日韓関係を意図的に悪くしようとする日本人が多くいることに心が痛みます。
私は韓国人が好きです。尊敬しています。そこで日韓関係を良い方向へとしようとした人々のことをご紹介したいと思っています。
その一人は田内千鶴子さんです。韓国の木浦(モッポ)で孤児院を運営していた田内千鶴子さんのことです。木浦市は釜山の西にある小さな港町です。
3000人の孤児を育てあげたのです。1950年代に育てられた孤児の皇さんが田内さんをオモニと呼びます。「オモニは病気の子供がいれば、夜通し抱いていたよ」と彼女の献身ぶりを涙をにじませて話したそうです。
田内さんは1912年に高知市で生まれ1968年に56歳で亡くなりました。
千鶴子さんは7歳で日本領だった朝鮮に渡り、1938年に共生園という名前の孤児院を作っていた牧師の尹致浩(ユン・チホ)さんと結婚し、夫の仕事へ献身的に打ち込みました。
その夫は朝鮮動乱(1950年から1953年)の食料難の時代に孤児たちの食料を求めて荒廃した韓国をさまよい、遂に行方不明になってしまうのです。私の想像では北朝鮮の兵士に射殺されたか拉致されたのかもしれません。
その時、木浦の共生園には500人の孤児がいたのです。田内千鶴子さんはその500人の孤児の食料を探し、調達し、育て上げたのです。その500人に続いて2500人、合計3000人の孤児を育て上げ1968年に56歳の若さで旅たち天国に上ったのです。
木浦市は市民葬で千鶴子さんへ感謝しました。
現在は夫だった尹致浩さんとともにイエスさまの膝もとから、長男の基(もとい)さんが立派に共生園をつぎ日韓両国で弱者救済事業をしている様子を見下ろしています。完全に韓国人になりきっていた千鶴子さんでしたがガンで死ぬ直前に息子の基(もとい)さんへ「日本の梅干しが食べたい」と言ったそうです。
この千鶴子さんへ対して韓国政府は1963年に日本人としては初めて「国民勲章」を贈ったのです。1963年とは日韓国交正常化の2年前で、韓国内には反日感情が渦巻いていた時代です。朴大統領は、「私たちが北朝鮮と狂った戦争をしているとき、彼女は同じ民族でもない子供を守った人類愛の人だ」と讃えたそうです。
私はネットで田内千鶴子さんのことを検索していろいろ調べて見ました。「韓国、木浦市共生園」をキーワードにして検索すると実に多くの情報があります。その中から以下に一つだけご紹介します。
=====共生福祉財団80年の歩み============
http://www.kokorono.or.jp/tiduko/kyousei80.html
----------------- 尹致浩・千鶴子、そして尹基へ
1928年、韓国が民族受難の時代にあった日本植民地時代。キリスト教伝道師尹致浩(ユン・チホ)が木浦で、7人の孤児と共に生活を始めたのです。貧しい生活の中、共生する孤児が増えていく中、朝鮮総督府の官吏の娘として木浦にいた日本人、田内千鶴子が尹致浩の活動に共鳴し、共生園での奉仕をスタートします。やがて2人は夫婦になり、大勢の孤児らの父と母になった。だがその後、子どもたちの食料を調達に行った尹致浩が行方不明に。遺された千鶴子は夫の遺志を継ぎ、韓国に留まり56歳で生涯を閉じるまで3千人もの孤児らを育てあげたのです。
千鶴子の思いは長男の尹基(ユン・キ、現こころの家族理事長)に引き継がれ、韓国では共生福祉財団として発展しています。
日本では、尹基が理事長となって在日韓国老人ホームを作る会、そして社会福祉法人「こころの家族」が活動、祖国を離れたお年寄りにふるさとのぬくもりをを感じせる老人ホームを建設するという、画期的な試みを続けています。
田内千鶴子の生涯は映画「愛の黙示録」(1995年)で広く知られることになった。下にこのHPから写真を転載いたします。
キリスト教の強い信仰心と人間愛を貫き通す尹に、同じクリスチャンとして共鳴した田内千鶴子は、周囲の反対を押し切って結婚。田内千鶴子が一人娘だったので、尹致浩は田内家に入籍。
音楽教師だった千鶴子。共生園ではいつも、子どもたちの元気な歌声が響いていた。
新婚間もない尹基と文枝。子どもたちと共に。
今日も、共生園には子どもたちの元気な笑顔があふれている。
木浦共生園:
園長:鄭 愛羅(チョン・エラ)
所在地:(530-845)韓国全羅南道木浦市竹橋洞473番地
Tel:061-242-7501 Fax:061-243-7503
E-mail:ksw7501@daum.net
お問い合わせ
社会福祉法人こころの家族Tel 072-271-0881 〒590-0142 大阪府堺市南区檜尾3360-12
尹 基(ユン・キ)
韓国・木浦で孤児達の施設「共生園」を創始した伝道師・尹致浩を父に、その妻であり尹致浩のあとを継いで共生園を守り続けた田内千鶴子を母として生まれた。社会福祉法人こころの家族理事長。母の生涯を著した「愛の黙示録/母よ、そして我が子らよ」は映画化され、多くの人の感動を得た。「梅干しとキムチ」に象徴されるはじめての日韓共生の老人施設「故郷の家」は現在4施設となり、日本の福祉に新しい風を送り続けている。
