宮沢賢治は農業技術者として学生を指導し、農民へ土壌改良や肥料の使い方を教えました。そしていろいろな同人誌へ詩や童話を発表した文学者でした。また法華経を信奉する国柱会という宗派の宣教活動もしていました。
貧しい農民を助け、悲しむ人々を詩や童話で慰め、佛教を広めようとしたイーハトーブ地方の人だったのです。
生前、彼の作品は2つの自費出版の本と数多くの同人誌に発表されただけです。彼が一般の人々のあいだで有名になったのは死後のことです。
彼は意外にも数多くの旅をしていたのです。花巻、盛岡、東京の三ケ所は何度も何度も往復していました。京都、奈良、知多半島へも旅しました。
伊豆の大島や、はるかな樺太まで船の旅をしています。その記録を簡単に纏めてみました。
その前に彼の略歴を整理しておきます。
======賢治の略歴=================
1896年(明治29年)岩手県、花巻市生まれ。
1909年(明治42年)旧制盛岡中学校入学
1914年(大正3年)旧制盛岡中学校卒業
1915年(大正4年)盛岡高等農林学校入学
1918年(大正7年)盛岡高等農林学校卒業、続いて研究生になる。
1920年(大正9年)研究生を修了し、盛岡高等農林学校を離れる。
1921年(大正10年)東京の仏教団体、国柱会に入信し、宣教活動をする。
この年の11月から花巻農学校の教師になる。
1926年(大正15年)3月で花巻農学校を依願退職。直ぐに羅須地人協会を
設立し農民の直接指導を始める。上京しタイプやエスペラントやセロを
習う。
1927年(昭和2年)警察の取り調べを受けて、羅須地人協会を解散する。
その後2年余は自宅で病気療養をする。
1931年(昭和6年)岩手県一関市にあった東北砕石工場の技師になる。
石灰肥料を製造販売する事業に参加する。
1933年(昭和8年)9月21日急性肺炎で亡くなる。
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以上のような生涯でしたが、この一生の間に賢治は数多くの旅をしています。
年次順に示します:
===賢治の旅の記録===(筑波書房「宮沢賢治全集第11巻より)===
明治42年(1909年)花巻から盛岡中学校の寄宿舎へ移住する旅。
明治43年(1910年)岩手山に登る旅。
明治44年(1911年)平泉へ修学旅行。
明治45年(1912年)金華山と石巻への修学旅行。
大正2年(1913年)北海道へ修学旅行。
大正5年(1916年) 盛岡高等農林学校の修学旅行として、3月に東京、奈良、
渥美、知多、箱根などを旅する。
同じ年の8月に東京への旅。そして秩父地方と三峯地方を
旅する。12月、再び東京へ旅する。
大正6年(1917年)スキーを習い、冬は盛岡近辺を散策する旅を盛んにする。
7月には釜石、宮古、山田などの海岸地方へ旅をする。
8月、岩手県江刺地方の地質調査の旅に出る。
大正7年(1918年)12月、東京で病気になった妹トシの看病のため東京へ旅を
する。当時、トシは東京の日本女子大学に在学中でした。
大正10年(1921年)1月、国柱会へ入信する為に東京への旅。
4月父と共に伊勢、比叡山、奈良地方へ旅をする。
大正12年(1923年)1月、東京への旅。
そしてその後、樺太まで旅をする。
大正13年(1924年)8月、花巻農学校の生徒を引率して北海道への修学旅行
の旅。
大正14年(1925年)上京し高村光太郎を訪問。草野心平と文通を始める。
この年、弘前へ数回旅をした。
大正15年(1926年)上京し、エスペラント、オルガン、セロ、タイプライターの
個人授業を受けた。
昭和2年(1927年)、上京して、詩「自動車群夜となる」を創作する。
昭和3年(1928年)、6月、上京して「高架線」「浮世絵」「丸善階上喫茶室小景」
などを書いた。また伊豆大島へ旅して詩「三原三部」を
書いた。
昭和6年(1931年)9月、東北砕石工場の石灰の製品見本を持って上京する。
========旅の終りです==========
昭和8年(1933年)38歳、肺炎にて逝去。父へ法華経1000部を配布することを遺言としてのこします。
埋葬は日蓮宗身照寺。分骨は妹トシの遺骨と共に国柱会廟所にもある。戒名は、国柱会からおくられた真金院三不日賢善男子です。
賢治は何故この様に数多くの旅をしたのでしょうか?彼の体の中から突き上げる旅への憧れがあったに違いありません。
その様子は実弟の清六さんが「幼時の追憶」に書いています。続編でご紹介致します。(続く)