後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

昔の甲州街道の小原宿、吉野宿、鶴川宿を訪ねる小さな旅

2012年05月30日 | 旅行記

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甲州街道は徳川幕府が設置した街道の一つで江戸と甲州を結んでいる。関東地方の五街道は甲州街道、奥羽街道、日光街道、中仙道、東海道。全て重要な街道である。

江戸から大月までの甲州街道の宿場を順に記せば、新宿、高井戸、布田、府中、日野、八王子、駒木野、小仏、小原、与瀬、吉野、関野、上野原、鶴留川、野田尻、犬目、鳥沢、猿橋、大月となる。

2008年6月10日は梅雨の一休みで晴天であったので車をゆっくり走らせて、旧甲州街道の小原宿、吉野宿、鶴留川宿の3宿を散策して来た。本陣を保存し、歴史展示館のあるのもあるが、何も無く、昔の通りが有るだけのところもある。

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現在の甲州街道の大垂水峠を越し、相模湖町へ近づくと、右手に大きな「小原の郷」という歴史展示館がある。駐車場は無料で広い。そこから100m位歩いたところに小原宿本陣がある。よく手入れされ、公開している。展示館と本陣の2階部分もお見逃し無く。

最後から2枚目の写真は高島藩、高遠藩、飯田藩などの大名の泊まった部屋の写真で、「控えの間」の奥の8畳間が泊まった部屋。随分と狭い所に泊まったものと感心したので撮ってきた。入場料はいずれも不要。

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吉野宿は現在の藤野町にあり、JR藤野駅に近い。甲州街道を相模湖に沿って走って行くと本陣であった吉野浦(はじめ)氏の家が右にあり、その向かいに「吉野宿ふじや」 という看板の出ている歴史展示館がある。説明をしてくれた地方歴史家から聞いた話。承久の乱(1221年)で鎌倉側に負けた後鳥羽上皇側の主な貴族や武将がこの桂川流域に配流されたので大和、京都の地名が残ったという。JR中央線の高尾、大原(現在は小原)宿、吉野宿、付近の嵯峨野、奈良本、など現在の地名は承久の乱の後に配流された人々がつけたという。歴史的検証を一番深くされた方が、現在でも本陣に住んでいる吉野浦氏と聞き、後日、電話をした。いつでも詳しい話をして上げますから来て下さい、とのお言葉を頂く。天気の良い日に参上しようと思っている。

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鶴留川宿は現在の甲州街道の上野原町を通り過ぎて上野原警察署の前の切通うしの坂を下り、左へ曲がるところで右折して鶴留川の川原の方角へ下る(交差点は信号が無く、右折可であるかは不明。要注意!)。その下る道が旧甲州街道である。鶴留川の橋を渡った処に写真に示したような「鶴留川宿」という石碑が立っている。そこを上ると宿場町のような、でも現代風の家並みが道の両側に続いている。

本陣の建物も、展示館も一切無い。昔の、街道であった道が一本あるだけである。静かな町なのでしばらく散策していると当時の様子が何となく想像できる。(終わり)

撮影日時:2008年6月10日午後1時から3時。尚、展示館「吉野宿ふじや」の電話番号は、042-687-5022である。吉野浦(はじめ)氏へお会いしたい方は此処の取次があると良い。(終り)


過酷なキリシタン弾圧の悲劇を大切に伝えている神津島のローカル文化

2012年05月30日 | 日記・エッセイ・コラム

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(写真の出典:http://runo345.btblog.jp/

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神津島には過酷なキリシタン弾圧の悲劇を大切に伝承しているローカル文化があります。

海が綺麗で風光明媚な島として東京の人々が観光に訪れます。

そして自然の美しさだけでなく、キリシタンだった朝鮮の人、ジュリアを敬愛している不思議な文化に感銘を受けて帰って来ます。

ジュリアの悲劇を理解して頂くためには、江戸幕府の250年間にわたる恐怖のキリシタン弾圧の歴史を考える必要があるのです。

キリシタンとして捕まった朝鮮出身のジュリアは、むごい拷問にあっても絶対に棄教しなかったのです。ジュリアは秀吉の朝鮮遠征のとき日本の武将によって連れて来られたのです。その事情のためか磔の刑を免れて神津島への遠島の刑を言い渡されます。

