後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

宮沢賢治の作品を気楽に読む(7)数多くの旅をしていた宮沢賢治

2012年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム

宮沢賢治は農業技術者として学生を指導し、農民へ土壌改良や肥料の使い方を教えました。そしていろいろな同人誌へ詩や童話を発表した文学者でした。また法華経を信奉する国柱会という宗派の宣教活動もしていました。

貧しい農民を助け、悲しむ人々を詩や童話で慰め、佛教を広めようとしたイーハトーブ地方の人だったのです。

生前、彼の作品は2つの自費出版の本と数多くの同人誌に発表されただけです。彼が一般の人々のあいだで有名になったのは死後のことです。

彼は意外にも数多くの旅をしていたのです。花巻、盛岡、東京の三ケ所は何度も何度も往復していました。京都、奈良、知多半島へも旅しました。

伊豆の大島や、はるかな樺太まで船の旅をしています。その記録を簡単に纏めてみました。

その前に彼の略歴を整理しておきます。

======賢治の略歴=================

1896年(明治29年)岩手県、花巻市生まれ。

1909年(明治42年)旧制盛岡中学校入学

1914年(大正3年)旧制盛岡中学校卒業

1915年(大正4年)盛岡高等農林学校入学

1918年(大正7年)盛岡高等農林学校卒業、続いて研究生になる。

1920年(大正9年)研究生を修了し、盛岡高等農林学校を離れる。

1921年(大正10年)東京の仏教団体、国柱会に入信し、宣教活動をする。

      この年の11月から花巻農学校の教師になる。

1926年(大正15年)3月で花巻農学校を依願退職。直ぐに羅須地人協会を

      設立し農民の直接指導を始める。上京しタイプやエスペラントやセロを

      習う。

1927年(昭和2年)警察の取り調べを受けて、羅須地人協会を解散する。

       その後2年余は自宅で病気療養をする。

1931年(昭和6年)岩手県一関市にあった東北砕石工場の技師になる。

             石灰肥料を製造販売する事業に参加する。

1933年(昭和8年)9月21日急性肺炎で亡くなる。

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以上のような生涯でしたが、この一生の間に賢治は数多くの旅をしています。

年次順に示します:

===賢治の旅の記録===(筑波書房「宮沢賢治全集第11巻より)===

明治42年(1909年)花巻から盛岡中学校の寄宿舎へ移住する旅。

明治43年(1910年)岩手山に登る旅。

明治44年(1911年)平泉へ修学旅行。

明治45年(1912年)金華山と石巻への修学旅行。

大正2年(1913年)北海道へ修学旅行。

大正5年(1916年) 盛岡高等農林学校の修学旅行として、3月に東京、奈良、

              渥美、知多、箱根などを旅する。

              同じ年の8月に東京への旅。そして秩父地方と三峯地方を

              旅する。12月、再び東京へ旅する。

大正6年(1917年)スキーを習い、冬は盛岡近辺を散策する旅を盛んにする。

             7月には釜石、宮古、山田などの海岸地方へ旅をする。

             8月、岩手県江刺地方の地質調査の旅に出る。

大正7年(1918年)12月、東京で病気になった妹トシの看病のため東京へ旅を

             する。当時、トシは東京の日本女子大学に在学中でした。

大正10年(1921年)1月、国柱会へ入信する為に東京への旅。

              4月父と共に伊勢、比叡山、奈良地方へ旅をする。

大正12年(1923年)1月、東京への旅。

              そしてその後、樺太まで旅をする。

大正13年(1924年)8月、花巻農学校の生徒を引率して北海道への修学旅行

              の旅。

大正14年(1925年)上京し高村光太郎を訪問。草野心平と文通を始める。

              この年、弘前へ数回旅をした。

大正15年(1926年)上京し、エスペラント、オルガン、セロ、タイプライターの

               個人授業を受けた。

昭和2年(1927年)、上京して、詩「自動車群夜となる」を創作する。

昭和3年(1928年)、6月、上京して「高架線」「浮世絵」「丸善階上喫茶室小景」

              などを書いた。また伊豆大島へ旅して詩「三原三部」を

              書いた。  

昭和6年(1931年)9月、東北砕石工場の石灰の製品見本を持って上京する。

========旅の終りです==========

昭和8年(1933年)38歳、肺炎にて逝去。父へ法華経1000部を配布することを遺言としてのこします。

埋葬は日蓮宗身照寺。分骨は妹トシの遺骨と共に国柱会廟所にもある。戒名は、国柱会からおくられた真金院三不日賢善男子です。

賢治は何故この様に数多くの旅をしたのでしょうか?彼の体の中から突き上げる旅への憧れがあったに違いありません。

その様子は実弟の清六さんが「幼時の追憶」に書いています。続編でご紹介致します。(続く)   


