後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本人の手で全世界を佛教国にするという発想は悪くない・・・そして宮沢賢治のこと

2012年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

世界中の国を佛教国にして、全ての人類に法華経を信奉させる活動をする団体に国柱会があります。

欧米のキリスト教国が世界中をキリスト教国にしようとして数千、数万の宣教師を世界の果てまで送ったのです。

自分の信ずる宗教が一番良いと信じたら他人へも他国へも薦めたくなるのが人情です。ごく自然なことです。

全世界を日本人の手で佛教国にしようとは実に壮大な発想です。その国柱会のことを再度考えてみたいと思います。先日の記事、宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か? をもう一度ご覧頂ければ嬉しくおもいます。田中智学氏の発想は現在でも評価すべき側面を持っていると思います。

法華経を世界に広めようとする動機は間違っていません。それがもう少し大きな活動になれば現在のキリスト教圏とイスラム圏との間の不毛な争いを中和し、人類はもう少し賢くなる可能性を暗示しているようです。

問題は布教の方法です。かつての日本の軍部のように武力を使って日本の勢力圏を作り、そこに法華経を広めようとしてはいけません。

宮沢賢治はそれを肯定していなかったと思います。むしろ布教は、自分の立派な行動で、すなわち困った人々を助けることですべきだと信じていたのです。ですからこそ「雨ニモマケズ」という詩になったのです。他人に感動を与えるような行動を持続させて人々が法華経に帰依するようにするのが自然です。それ以外の布教の方法は絶対にしてはいけません。

かつての日本の満州国建国や大東亜戦争を支持した国柱会の会員だった宮沢賢治のことを考える時、「布教の仕方」の違いを考慮に入れるべきと思います。

国柱会は現在でも存在しています。武力を使った布教を否定して、本来の宗教活動を続けているのです。

本来の宗教活動には政治運動は絶対に含まれません。そのことは南米で一時流行った「解放の神学」がローマ法王に否定され、やがて消滅した事実でも明らかです。

その紹介は、2009年10月5日掲載の記事、宗教団体が反戦運動をしない理由 に御座います。

神父たちが教会で祈ってばかりいても南米の貧困層は無くなりません。実際行動を起こして彼等を貧困から解放しようとした神父たちが居たのです。

1979年、ニカラグワで共産主義者と神父たちが協力して革命を起こし、政権を握りました。数名の神父がその共産党政権の大臣になったのです。ローマ法王は神父たちの聖職を剥奪します。

しかし革命に参加した神父たちの気持ちは尊敬出来ます。出来れば革命に参加する前にローマ法王へ辞表を出して、一介の人間として革命に参加すべきだったとも思います。

宗教家が世の中を良くするためには絶対に武力や政治力を使ってはいけません。

それをしてしまうと人間の真の救済が出来なくなってしまうのです。

くどくどと勧誘することも言葉の暴力です。布教は言葉でするものではないのです。感動的な行為を持続することで行うべきなのです。宮沢賢治はそのようにしました。詩や童話を沢山書きましたが法華経を信じよとは絶対に書きませんでした。

しかし彼の書いた童話には仏教の倫理観が流れています。この世のはかなさや悲しみが暗示されています。そして善い動物や人間は幻想的な星々の世界へ登って行くのです。涅槃の境地に登って行くのです。

宮沢賢治はたぐいまれな善い仏教徒でした。(終り)


今年もジャーマンアイリスが咲きました・・・そして庭の花々も

2012年05月09日 | 写真

今年もジャーマンアイリスが咲きました。そして小さな庭にも花々が例年通り、季節がめぐると咲きます。もう少しで潮来から持って来たアヤメも咲くでしょう。こうして静かに時が流れて行きます。

花々の写真をお楽しみ下さい。

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宮沢賢治の作品を気楽に読む(9)「雨ニモマケズ」は法華経から生まれた詩

2012年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム

宮沢賢治の遺した手帳より

昭和6年(1931年)11月3日

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ

丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシズカニワラッテイル

一日ニ玄米四合ト

味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノ陰ノ

小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ

行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ

行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ

行ッテコワガラナクテモイイトイヒ

北ニケンクヤソショウガアレバ

ツマラナイカラヤメロトイヒ

ヒデリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズ

クニモサレズ

サウイフモノニ

ワタシハナリタイ

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手帳の中には上の詩のあと数編の作品があり、その後に以下の書き込みがあります。

為菩提 平賀ヤギ

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

南無妙法蓮華経

そして続けて、

くらかけ山の雪

友一人なく

ただわがほのかにうちのぞみ

かすかなのぞみを托するものは

麻を着

けらをまとい

汗にまみれた村人たちや

全くも見知らぬ人の

その人たちへ

たまゆらひらめく

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法華経はこの世に生きる全てのものが等しく涅槃の境地に入る様にお互いが助けあうことを教えています

この法華経の教えにしたがい賢治は人々の苦しみや悲しみを少なくしたいと思っていたに違いありません。思っただけでなく静かに手助けをし続けたのです。東北地方の冷害で苦しむ農村で。

法華経をひろめたかったのです。その布教の方法は声高く説法したり、論争することではありません。静かな、遠慮深い行動で、賢治は法華経を人々へ伝えかったのかも知れません。

たった一つの例外は父親との論争や口論でした。

その父親へ賢治は臨終のとき法華経を1000部刷り、知人へ贈ることを頼みます。その言葉を父はを褒めたのです。賢治は弟の清六へ、「やっと父に褒められた」と言って、喜んで旅立って行ったのです。

のこされた父は賢治の遺言通り法華経を1000部刷り、いろいろな人へ贈ったのです。賢治が世話になった人々へ送りながら、のこされた父の悲しみが少し和らいだことと思います。賢治の最後の親孝行だったかも知れません。賢治の死後、18年たってこの父は真言宗から法華経の日蓮宗へ改宗したのです。

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それはそれとして、

今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)