神津島でジュリアは罪人にも拘わらず人々の生活向上の世話をして島民に愛されます。島民に尊敬され、親切にかくまわれます。

江戸時代はキリシタンへ親切にしたり、尊敬した人々はキリシタンと同罪の罰を受けます。

ですから神津島の島民はジュリアを尊敬している事は絶対に秘密にしなければいけません。幕府の役人の拷問を想像して恐れました。それは島の人だけの恐怖の秘密だったのです。明治維新までの250年間の絶対的な秘密だったのです。

時代は明治、大正、昭和と流れて行きましたが、この秘密は現在でも、何故か島民が大切に言い伝えているのです。そのような島民の美しい心情を感じさせる孤島への旅でした。この背景を知った上で以下の記事をお読み頂ければ嬉しく思います。

=====2009年11月27日掲載の神津島への旅日記=========

2006年に満70歳になったので仕事を一切止めた。前々から行きたいと思っていたロマンチックな土地を訪ねる旅をはじめた。まず、伊豆七島の神津島へ遊びに行った。東京から高速水中翼船で4時間、遥か外洋に浮かぶ小さな火山島。山ばかりで平地が無い。船の着けられる簡単な桟橋が島の東西の両側にある。風向きによってどちらかを選ぶ。一人旅の気安さで島の民宿に投宿する。燗酒を傾けつつ、宿の主人から島の昔話を聞く。明日、見物すべきところも説明しくれる。そして、急に声をひそめて言う、 

「朝鮮風の石碑が岬に有りますよ。おたあジュリアの墓です」 

「それは誰ですか?」 

「小西行長が朝鮮征伐のとき連れ帰った娘です。日本に来てからキリシタンになったのでここへ流された女です。当時の島の人々を助け勇気づけたので女神のように思っている人が多いです」 

「何故そんなに声をひそめて喋るのですか?」 

「おたあ、を島の人々が始めは、助けて保護したのです。キリシタンを助ければ幕府から重い処罰を受けます」 

「それで?」 

「おたあ、は立派な女です。元気になると島の人々の面倒を良くみたのです。困った人の相談に乗り、人々を勇気づけました。皆尊敬し、おたあは本当に優しく賢い女だったのです」 

「分かりました。でも今はキリシタンへの弾圧もない自由な時代です。何故小さな声で話すのですか?」 

「島の人々は今でもおたあ、のことを尊敬しています。小さな声で話すことで尊敬の念をあらわしているつもりなのです。まあ、つまらない話かもしれませんが」 

「神津島の人々だけの小さな秘密ですね?」 

「まあ、秘密って程でもありませんよ」とニコニコし、宿の主人が満足げな様子である。 

現地へ行ってみないとローカルな歴史は分からないものと再度、感じいった。 

帰宅して調べてみた。おたあ、は3歳の時、日本へ連れて来られ、アウグスチノ小西行長の幼女となり、洗礼を受け、ジュリアという名を授かる。関が原の合戦の後、小西は石田三成とともに三条河原で斬首される。 

家康の側室の侍女となったが家康の言いなりにならない。桃山、江戸、駿河と移され、禁教令と共に神津島へ流刑になった。慶長17年、1612年のことである。小西行長の友人の石田三成一族も神津島へ隠れ住み、ジュリアを助けたという話もある。 

毎年、神津島おたあジュリア顕彰会などの主催で「ジュリア祭り」がある。カトリック東京大司教区と韓国のカトリック教会が共同でジュリアあたあの慰霊祭も同時に行っている。 

尚、ジュリアの最後には諸説があって、神津島から天国へ昇ったのかは定かではない。

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上の写真4枚は上列左がジュリアの姿、その右が神津島にある記念塔(お墓と想定されていた)。下列左は韓国、切頭島へ神津島から引っ越したジュリアのお墓(1972年日韓の友情による移設)、その右の写真は荒れる太平洋の波の様子です。なおジュリアの姿絵は、http://shl.holy.jp/text_gospel/julia.html から転載しました。(続く) 

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

毎年、5月になるとジュリア祭りが現在でも開催れています。下は2010年のジュリア祭りの案内です。

今年も5月8日に神津島でジュリア祭りが開催されました