし、その後遺骨の一部を日本の仏教会の代表者へ与えたのです。彼は東京へ持ち帰り、東京の増上寺に預けます。しかし空襲が激しくなった東京を避け、埼玉県の慈恩寺へ疎開したのです。戦後は色々な事情で、結局、慈恩寺が遺骨を永久に祀ることになったのです。この慈恩寺の遺骨は蒋介石の依頼により、更に分けられ台湾のお寺にも安置されました。その後、奈良の薬師寺の依頼で薬師寺へも分けられています。昭和17年に南京で発見された遺骨は同時に発見された石棺の碑文や副葬品から中国側も三蔵法師の遺骨と認めているので、本物と認めて良いのではないでしょうか?

最後に慈恩寺の現在の住職様の文章を転載いたします。玄奘三蔵法師へ対する敬慕の情があふれている感動的な文章と思います。ここに謹んで転載させて頂きます。

=======慈恩寺。現在の住職様、大嶋 見順様の文章======

私は昭和53年、父見道の後を承けて慈恩寺第五十一世を継ぎました。思えば昭和25年玄奘塔建設の折、塔内へ霊骨を奉安したのも私なら、薬師寺様へのご分骨で解塔申し上げたのも、更には水晶の壷を開いて霊骨を分骨申し上げ、再び奉持して塔内へお納め申し上げたのも私であります。
建塔奉安の折、もはや再び誰の目にも触れることはあるまいと思ったことが再びおこり、しかも私自らの手に奉持し、分骨申し上げるというまことにおそれ多い、願っても与えられないことが、片田舎の住職に一度ならず二度まで与えられたということは、唯事ではない因縁を感ずるのであります。
仏教ではもののいのちは永遠であると考えられています。とすれば、1300年の昔、三蔵法師が中国からインドへの経典をもとめて大偉業の中で、過去の私がいささかの手助けをしたからこそ、今この世に人と生まれて、余人を措いて法師の霊骨を奉持するご縁をいただけたと思わずにはおれません。でなければ、仏教徒として高徳の方々をさしおいて、名もない片田舎の住職にこのような機会が与えられるはずもないでしょう。
最近は、檀信徒の方々のご理解とご協力をいただきながら、当寺も着々と整って参りました、また、玄奘法師のご威徳に関心を寄せてくださる人々も年々増えております。今後はさらに皆様のご縁をいただきながら、法師の遺徳の顕彰に努力いたしたいと考えております。
以上、因縁の不思議を感じながら霊骨をお迎えしたいきさつを記させていただきました。(終わり)出典は:http://www.jionji.com/ です


玄奘三蔵法師を守った深沙大王の名前をとった深大寺

2009年09月11日 | インポート

門前蕎麦で有名な調布市の深大寺は東京都では浅草寺につぐ古いお寺で、733年に満功上人によって創建されました。武蔵国の国分寺は760年代始め頃に完成していますので、それより20年も古いお寺です。

満功上人は玄奘三蔵法師の弟子がはじめた法相宗を学び、法師を深く尊敬していました。三蔵法師がインドへ旅した途中、西域の大河、流砂河を渡るときその河の砂の中に住む水神の深沙大王に助けられました。その経緯から満功上人はお寺の名前を深大寺として、650年には深沙大王の像を安置しました。その後、750年頃、このお寺は天台宗に変わります。その経緯は省略しますが、その関係で、991年には天台座主、元三慈恵大師の像を本尊にし、以後、江戸、明治、現在に至るまで元三大師堂は人々の信仰を集めています。

現在の深大寺の本堂は大正時代に建てられたものです。深大寺の寺領は現在の神代植物公園も含めて広大であたといいます。多数の小作人を擁し、寺領の畑には蕎麦を栽培して来ました。江戸時代は代代の将軍へソバを献上し、元三大師堂への参拝客相手のソバ屋が多数あったと伝えられています。現在も参道にはソバ屋が並んでいます。

下の写真は上の説明に従って、上から順に、現在の「深沙大王堂」、「元三大師堂」、「深大寺本堂」、そして現在の「門前町のソバ屋の様子」を示しています。

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富士山中腹からの風景写真をお楽しみ下さい

2009年09月11日 | 写真

昨日は手術後34日目です。傷の痛みも無くなりましたので体力回復のために富士山の5合目まで車で上がり、6合目の下まで1時間ほど登りました。家内と道の脇の岩に座り、雄大な風景を楽しみながら持参のオニギリの昼食をとりました。その後、また1時間ほどかけて写真を撮りながらゆっくり降りてきました。晴れ上がった空に白い雲が湧き、なかなか雄大な風景でした。東から北へ向かって、奥秩父の山波、八ヶ岳が横たわっています。そしてその左手には、甲斐駒から北岳、間の岳、農鳥岳と続く南アルプスの山々が、北から西へと連なって青く輝いていました。

富士山の中腹の写真を4枚お送り致します。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。   藤山杜人

下の写真は富士山、吉田口からスバルライン3合目から見た河口湖です。

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下の写真はスバルライン終点の5合目の駐車場から見上げた富士山頂です。

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下の写真は山中湖の写真です。5合目と6合目の中間では雲の下の山中湖がよく見えます。

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下の写真は6合目の下にある防災センター近くの礫石の急坂とダケカンバの向こうに湧き上がる雲の様子です。

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