先日、富士山の北口浅間神社の下のような写真を掲載しました。
所が後で調べて分かったのですが、北口浅間神社は本来、浅間大菩薩を祀る神仏習合の宗教施設だったのです。
それが明治維新直後の廃仏毀釈で仏教関係の施設や文化遺産が徹底的いに破壊しつくしたのです。それは驚異的にも徹底した破壊活動でした。ですから上の写真は江戸時代の様子ではなかったのです。江戸時代にはもっと絢爛豪華な仏教的な建物が取り巻いていたのです。
そこで廃仏毀釈運動の全体像を調べ始めました。そうしたら構成も内容もしっかりした素晴らしい2つのブログへ行きつきました。
以下にその2つのブログのURLをご紹介して、その導入文の一部を転載させて頂きました。
初めのブログには参考文献も5編ついています。立派な研究報告書です。
====第一のブログ============
http://www.d1.dion.ne.jp/~s_minaga/myoken43.htm
明治維新の神仏分離及びその行き着く先としてほとんど自明のことであった廃仏とは、一体何だったのだろうか、どういう思想でそれは行われたのだろうか、あるいはその主体は一体誰だったのか、そしてその破壊のエネルギーは 一時的であったにせよ、その源はいかなる訳なのか等々疑問に思います。
一般論としては、唯一神道家・平田派・後期水戸学などの影響を受けた後期国学者などの狂気であったことは分かりますが、なぜ一部神道家や国学者の狂気が一時的にせよ、全国に波及していったのか、結果的にはほとんど挫折したにせよ、なぜ その狂気が許されたのか、その具体的なところはどうだったのか云々については良く理解できていないというのが正直なところです。
但馬帝釈寺(日光院)の神仏分離もある日突然、帝釈寺を襲った訳ではなく、その当時の大きな時代の奔流の中で、全国各地で行われたことの一コマであったと思われます。
一コマとは「大したことではない」という意味ではなく、「明治初頭の神仏分離政策とは、現象としては、千年とか何百年とかの連綿とした信仰や伝統や風習などがほとんど一瞬にして暴力的に破壊される 」というものであった。
寺院神社は勿論のこと、村々の小祠・辻堂までも破壊の対象となり得るものであったし、大なり小なり佛教的な存在は神仏分離という名の廃仏の影響を受けたと思われます。
但馬帝釈寺もその中の一つで、しかも寺院の消滅を宣告されるという「狂気の例」という意味です。
そこには、なんらかの政治・宗教的勢力があり、その勢力は何らかの政治・宗教的意図を持っていたはずです。
それゆえ、帝釈寺の神仏分離を考える前提として、一体誰が・何を目的として、どのような手法で行ったのかなどを、以下の著作から、探ってみました。
(A)「神道の思想 第2巻神祇制度編」梅田義彦、雄山閣、昭和49年
(B)「神々の明治維新」安丸良夫、岩波新書、1979
(C)「現代神道研究集成(三)」神道史研究編2、神社本庁、平成10年
(D)「現代神道研究集成(七)」神道思想研究編、神社本庁、平成11年
(E)「神仏分離の概観」辻善之助、「明治維新神仏分離資料」所収
「<出雲>という思想」原武史、講談社学術文庫、1518、2001
結論的に云えば
明治維新の神仏分離や廃仏毀釈の意味は単に神を仏から分離し、仏を廃するという意味ではなくて、記紀神話や延喜式神名帳に記された神々に歴代天皇や南北朝期の功臣を加え、要するに神話的にあるいは歴史的に皇統と国家の功臣を神とし、底辺に産土神を配し、それ以外の神仏は廃滅の対象とするというのがその意味であった。
======第二のブログ=========
http://www.plantatree.gr.jp/oragafuji/maps/list.cgi/itsuwa/arekore/?52
