御釈迦さまは死は空である。お墓を作るな。仏像も作るな。偶像崇拝はしてはいけないと言い残して死んで行ったのです。そのお釈迦様を尊敬し1000年以上たってから玄奘三蔵法師がインドへ17年も滞在し膨大な数の経典を唐に持ち帰り漢文へ翻訳したのです。玄奘も死ぬ時、墓を作るなと言って死んだに違いありません。ですから遺骨は長安の東の郊外の白鹿原に葬られ、664年に風栖原へ改葬されたのです。しかし残った人々がお釈迦様の教えに背いて、669年には玄奘の遺骨を葬るために現在の西安市の南20kmの所に興教寺を建て、寺の中に5層の仏舎利塔を作り、その根元に改葬しました。
仏教の本来の教えでは遺骨やお墓にこだわるのはいけない事と思います。しかし凡俗な私は玄奘の遺骨にこだわりたいのです。彼は単なる宗教家ではありません。類まれな探検家、旅行家、文化人類学者です。不撓不屈の精神の持ち主だったのです。私はそのような彼を心底から尊敬しています。その人の遺骨が埼玉県の慈恩寺に有るのですから興奮せざるお得ません。しかしその真贋を学問的に考察すると、本物だという証明が弱すぎるようです。そのことはこのブログの9月15日に掲載した記事で説明致しました。記事の題目は「埼玉県、岩槻の慈恩寺にある玄奘三蔵法師の遺骨に関する一考察」です。
さてこの遺骨を発見したのが昭和17年に南京を占領していた関東軍の高森部隊でした。部隊長は金沢出身の高森隆介氏であったといいます。高森部隊長は日中両国の専門家に鑑定を依頼したのです。その結果、前述のように玄奘三蔵法師の頂骨であるとされたのです。(9月15日の記事参照)。
発見の翌年の昭和18年の2月に、関東軍は遺骨と副葬品一式を中国側の南京政府へ返したのです。南京政府は日本の傀儡政府で、蒋介石の政府は重慶にありました。南京政府は壮大な奉迎式典を開催し、昭和19年には南京市の玄武山に玄奘塔を建てます。この塔の建設発起人は南京政府の外務大臣の緒民誼と日本の駐支大使の重光葵がなっています。そして完成した10月に盛大な式典が挙行され、その折に分骨され(南京政府の)日中友好の証として日本仏教連合会へ贈呈されたのです。東京の増上寺に安置された遺骨が埼玉県の慈恩寺へ移動した経緯は9月15日の記事で詳細に書きました。
玄奘三蔵法師の遺骨の一部というものが埼玉県の慈恩寺の玄奘塔に祀られる間には、第二次大戦中の日本の軍隊と南京政府、そして日本の駐支大使館が深く関係した経緯があったのです。
唐の西安かた遺骨の一部を南京へ持って来た演化大師とその弟子たち。そして埼玉の慈恩寺の大嶋見道住職と見順住職の父子などの信仰の美しさに私は感動を覚えます。
しかし関東軍や南京政府、そして日本の駐支大使館(日本政府)の不純な政治的思惑が見え隠れしてゐるようで暗い気持ちになります。戦後、台湾へ退却した蒋介石へ遺骨の返還を申し出たが返すに及ばないと言われてという話も伝わっています。
遺骨の真贋と日本軍による発見は学問的には関係がありませんが、なにか一抹の不安が残ります。きっと当時は色々な人間ドラマが繰り広げられたのでしょう。日本軍の北京進駐とともに「北京原人の頭蓋骨」が行方不明になったことを連想させるので一層不安になるのでしょうか? 臭いものに蓋をしないで埼玉の玄奘三蔵法師の遺骨にもっと真摯な学問的研究がなされることを切望しています。これは私だけの感じ方でしょうか?皆様はいかがお考えでほうか?(終わり)