世界中の国を佛教国にして、全ての人類に法華経を信奉させる活動をする団体に国柱会があります。
欧米のキリスト教国が世界中をキリスト教国にしようとして数千、数万の宣教師を世界の果てまで送ったのです。
自分の信ずる宗教が一番良いと信じたら他人へも他国へも薦めたくなるのが人情です。ごく自然なことです。
全世界を日本人の手で佛教国にしようとは実に壮大な発想です。その国柱会のことを再度考えてみたいと思います。先日の記事、宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か? をもう一度ご覧頂ければ嬉しくおもいます。田中智学氏の発想は現在でも評価すべき側面を持っていると思います。
法華経を世界に広めようとする動機は間違っていません。それがもう少し大きな活動になれば現在のキリスト教圏とイスラム圏との間の不毛な争いを中和し、人類はもう少し賢くなる可能性を暗示しているようです。
問題は布教の方法です。かつての日本の軍部のように武力を使って日本の勢力圏を作り、そこに法華経を広めようとしてはいけません。
宮沢賢治はそれを肯定していなかったと思います。むしろ布教は、自分の立派な行動で、すなわち困った人々を助けることですべきだと信じていたのです。ですからこそ「雨ニモマケズ」という詩になったのです。他人に感動を与えるような行動を持続させて人々が法華経に帰依するようにするのが自然です。それ以外の布教の方法は絶対にしてはいけません。
かつての日本の満州国建国や大東亜戦争を支持した国柱会の会員だった宮沢賢治のことを考える時、「布教の仕方」の違いを考慮に入れるべきと思います。
国柱会は現在でも存在しています。武力を使った布教を否定して、本来の宗教活動を続けているのです。
本来の宗教活動には政治運動は絶対に含まれません。そのことは南米で一時流行った「解放の神学」がローマ法王に否定され、やがて消滅した事実でも明らかです。
その紹介は、2009年10月5日掲載の記事、宗教団体が反戦運動をしない理由 に御座います。
神父たちが教会で祈ってばかりいても南米の貧困層は無くなりません。実際行動を起こして彼等を貧困から解放しようとした神父たちが居たのです。
1979年、ニカラグワで共産主義者と神父たちが協力して革命を起こし、政権を握りました。数名の神父がその共産党政権の大臣になったのです。ローマ法王は神父たちの聖職を剥奪します。
しかし革命に参加した神父たちの気持ちは尊敬出来ます。出来れば革命に参加する前にローマ法王へ辞表を出して、一介の人間として革命に参加すべきだったとも思います。
宗教家が世の中を良くするためには絶対に武力や政治力を使ってはいけません。
それをしてしまうと人間の真の救済が出来なくなってしまうのです。
くどくどと勧誘することも言葉の暴力です。布教は言葉でするものではないのです。感動的な行為を持続することで行うべきなのです。宮沢賢治はそのようにしました。詩や童話を沢山書きましたが法華経を信じよとは絶対に書きませんでした。
しかし彼の書いた童話には仏教の倫理観が流れています。この世のはかなさや悲しみが暗示されています。そして善い動物や人間は幻想的な星々の世界へ登って行くのです。涅槃の境地に登って行くのです。
宮沢賢治はたぐいまれな善い仏教徒でした。(終り)