昨日、田舎には江戸時代から連綿と続く封建的な考えかたがあって人間関係が息苦しいという記事を書きました。「個人の自由と平等を圧殺する田舎社会・・・何故若者が都会に出るか?」と題する記事です。
それでは大都会に出て来て、就職し、家庭をもった若者の運命はどうなるのでしょう?
都会は自由です。若者の個性を尊重します。恋愛も結婚も自由です。
しかし家庭を持つと運命が変わります。どうしても住むマンションや家を郊外に持つようになります。毎朝、毎夜、通勤地獄に苦しめられます。
通勤地獄の恐さは肉体的な苦痛だけでないのです。
個人の尊厳がメチャクチャにされる1時間から2時間なのです。それが朝夕毎日2回です。電車の中だけでありません。乗り換えの駅の人の多さに個人が埋没してしまうのです。
例えばラッシュ時の渋谷駅、新宿駅、品川駅で電車を乗り換える場面をご想像下さい。
地味な同じような色の背広を着た男が通路を溢れながら、奔流のように流れて行きます。個人の尊厳なんて悠長ことなど言っていられません。
昔、アメリカの研究者を何度も東京の研究所や会社へ案内しました。
時間どうりに着くためには電車が一番確実です。ところがアメリカ人の研究者は例外なく電車に乗るのを非常に嫌がります。
そこで、ある親しいアメリカ人にクドクド聞いたことがあります。
彼が怒ったような口調で言います。
「他人が自分の体を押すのは大変失礼で、酷い侮辱を受けた気分になる。個人の尊厳が踏みにじられる。これこそが、日本に個人の自由がない証拠だ!」と言うのです。
そうです。こんなに明快に言うことは出来ませんでしたが私自身も通勤時の押しあいへしあいで感じていたことです。それをアメリカ人はもっと強烈に感じていたのです。
それ以来、欧米人の研究者をいろいろな大学や会社へ案内する時は、朝早く出て自分の車で一緒に行くようにしました。
しかしどうしても車が使えない場合もあります。その場合は混んだ電車をやり過ごすのです。通勤者の奔流のある通路は避けて、遠うまわりして空いている通路を歩きます。
さて、この苦しみから逃れる方法は、息苦しい都会から脱出し、地方の小さめの都市に住むことです。
特にいけないのは札幌、東京、名古屋、京都、大阪、福岡などの大都会です。都市が大きいのでどうしても通勤時間が長くなるのです。
通勤に自分の車が使えたり、電車やバスを使う場合でも短時間で済む小さな都市が良いと思います。
北海道の旭川、仙台、つくば研究学園都市、長野、静岡、神戸、高知、鹿児島などの都会は通勤地獄が無さそうです。あっても東京、名古屋、大阪のような酷さではありません。
さてこの記事の挿絵にしようと通勤電車の混んだ場面の写真を探しました。なかなか見つかりません。
そこで住み良さそうな神戸の風景画を下に示します。私も神戸に1年住みましたが、とくにトーア・ロードというロマンチックな雰囲気の通りが好きでした。
その風景画を挿絵がわりに掲載します。戦没画学生の杉浦基司さんが描いた油絵で、「神戸東亜ロード」という題がついた絵です。戦争中だったのでトーア・ロードは東亜ロードになっています。
この絵画の下に転載した、妹さんの兄の思い出を是非お読み下さい。
田舎暮らしでも都会暮らしでも生きているだけでも良いと感じざるをえません。最後になって、
上に描いた文章はまったく無意味だというような気分にさせる挿絵を出したことを後悔しています。
しかし実は「田舎暮らしが良いか?都会暮らしが良いか?」という記事には続編を書くつもりがあるのです。「職場の人間関係と転職の自由」と「人間の自由と宗教」の2つは是非書いて見たいと思っています。
原稿が出来たら明日以降に掲載したいと考えています。
それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。
後藤和弘(藤山杜人)
・・・・・・杉浦基司、「神戸東亜ロード」・・・・・・・・・・・・・・・・・・
杉原基司さんは神戸生まれ、東京美術学校を卒業し、戦闘機に乗りました。昭和20年2月16日、厚木飛行場の上空で来襲して来た米軍機と空中戦をし、激墜され戦死しました。享年23歳でした。
・・・・・・戦死した後で妹が書いています。・・・・・・
水泳部で派手に水しぶきをあげていた兄。
ガラスの窓にドクロの絵を描いて妹の私を泣かせた兄。
クラシックと讃美歌しかなかったわが家でジャズやクンパルシータを初めて聞かせてくれた兄。
そんな兄が、美校を卒業して海軍予備学生となり、
沢山の兵隊さんが死ぬゼロ戦を志願したのは、やっぱり持ち前の好奇心
”飛行機に乗りたい”と思ったからでしょうか?
昭和20年2月16日、、、、厚木上空に初めて米軍戦闘機が来襲したとき
兄は23歳の生命をちらしました。
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絵と文章の出典は以下の通りです。
NHKきんきメディアプラン発行、「無言館 遺された絵画」2005年版、123ぺージ
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