雨が続くので気分が晴れるように残雪に輝く山々の写真をお送りします

2012年05月03日 | 写真

この4月に撮った浅間山、八ヶ岳、甲斐駒岳の写真です。残雪に輝く姿をご覧になって気分が晴れ晴れするようにと祈っています。

まず佐久平から撮った浅間山の写真です。よく噴煙を上げていますが、この日は見えませんでした。標高2568mです。4月8日に写しました。

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下は噴煙を上げている様子です。浅間山画像検索からお借りしました

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次は野辺山高原から見上げた八ヶ岳の風景です。4月8日に写しました。

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そして中央の主峰の写真です。標高2899mの赤岳です。

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次は北杜市武川町から見た甲斐駒岳です。標高2967mです。4月29日に撮りました。

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上の写真の左に続くアサヨ峯の尾根です。

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如何でしょうか?写真をクリックすると大きな画面になります。

気分爽快になるように祈っています。


人権よりお金が欲しい中国人の本音・・・今日の新聞ニュースから

2012年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム

北京のアメリカ大使館へ逃げ込んだ人権活動家、陳光誠氏(40歳)を、アメリカ側は中国政府に引き渡しました。陳光誠氏とその家族に暴行を加えないという約束を取り付け、アメリカの大使が北京の病院まで陳氏の治療入院に付き添って行ったというニュースが今朝の新聞に載っていました。

2012050200000008rcdc0000view1 左の写真が陳氏です。彼は山東省の農村にある自宅に軟禁されて、地方の共産党員の暴行を受けていたと言われています。

今朝の新聞によるとアメリカ大使館は一人の中国人の人権よりも今日から始まる米中戦略・経済会議を重視し、中国政府の面子を立てたのです。

何故、こういう結末になるのでしょうか?

中国の人民が人権よりもお金が欲しいからです。中国共産党独裁政権は、「人権運動は国内騒乱を引き起こす」、「そうすれば現在の経済繁栄が大混乱する」と主張するのです。そう主張する中国政府を大多数の人民が熱烈に支持するからこういう結末になったのです。

しかし私にはそういう中国人の気持ちが痛いほど分かります。

私は文化大革命で荒れ果てた中国を見ています。それは4人組が逮捕された後の1981年でした。北京の町々にはゴミが溢れ、汚れた人民服を着た栄養の悪い人々が溢れていました。道路に面した家々の窓には、紅衛兵の乱入を防せぐ頑丈な鉄格子が取り付けてあります。それは殺伐とした光景でした。

そして語ることは、文化大革命で下放された時の苦難の体験と、内戦の悲惨さでした。

ここからは私が中国人になったと自分自身で信じて本音を書きます。

文化革命で疲弊した我々を助けたのは鄧小平の市場経済政策です。中国を団結させ、経済発展を実行したのは共産党です。独裁政権だからこそ出来たことです。

中国5000年の歴史で人民がこんなに豊かに食べられるようになったのは初めての事です。その上、中国のGDPが世界2位にまで成長したのです。高速道路も新幹線も出来、自家用車が手に入るようになったのです。

人権なんか要りません。そんな事を考える暇があったらお金を儲けましょう。お金の魅力を知ってしまった私には政治的自由や人権など必要ありません。政治的な権力や人権すら、「ある程度なら」お金で買えるのです。

もう一つ、中国人の私の怨念を言いましょうか?

人権、人権と騒ぐ欧米人にはそれを言う資格などありません。清朝末期から香港をぶん取り、上海や北京に租界を作った欧米人は中国人の人権を踏みにじった張本人なのです。上海の公園には「犬と中国人は入る事を禁ず」という看板があったのです。

そんな欧米人がいまさら人権などと言うのはチャンチャラおかしいのです。

それからもう一つ言えばアメリカは内政干渉をしすぎです。台湾問題、チベット問題、ウイグル族問題、これら全ては国内問題なのです。アメリカが一々干渉するたびに私は怒りで身が震えるのです。

さて上に書いた文章の中のアメリカという部分を日本と置き換えて見ましょう。

そうすると日中関係を中国人がどのように考えているかが客観的に理解出来ます。イエス様が「敵を愛せ」と言いましたが、それは人間には不可能です。人間に出来ることは敵の気持ちを考えてみることぐらいです。

それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)