徳川幕府が富士講を邪教視して、たびたび禁令を出してこれに規制を加えようとしたことはすでに記した。そうであれば、明治元年(一八六八)、明治維新によって徳川幕府が崩壊したことは、庶民たちの富士講にとっては歓迎すべき出来事であったかもしれなかったのだが、実際にはそのようには事は運ばなかった。
明治初年のいわゆる「廃仏毀釈」によって、富士山にあった仏教系の要素、その文化財が壊滅的な打撃を受けたのである。富士山の本体は、それまで「浅間大菩薩」と呼ばれていて、浅間=富士の神と仏教の菩薩の合わさった、典型的な神仏習合の名称であった。明治政府は、神仏習合の典型的な呼称、「八幡大菩薩」を禁ずるとともに、富士山の「浅間大菩薩」という名称も禁止した。
こうした廃仏毀釈の動きの中で、富士宮浅間神社の大宮司に、明治六年、平田篤胤(ひらたあつたね)の国学を信奉した薩摩出身の宍野半(ししのなかば 一八四四~八四)が就任し、強引とも言える廃物運動を富士全山で繰り広げることになる。富士吉田の浅間神社には、享保年間(一七一六~三六)に食行身禄を凌ぐような勢威を誇った江戸小伝馬町の富士行者、村上光清が寄進した仏教系の諸堂宇、護摩道や仁王門があったが、この廃仏の嵐(あらし)の中で破壊される。梵鐘(ぼんしょう)は胴の中に薪を詰めて火をつけて溶かし、打ち毀したという。仁王門の仁王の手足は鋸引きにしてバラバラにして焼き捨てられた。富士吉田浅間神社は、武田氏時代や江戸初期に建てられた神道系の社殿は今日も壮麗な姿をとどめているが、江戸後半期、富士講が最も栄えた頃の神仏習合的な境内の有様は、明治以後消失したのである。
こうした富士山における廃仏毀釈時の仏像などの破壊、棄却は「山掃除」と呼ばれたほどに徹底的なもので、現在でも富士山の古い登山道沿いの山中からは、首のない観音像や大日如来、懸け仏などが、しばしば出土するという。
廃仏毀釈において最も大きな打撃を被ったのは、修験道と関係の深い寺院であるが、富士山もまたその例外ではなかった。新興の富士講などに押されながらも、幕末までは、富士宮浅間神社と並ぶ勢威を保っていた村山口の興法寺も、この廃仏毀釈で最後のとどめを刺された形となって、衰退というより、終焉の時を迎える。今日の神道系の神社の姿だけを見たのでは、往年の富士山信仰の半ばを見たことにしかならないのである。
また、宍野半は、富士信仰の宗教改革も志して神道扶桑教を組織するが、江戸後期の富士講の隆盛からみれば、ごくこぢんまりとした一宗派になってしまった、という観を否めないであろう。むしろ、富士山周辺の宗教ということで言えば、廃仏毀釈のときの弾圧、破壊の対象となった日蓮宗系の寺院の隆盛が、最も現代において印象的な現象であるだろう。
富士講自身の運命について言えば、富士講は信仰集団でもあるが、同時に江戸の庶民にとっては何年に一度しか行けない富士登山を実現させるための、積立金を管理する経済集団でもあり、十日もかけて徒歩で旅をする、自発的な規律を持った巡礼旅行団体であった。
富士講自身の周辺の交通が、東海道本線の開通(御殿場(ごてんば)、沼津、静岡など富士近辺は、明治二十二年〔一八八九〕)、中央本線の開通(富士吉田への分岐点大月(おおつき)駅の開業は明治三十五年〔一九〇二〕)、さらには富士馬車鉄道の富士吉田までの開通(明治三十六年〔一九〇三〕)、富士山麓電気鉄道(現在の富士急行線)の開業(昭和四年〔一九二九〕)と、近代的な高速交通機関が東京から富士山への道を次々に切り開いていくと、旅行団体としての富士講の存在基盤が急速に掘り崩されていくことになった。近代科学文明は、中世的な修験道の富士登山、近世的な富士講による富士登山の終焉をもたらすことになったのである。明治に入ると、富士山は宗教抜きの観光地、避暑地として東京の人々に注目されるようになるのである。(中央公論新社刊「富士山ー聖と美の山」中公新書より)
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