筑摩書房は宮沢賢治全集を11巻出版しています。第一巻は昭和34年4月8日発行で第十一巻は昭和34年の5月10日です。巻ごとに順次発行されたのではなく人気の高い童話を集めた第十巻などは昭和33年に発行されています。この全集を見ると筑摩書房の編集者が精魂込めて宮沢賢治の作品を研究し、異なる原稿や推敲のあとを丁寧に調べています。そして各巻末にその研究結果を付記しています。
そして全11巻は作品の出来上がった年代順に編集されています。しかし賢治は原稿を並列して何篇かを書きながら推敲を続けて行くので作品の完成年次が決めかねるのです。しかし筑摩書房の配列順はおおむね作品の完成順と考えても大きな間違いが無さそうです。
さて第十巻の内容を見てみましょう。
「ポラーノの広場」、「グスコーブドリの伝記」、「オッペルと象」、「銀河鉄道の夜」、「風の又三郎」、「セロ弾きのゴーシュ」、「北守将軍と三人兄弟の医者」が第十巻に入っています。みな賢治の傑出した作品です。
そして童話集として多くの人々に愛されている「注文の多い料理店」は第八巻に入っています。
ところが第1巻から第7巻までに編集されて作品は一般にはあまり知られていません。ただ一つ、「春と修羅」(第一集)の無声慟哭だけは有名です。
このブログでは、あまり有名でない賢治の作品を読んでみるという目的で作品をご紹介して来ました。
何故、それらが有名でないかを考えると宮沢賢治の全体像が見えて来るのではないかと思っています。有名で面白い作品だけを選んで読んでいては宮沢賢治の実像は理解出来ないのではないかと思っています。
そこで筑摩書房のそれぞれの巻の内容を見て見ましょう。
第一巻:和歌 冬のスケッチ
第二巻:春と修羅 第一集、同じく第二集、及び未発表原稿・異稿
第三巻:春と修羅 第二集 続及び異稿
春と修羅 第三集 及び異稿
第四巻:春と修羅 第三集 続及び異稿、同じく第四集、及び異稿
東京 三原三部 装景手記
第五巻:文語詩 定稿・未定稿・異稿 疾中
第六巻:家長制度 泉ある家 大礼服の例外的効果 イーハトーボ農学校の春
龍と詩人 他43編
第七巻: 三人兄弟の医者と北守将軍 めくらぶどうと虹
楢ノ木大学士の野宿 よだかのの星 他16編
第八巻:注文の多い料理店 猫の事務所 けだもの運動会
さるのこしかけ どんぐりと山猫 他22編
第九巻:なめとこ山の熊 雁の童子 他19編
第十巻:「ポラーノの広場」、「グスコーブドリの伝記」、「オッペルと象」、「銀河鉄道の夜」、
「風の又三郎」、「セロ弾きのゴーシュ」、「北守将軍と三人兄弟の医者」
第十一巻:農民芸術概論 浮世絵版画の話 他並に書簡集
以上のように兎に角作品数が膨大なのです。1924年(大正13年)の4月に生前はじめての詩集、「春と修羅」を出版し、12月に第二の出版として、童話集、「注文の多い料理店」を出します。
この2つの本は辻潤が褒めましたが、一般的には有名になりませんでした。その後、賢治は1933年に37歳で病死するまで本を出版していません。
しかし膨大な作品を書き溜めていたのです。この間、1921年(大正10年)から1926年(大正15年)の5年間、花巻農学校の先生をしながら作品を書き続けていたのです。
賢治の作品を手当たりしだいに読んでいると「イーハトーブ」とか「イギリス海岸」という不思議な地名が出てきます。
イーハトーブは岩手県のことです。「いはて」とロシア語の地名の末尾によくつく、「トーボ」という言葉をつなげた賢治の作った言葉です。岩手県の気のきいた呼び名として現在はいろいろな場合に使われています。岩手県と言わないでイーハトーブと言うと何故かロマンチックな響きがします。
イギリス海岸のことは第六巻の中の「イーハトーボ農学校の春」の次に「イギリス海岸」という題目の作品で詳しく書いてあります。
花巻農学校の夏の農業実習の間に生徒達を連れて賢治がよく遊びに行った北上川の岸辺です。場所は北上川と猿ケ石川の合流点より少し下流の西岸にありました。
そこには青白い凝灰質の泥岩が一面に広がっていて、川岸とは見えません。
賢治は持ち前の空想力を発揮してその岸辺をイギリス海岸と命名します。きっとイギリスのドーバーの白い崖の連なる海岸を連想していたのかも知れません。
そして地質調査をして、そこが第三紀の頃に実際、海の渚だった証拠を見つけます。第三紀の頃の貝殻の化石や植物の化石を見つけたのです。
さらに何度も遊びに行っている間に第三紀の頃の偶蹄類動物の足跡が化石になっている所を見つけたのです。農学校の生徒達とその足跡の化石を大きく掘り出して、農学校へ標本として持ち帰るのです。
花巻農学校での生徒達との交流は明るくて楽しいものでした。その楽しい思い出に繋がっているのが北上川の花巻付近にあるイギリス海岸なのです。(続く)