私は韓国人が好きです。尊敬しています。そこで日韓関係を良い方向へとしようとした人々のことをご紹介したいと思っています。
その一人は田内千鶴子さんです。韓国の木浦(モッポ)で孤児院を運営していた田内千鶴子さんのことです。木浦市は釜山の西にある小さな港町です。
3000人の孤児を育てあげたのです。1950年代に育てられた孤児の皇さんが田内さんをオモニと呼びます。「オモニは病気の子供がいれば、夜通し抱いていたよ」と彼女の献身ぶりを涙をにじませて話したそうです。
田内さんは1912年に高知市で生まれ1968年に56歳で亡くなりました。
千鶴子さんは7歳で日本領だった朝鮮に渡り、1938年に共生園という名前の孤児院を作っていた牧師の尹致浩(ユン・チホ)さんと結婚し、夫の仕事へ献身的に打ち込みました。
その夫は朝鮮動乱(1950年から1953年)の食料難の時代に孤児たちの食料を求めて荒廃した韓国をさまよい、遂に行方不明になってしまうのです。私の想像では北朝鮮の兵士に射殺されたか拉致されたのかもしれません。
その時、木浦の共生園には500人の孤児がいたのです。田内千鶴子さんはその500人の孤児の食料を探し、調達し、育て上げたのです。その500人に続いて2500人、合計3000人の孤児を育て上げ1968年に56歳の若さで旅たち天国に上ったのです。
木浦市は市民葬で千鶴子さんへ感謝しました。
現在は夫だった尹致浩さんとともにイエスさまの膝もとから、長男の基(もとい)さんが立派に共生園をつぎ日韓両国で弱者救済事業をしている様子を見下ろしています。完全に韓国人になりきっていた千鶴子さんでしたがガンで死ぬ直前に息子の基(もとい)さんへ「日本の梅干しが食べたい」と言ったそうです。
この千鶴子さんへ対して韓国政府は1963年に日本人としては初めて「国民勲章」を贈ったのです。1963年とは日韓国交正常化の2年前で、韓国内には反日感情が渦巻いていた時代です。朴大統領は、「私たちが北朝鮮と狂った戦争をしているとき、彼女は同じ民族でもない子供を守った人類愛の人だ」と讃えたそうです。
私はネットで田内千鶴子さんのことを検索していろいろ調べて見ました。「韓国、木浦市共生園」をキーワードにして検索すると実に多くの情報があります。その中から以下に一つだけご紹介します。
=====共生福祉財団80年の歩み============
http://www.kokorono.or.jp/tiduko/kyousei80.html
----------------- 尹致浩・千鶴子、そして尹基へ
1928年、韓国が民族受難の時代にあった日本植民地時代。キリスト教伝道師尹致浩(ユン・チホ)が木浦で、7人の孤児と共に生活を始めたのです。貧しい生活の中、共生する孤児が増えていく中、朝鮮総督府の官吏の娘として木浦にいた日本人、田内千鶴子が尹致浩の活動に共鳴し、共生園での奉仕をスタートします。やがて2人は夫婦になり、大勢の孤児らの父と母になった。だがその後、子どもたちの食料を調達に行った尹致浩が行方不明に。遺された千鶴子は夫の遺志を継ぎ、韓国に留まり56歳で生涯を閉じるまで3千人もの孤児らを育てあげたのです。
千鶴子の思いは長男の尹基(ユン・キ、現こころの家族理事長)に引き継がれ、韓国では共生福祉財団として発展しています。
日本では、尹基が理事長となって在日韓国老人ホームを作る会、そして社会福祉法人「こころの家族」が活動、祖国を離れたお年寄りにふるさとのぬくもりをを感じせる老人ホームを建設するという、画期的な試みを続けています。
田内千鶴子の生涯は映画「愛の黙示録」(1995年)で広く知られることになった。下にこのHPから写真を転載いたします。
キリスト教の強い信仰心と人間愛を貫き通す尹に、同じクリスチャンとして共鳴した田内千鶴子は、周囲の反対を押し切って結婚。田内千鶴子が一人娘だったので、尹致浩は田内家に入籍。
音楽教師だった千鶴子。共生園ではいつも、子どもたちの元気な歌声が響いていた。
新婚間もない尹基と文枝。子どもたちと共に。
今日も、共生園には子どもたちの元気な笑顔があふれている。
木浦共生園:
園長:鄭 愛羅(チョン・エラ)
所在地:(530-845)韓国全羅南道木浦市竹橋洞473番地
Tel:061-242-7501 Fax:061-243-7503
E-mail:ksw7501@daum.net
お問い合わせ
社会福祉法人こころの家族Tel 072-271-0881 〒590-0142 大阪府堺市南区檜尾3360-12
尹 基(ユン・キ)
韓国・木浦で孤児達の施設「共生園」を創始した伝道師・尹致浩を父に、その妻であり尹致浩のあとを継いで共生園を守り続けた田内千鶴子を母として生まれた。社会福祉法人こころの家族理事長。母の生涯を著した「愛の黙示録/母よ、そして我が子らよ」は映画化され、多くの人の感動を得た。「梅干しとキムチ」に象徴されるはじめての日韓共生の老人施設「故郷の家」は現在4施設となり、日本の福祉に新しい風を送り続けている。